
先日、結婚式に行ってきました。
僕自身、結婚式に出席するのは妹の結婚式以来2回目で、ちょうど10年ぶりでした。自分自身も結婚式をしていない上に、そのような儀式的なものが僕は苦手なので、高校時代の大切な友人の結婚式にも出席をお断りしたほどです。しかし今回の結婚式は、参加して本当に素晴らしい結婚式だったと思いました!
もちろん、そういう儀礼を「自分が苦手」なだけなら相手のためにも我慢して出ろ、という話です。僕がそのような有難いお誘いを数少ない友人からいただいていたのにこれまで断っていたのは、やはりその儀式というものに対する疑いと警戒心があったからだと思います。いわく、「結婚式を祝うというのは、株式会社の上場詐欺のようなものであり、上場する瞬間に最高の株価をつけてはあとは下がる一方であるかのように、結婚式に二人の関係性のピークをもっていくのは、欺瞞でしかない。」とか、そもそも「日常を大切にすることこそが大切であり、儀礼という非日常を大切にしようというのは、日常の結婚生活(家事や育児の分担)という、より困難な取り組みとそこから生じる二人の間の衝突をごまかすための詐術にすぎない。」などとよく言っていました。あるいは、「「儀式」という心がこもっているはずのものとして見られるものに心がこもっていることを推定しようとしても、それは幻想にすぎない。むしろ、そのように「心がこもっているはずのもの」として立ち現れる儀式には、そこにはもう既に心がこもっていないことをごまかす働きがある。」とも。そのように僕は儀式嫌い、特に結婚式嫌いでした。
そのような儀式の中でも、なぜ特に結婚式が苦手なのかといえば、「おめでとう!」と素直にいえない、という理由が大きいと思います。既に結婚生活を送られている方は、友人や家族の結婚に際し、「本当におめでとう!」と祝福できますか?僕にはそれを素直に祝福することはできません。もちろん僕自身が結婚生活に恵まれていないかといえば、外側から見れば、かなり恵まれている方であると思います。ただ、僕にとって結婚後の生活は、喜びである以上に苦しみの方が大きいものです(僕はこんなことを言っていますが、僕の奥さんにとっては、僕よりもさらに喜び以上に苦しみが大きいでしょう!それも自覚しています)。違う人間がともに生きていこうとするとき、真剣にともに生きていこうとすればするほどに、互いの違いに悩み、苦しむでしょう。おそらく、互いに決定的に理解できないものを相手の中に見出し、しかし、それゆえに距離を置くことのできた独身時代とは違ってそれを抱える相手と付き合い続ける、というのは逃げ場がないがゆえに、本当につらい取り組みであると思います。もちろん、それは極めて有意義な取り組みです。同質な(あるいはそうだと自分たちが思い込んでいる)もの同士がくっついては、異質のものを排除しようという傾向が強くなりつつあるこの社会において、容易には別れられない異質な相手と向き合わざるを得ない、という取り組みは極めてかけがえのないものです。しかし、そこでかけるべき言葉は、「おめでとう!」ではなく、「がんばれ!」ではないのか。あるいは「こちらももう少し頑張るから、君達も是非がんばって!」ではないのか。この疑問こそが、僕にとっては結婚式を特に縁遠いものに感じさせてきたものでした。
しかし、先日の結婚式では、たった1日の式ながら、そのようなお二人の懸命なこれまでの歩みを感じさせていただけるような式でした。なるほど、このようなお二人に対してこそ、「おめでとう!」という言葉をかければよいのだな、と思わされるような式でした。もちろん、結婚生活は長く辛いものです。人生は、さらにまたそうであるでしょう。当初の感動や理想が、容易に様々な妥協や諦めに固着していってしまうかもしれません。「しかしそれでも、このお二人なら‥」と思わせていただけるような、本当に素晴らしい結婚式でした。
そして、それは僕もまだ諦めるわけにはいかない、ということを改めて決意させられる契機となりました。
「家族は社会の最小の単位である」という言明は、そこでの「家族」というものの定義がそもそも各社会によって異なるがゆえにあまり意味のない言葉ではありますが、しかし、その一つ一つの家族の中に、その構成員同士の決定的な相違とそれを尊重しあえる多様性が存在するのなら、そのような家族からなる社会もまた、そのような相違と多様性を尊重しあえる社会になるはずです。逆に言えば、LGBTの人々を厳しく攻撃する社会、あるいは冷たく拒絶する社会とは、そもそも一つ一つの家族の中に相違と多様性が存在しない社会であるのかもしれません。もちろん、家族の構成員が人間である以上そこに相違と多様性が存在しないことはありえないため、そこでの相違や多様性を見てみないふりをする家族であった、ということがその原因となっているのでしょう。
太宰治の言う「家族の幸福は諸悪の本(もと)だ。」という仮説の正しさを踏まえた上で、僕は自らの家族を作ろうと決意しました。家族の間の違いを見て見ないふりをせずに、家族の中の他者を他者として認め、話し合い続けることが、家族の外の他者をも愛することにつながりうる、と思っていたからです。それは何も僕が始めたことではなく、僕が教師として接する中で尊敬するご家庭はみな、このように言語化はしないまでもそれを当たり前のこととしてなされていました。今回、お二人がそのような道を選んで結婚をされる(と、僕には感じられました。)ことに心からの祝福と、心からの応援とを、常に持ち続けていきたいと思っています。
僕自身、結婚式に出席するのは妹の結婚式以来2回目で、ちょうど10年ぶりでした。自分自身も結婚式をしていない上に、そのような儀式的なものが僕は苦手なので、高校時代の大切な友人の結婚式にも出席をお断りしたほどです。しかし今回の結婚式は、参加して本当に素晴らしい結婚式だったと思いました!
もちろん、そういう儀礼を「自分が苦手」なだけなら相手のためにも我慢して出ろ、という話です。僕がそのような有難いお誘いを数少ない友人からいただいていたのにこれまで断っていたのは、やはりその儀式というものに対する疑いと警戒心があったからだと思います。いわく、「結婚式を祝うというのは、株式会社の上場詐欺のようなものであり、上場する瞬間に最高の株価をつけてはあとは下がる一方であるかのように、結婚式に二人の関係性のピークをもっていくのは、欺瞞でしかない。」とか、そもそも「日常を大切にすることこそが大切であり、儀礼という非日常を大切にしようというのは、日常の結婚生活(家事や育児の分担)という、より困難な取り組みとそこから生じる二人の間の衝突をごまかすための詐術にすぎない。」などとよく言っていました。あるいは、「「儀式」という心がこもっているはずのものとして見られるものに心がこもっていることを推定しようとしても、それは幻想にすぎない。むしろ、そのように「心がこもっているはずのもの」として立ち現れる儀式には、そこにはもう既に心がこもっていないことをごまかす働きがある。」とも。そのように僕は儀式嫌い、特に結婚式嫌いでした。
そのような儀式の中でも、なぜ特に結婚式が苦手なのかといえば、「おめでとう!」と素直にいえない、という理由が大きいと思います。既に結婚生活を送られている方は、友人や家族の結婚に際し、「本当におめでとう!」と祝福できますか?僕にはそれを素直に祝福することはできません。もちろん僕自身が結婚生活に恵まれていないかといえば、外側から見れば、かなり恵まれている方であると思います。ただ、僕にとって結婚後の生活は、喜びである以上に苦しみの方が大きいものです(僕はこんなことを言っていますが、僕の奥さんにとっては、僕よりもさらに喜び以上に苦しみが大きいでしょう!それも自覚しています)。違う人間がともに生きていこうとするとき、真剣にともに生きていこうとすればするほどに、互いの違いに悩み、苦しむでしょう。おそらく、互いに決定的に理解できないものを相手の中に見出し、しかし、それゆえに距離を置くことのできた独身時代とは違ってそれを抱える相手と付き合い続ける、というのは逃げ場がないがゆえに、本当につらい取り組みであると思います。もちろん、それは極めて有意義な取り組みです。同質な(あるいはそうだと自分たちが思い込んでいる)もの同士がくっついては、異質のものを排除しようという傾向が強くなりつつあるこの社会において、容易には別れられない異質な相手と向き合わざるを得ない、という取り組みは極めてかけがえのないものです。しかし、そこでかけるべき言葉は、「おめでとう!」ではなく、「がんばれ!」ではないのか。あるいは「こちらももう少し頑張るから、君達も是非がんばって!」ではないのか。この疑問こそが、僕にとっては結婚式を特に縁遠いものに感じさせてきたものでした。
しかし、先日の結婚式では、たった1日の式ながら、そのようなお二人の懸命なこれまでの歩みを感じさせていただけるような式でした。なるほど、このようなお二人に対してこそ、「おめでとう!」という言葉をかければよいのだな、と思わされるような式でした。もちろん、結婚生活は長く辛いものです。人生は、さらにまたそうであるでしょう。当初の感動や理想が、容易に様々な妥協や諦めに固着していってしまうかもしれません。「しかしそれでも、このお二人なら‥」と思わせていただけるような、本当に素晴らしい結婚式でした。
そして、それは僕もまだ諦めるわけにはいかない、ということを改めて決意させられる契機となりました。
「家族は社会の最小の単位である」という言明は、そこでの「家族」というものの定義がそもそも各社会によって異なるがゆえにあまり意味のない言葉ではありますが、しかし、その一つ一つの家族の中に、その構成員同士の決定的な相違とそれを尊重しあえる多様性が存在するのなら、そのような家族からなる社会もまた、そのような相違と多様性を尊重しあえる社会になるはずです。逆に言えば、LGBTの人々を厳しく攻撃する社会、あるいは冷たく拒絶する社会とは、そもそも一つ一つの家族の中に相違と多様性が存在しない社会であるのかもしれません。もちろん、家族の構成員が人間である以上そこに相違と多様性が存在しないことはありえないため、そこでの相違や多様性を見てみないふりをする家族であった、ということがその原因となっているのでしょう。
太宰治の言う「家族の幸福は諸悪の本(もと)だ。」という仮説の正しさを踏まえた上で、僕は自らの家族を作ろうと決意しました。家族の間の違いを見て見ないふりをせずに、家族の中の他者を他者として認め、話し合い続けることが、家族の外の他者をも愛することにつながりうる、と思っていたからです。それは何も僕が始めたことではなく、僕が教師として接する中で尊敬するご家庭はみな、このように言語化はしないまでもそれを当たり前のこととしてなされていました。今回、お二人がそのような道を選んで結婚をされる(と、僕には感じられました。)ことに心からの祝福と、心からの応援とを、常に持ち続けていきたいと思っています。
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