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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

第3回 レヴィ・ストロース『悲しき南回帰線』(講談社学芸文庫)

待っていても、アマゾンのリンクが直らないようなので、たまりにたまった書評を書いていきたいと思います。

この本の存在はもちろん、それこそ中学生くらいから知っていたのですが(僕の中学、高校生時代は構造主義ブームでした。)、そのときに構造主義の解説本をあれこれ読んだせいで、なんとなくわかっている気になっていて、その後レヴィ・ストロースの著作を読むことはありませんでした。この歳になってようやく読んだわけですが、感想としては、この本をもっと早くに読んでいなかったことをとても後悔しました。(これもまたブログで記事にして書きますが、読書をするときの大切な心がけは「誰かの思想について書かれた本」を読むのではなく、その当の本人の書いた本を読む、ということです。たとえばカントについて何冊もの解説書を読む暇があったら、カントの本を一冊読むほうがよほど実りがあると思います。それをつい初学者は「難しいのでは」と避けてしまうわけですが、それらの歴史に残るテキストの方がはるかに内容が豊かであり、また(ここが重要なのですが)解説書にまとめきれないような様々な他の要素を含みます。解説書はその元のテキストを「こういうことを言おうとしているのだ!」と勝手に定義して切り取ってくるわけですが、その解釈は当然時代によって変わります。しかし、そのテキストがなぜ人間の歴史に残らざるを得なかったかは、実はそういう解釈の外にあることが多いと思います。たとえるなら、解説書を読んで元のテクストを読まない、というのは、ベストアルバムだけ聞いて、そのアーティストについて理解した気になるようなものだと思います。何が「ベスト」か、という話です。)

前半の各部族についての分析と考察はもちろん、それが貴重な資料的価値をもつ、という以上に彼の本質へと切り込んでいく考察力が感じられる、とても素晴らしいものです。彼らの習慣や風俗の細部に対して意味を見出し、考察していくそのアプローチは感動的ですらあります。

しかし、今回初めて読んで、僕が圧倒されたのは、最後の何章かです。ここではまさに、優れた社会学や文化人類学のテクストという範疇を超えて、「なぜ社会学が必要であるのか」「なぜ文化人類学が必要であるのか」という社会学や文化人類学の存在意義についての彼なりの非常に説得力のある洞察がなされています。社会学や文化人類学というのは、しばしば非常に興味深すぎるがゆえに、興味本位からなされてしまう学問なのではないかと僕は思っています。しかし、レヴィ・ストロースはそれを、私たちが、そこに産み落とされてそれを当たり前だと感じているこの社会を相対化していくために必要であるのだ、という社会学や文化人類学の目的を示したのだと言えます。

その社会学や文化人類学の目的である「自分の社会の相対化」とは、もちろん自分の社会に当たり前に内在してしまっている暴力への批判のツールとともに、まさにルソーが『社会契約論』で描いていた、「人間が社会状態で生きざるを得ないとしたら、何が正当なものとして認められうるのか」という問いそのものです。そのような考察は今までの社会への批判のツールとして機能してきた、というだけではなく、これから未来永劫、人類が社会を形成していく中で必ず陥りがちな様々な暴力に対しての批判のツールとなりうる、ということでもあるのです。ルソーが理想的で正当な社会とは何かを考えることで、現存の社会の不当性に目を向けさせる努力をしたのと同じように、です。よくある誤解として、ここでの「ルソーの理想とする社会が成立したら全体主義的でおそろしい」とかがあるのですが(カール・ポパーもこのように誤解していました)、あれは永遠に完成しないものですし、そもそも正当な社会がどう成り立ちうるのかについてのルソーの考察が全て正しいわけではありません。部分的におかしいところはたくさんあるのだと思います。しかし、そのような「社会状態における理想」を考えることこそが、現存する社会の欠点を批判する運動の絶えざる源泉となりうる、ということが彼が『社会契約論』で描きたかったことだったのだと思います。まさにレヴィ・ストロースはそのメッセージを真正面から受け取り、ルソーの時代にはヨーロッパ人には到達することのできなかった地域に入り、ヨーロッパとは違う進歩の道筋を考察し、そして人間社会の普遍的条件とは何か、そこにどうしても含まれてしまう暴力とそれを克服するために何が必要であるのかについて、懸命に考察したと言えるでしょう。

個人的にはレヴィ・ストロースのルソーへの理解、『社会契約論』の必要性とそこに至るまでのルソーの思想の歩みが、僕がルソーを読んで考えたのと同じように記されていた、という感動もありました(僕は学部の頃、ルソー研究をしたかったのですが、ルソーの研究書を読み漁れば漁るほどに絶望していました。こんなに何も理解できていないものが「研究」として評価されるのなら、あまり研究者になっても仕方がないなあ、と。あの頃に、このレヴィ・ストロースのルソー理解について読んでいれば!全く勉強不足というのは恐ろしいものです。この本の中ではディドロとルソーの根本的な違いについても触れられていますが、これも本当にレヴィ・ストロースのいうとおりで、僕もゼミの先輩の院生に「ルソーを自分もやろうと思ったんだけど、ルソーは研究多いからディドロからルソーにつなげたいと思ってディドロをやっている。」と言われて、「ディドロとルソーなんて、似て非なるもので、思想として共有できるものなんか一つもないのに!」とその理解の浅さを耐え難く思ったという体験を思い出しました)。

また、他にも(といって挙げ出すとキリがないのですが)、レヴィ・ストロースが文字のない社会の酋長に文字を書いて見せたところ、その酋長だけは部族の他の構成員と違って、文字を使うということの「政治的意味」を察知し、もちろんフランス語なんかわからないのだけれども、同じ部族の仲間の前では(自身の権威を増進するために)フランス語の文字の意味を解し、それで彼ら文化人類学者とコミュニケーションがとれているかのように振る舞った、というエピソードも極めて示唆の多いものでした。

本当におすすめの本です。何より、「この本の概要は解説書とかで知ってるからいいや。」という大学生のときの僕のアホみたいな失敗を、若い皆さんには繰り返してほしくないと思います。

もちろん、「未開の奥地」も物理的にはなくなりつつある現代において、私たちが自分たちの置かれた社会の必然性と偶然性、その社会の伴う、なくすことのできる暴力となくすのが難しい暴力への考察はレヴィ・ストロースのようにはもうできないのかもしれません。ある意味で、文化人類学とはショック療法のようなもので、皆が自分たちとはまるで違うかのように見える「未開の奥地」という社会を初めて知り、それについて学ぶ中で見える共通点と相違点から自らの社会について考える、というのはエキゾチズム、あるいはサイードの言葉を借りれば、オリエンタリズムがあるからこそできる手法であると言えるでしょう。「こんな遠くの、一見全く違う発達をしてきた人々の社会との共通性が!」という感動はその「遠さ」を実感できる時と、あまりその遠さを実感できなくなってからとでは説得力が変わってくるものです。すなわち、相互の「違い」を感じることができるからこそ、共通部分についての感動が深くなります。その意味では、「300万年に実は火星に移住していた人類と同じ起源をもつ生物の社会もまた地球上の人類社会とこのような共通点が!」みたいなことがなければ、このようなアプローチは難しいかのように一見思えるかもしれません。

しかし、ヨーロッパ人が反省するのに、南米の奥地までいかねばならないことについて、レヴィ・ストロースもまた批判的であるように、地球人が自分たちの批判をするのに火星まで行くことが必要であるのなら、それは絶望でしかないでしょう。反省や考察に必要なのは、そのような自分たちの社会にとっての絶えざる外部を求め続けるエキゾチズムではなく、自身の所属する社会の様々な前提について、徹底的に疑っては考察していく力なのではないでしょうか。そのこともまた、このレヴィ・ストロースの本は感じさせてくれる(彼自身もそのような「外のものをもってくることで初めて相対化できる」という安直な考え方には批判的であったと思います)、という意味では文化人類学の始まりでありながら、しかし文化人類学にとどまらない可能性を示してくれるのではないでしょうか。

翻って、日本では、ですね。自らの足りないところに気づくために「アメリカでは」「ヨーロッパでは」を繰り返してしまいがちなところは、明治期以降のもはや習慣なのでしょうが、それをやっている以上はいずれ行き詰まります。むしろ、日本が直面している課題には様々な「課題先進国」ともいえる課題・難題がたくさんあるのですから、それに真正面から取り組むことを(広く外部に学ぶことは排除しないまでも)自らの頭で疑い、考えていくことこそが大切であると思います。将棋の羽生名人のように、「難解を楽しむ」(by豊島将之七段)ですね!
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