嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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にんじんの食べさせ方。

読み終えてたまっている本の書評を書きたいのですが、このFC2ブログでのアマゾンリンクがまだ復旧していないので、仕方なく教育のことについてまた書こうと思います(しつこいようですが、実は学習塾なのです!)。

さて、にんじんの嫌いな子供に栄養面からにんじんを食べさせたい!と思う時、次のうち、どのようなアプローチがベストでしょうか。

①子供の好きなメニューににんじんを細かく刻んで少量だけ入れて、気づかないように食べさせる。後からにんじんが入っていたことを伝え、「にんじんって結構美味しいでしょ!」と伝える。
②こどもが嫌いなにんじんの調理法を避け、にんじんの美味しさが一番引き立つ調理法を考え、にんじんはこういう風に美味しいんだよ!と伝える。
③にんじんのもつ栄養素をとることの大切さ、さらにそれをただ味や風味が気にくわないだけで食べないことのもつデメリットを伝え、「だからにんじんを食べよう!」と言って放置する。

こんな読みやすさもへったくれもない長文ブログですから、シンキングタイム(このthinking は動名詞ですね!これは生徒への説明に使いやすそうです。)なんてとらずに書いていこうと思います。
一般に上手く行きやすいのは①から③の順に上手く行きやすいでしょう。こどもの思い込みとは非常に強いものです。たとえば③のようなアプローチでこどもを説得できると思っているのは(特に男親はついこのような失敗をしがちですが)大きな勘違いで、そもそもこどもにとっての嫌いな「にんじん」、というのはもはや記号化された象徴としてのにんじんであるため、にんじんの味が美味しいかどうか、ましてやそれに栄養があるかどうかなんてこどもにとってはどうでもよいわけです。「にんじんという(自分が嫌いな)ものを食べさせられる」という状況自体が子供達にとっては嫌なことであるわけですから、気づかないように食べさせては、その心理的ハードルを下げていく、ということが一番良いということになります。

しかし、これで全てが解決するほど単純ではないのが、人を育てる、ということの難しさです。子供達は成長していかなければなりません。そして、成長をする過程で自分が嫌いだけれども必要なものを、気づかれないように自然に摂取させてくれるようなお母さんのような存在を教師や会社の上司に求め続けていく、というのは極めて難しいでしょう。というか、ほぼ無理なことです。あるいは運良くそのような人々に恵まれて行ったとして、果たしてそのように育てられた人間は、そもそも「力のある人間」であるのか、という問題が残ります。幼児ににんじんを食べさせるためには先の①、②、③の順に成功する確率が高かったわけですが、それをいつまでも続けていけば、その幼児は自分から苦手なものへは取り組むことのできない、極めて脆弱な人間にならざるを得ません。

だからこそ、教育においてはこの順番はまるっきり、逆になります。たとえば③で成功するのなら、それが一番教育としてはその子を鍛える手段になっていると思います(「にんじん」を「数学」に置き換えて考えてみてください)。それから、②、①となるに従って、その科目の内容は身につくものの、そもそもそのように丁寧に解きほぐして教えてくれる人がいなければ勉強もできないような人間になってしまう、というわけです。しかし、先に考えたにんじんを食べさせる時のように、①、あるいは②ができる先生を親御さんたちは「良い先生」と評価します。(たとえば予備校の先生の講義としては、①、あるいは②が良い授業と評価されるでしょう。)③を行う先生はどちらかといえば「無能な先生」「ただ、理想が空回っている先生」として非常に評価が低いのが現実ではないでしょうか。それは子供達の短期的な学力の向上を考えれば、確かに正しい評価であるのです。
しかし、長い人生の中で、そのようにハンバーグににんじんを気づかないように入れてくれる、あるいは思いもよらない美味しいにんじんの調理法を見せてくれる先生ばかりがいる時期は極めて短いものです。その意味では、教育の目標とは、自分で学ぶ力をつけること、③のように拙い説得に対しても、それに共感する部分を生徒の中に育て、そしてその調理法を生徒自身が自分で見つけていけることをサポートできることではないでしょうか。もちろん、そうは言ってもまるっきりにんじんを拒絶する相手に、③のアプローチだけをとることは、たとえ相手が大人であったとしてもまずうまくいくことはないでしょう。

これらを踏まえて「良い教師」を再定義するのなら、先の①から③を、③が理想だとしてもその子に受容可能な段階はどれであるかを的確に見抜き、そして少しずつそのハードルを上げていく(さらには①から③のアプローチをミックスさせながら、その配合を少しずつ変えていく)、ということで彼ら彼女らの、必要な問題に自分から取り組む姿勢を鍛えていくことのできる教師であると思います。その意味では①から③の全てができた上で、かつどれが今のその子に必要であるかを見抜く力が大切です。

まあ、言うのは簡単なのですが、これが難しいのです。これはたとえば数学(という一つの科目)の中でも、また分野によって変わってきますし、さらには一つの分野においてもまた、その子にとって受け入れやすい努力と受け入れにくい努力とがあります。サボり方、というのは様々です。たとえばずうっと机に向かって、ずうっとペンを動かしていても(そしてそれが落書きではなく勉強の内容についてであっても)、勉強をサボることは可能です。自分にとって受け入れやすい努力だけを重ねることで、自分にとって受け入れにくい努力をサボっていれば、結局生きていくための力はつきません。しかし、このような「サボり方」は極めて見抜きにくいがために、「うちの子は勉強しているのに、なぜ?」という悩みが生じるわけです。

そのような外面的には見抜きにくいサボり方を見抜いては注意する能力ももちろん教師には必要な力です。しかし、それ以上に教師に求められるのは、そのようなサボり方に自分がなっていないかどうかを生徒本人にチェックする必要を感じてもらうことです。どの生徒をも、24時間365日は見れないからこそ、自分でそのようなサボり方をチェックできる生徒を育てることこそが、教育の真の目的であるといえるでしょう。それこそがにんじんの食べさせ方では最悪である③の重要性であるのだと思います。

もちろん、そのように自分自身を自らの意志でチェックする意志と能力を備えた生徒に対して、教師ができることがないかといえば、それでもまだたくさんあります。そもそも上に上げたような「努力をすることでサボる」というのは本人にとっては自覚のないことであり、そのような世界の認識の仕方の癖を作ってしまっていることが多いからこそ、そこを他者が指摘しては直していく必要があります。
このような意識の「穴」を見つけていくことが、教師にとっての腕の見せ所ではあるのですが、実際にはこのレベルまでいくまでのモチベーションを少しでも上げてもらうための様々な工夫の方が圧倒的に時間と労力がかかるというのが、現状であるようです。

たまには、塾の宣伝もしましょうか。
嚮心塾では、積極的に自分から質問をしにくい子にはこちらから声をかける頻度が高い、というように一人一人に声のかけ方が違うというだけではなく、その子の場への慣れ方、勉強への取り組み方に応じて自分から質問をしにくい子に対していつまでもこちらから声をかける、ということもしません。それは、その子をダメにしてしまうからです。もちろん、最初は自分から質問ができないのは当たり前ですが、場にも僕にも慣れてきてもなお、「先生から声をかけてもらった時に質問をすればよいや」というのは単なる甘えでしかありません。それでは塾という場ではよくても他の場では全く質問ができないままの人間に終わるでしょう。教育産業全体が「サービス」の向上によって、子供たちをspoilする方向へと傾いている中、嚮心塾もその片棒を担ぐのであるのなら、そもそもこんな塾は存在する価値などないでしょう。自分で質問のできる子、自分で勉強の力を向上させようと取り組める子になっていけるように、こちらの知恵と知識と工夫とを徹底的に鍛え抜いて、「常に「不親切な」(すなわち通う子たちにとって常になんらかのハードルを提供し続ける)」塾であり続けたいと思っております。(しまった!宣伝どころか逆効果である気がします。。)
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