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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「ビリギャルはビリじゃなかった疑惑」について考える。

あのベストセラー、通称「ビリギャル」の主人公が実はビリじゃなかった疑惑というのが話題になっています。
(記事はここですね。)

この記事は真っ当だし正しいと思います。そもそも、そんなことは教える側に一度でもたった人間なら、誰でもわかることであると思いますが、あまりにもてはやされ、「誰でも頑張ればそうなれる!」という意見が広まってしまうことに対しての、よいブレーキになるのではないかと思います。

このブログでも何度か書きましたが、一般にどの科目もどうしようもなくできない「勉強の苦手な子」というのは、実はそう多くはありません。その中でも特に、現代文、あるいは数学ができるけど他は壊滅的な子、というのは勉強が苦手だと言っても本人の努力が足りていない、あるいは方法がわからないだけで論理的思考力や読解力はあるので、適切な方法の指導とそれをたゆまず進めていく意志さえあれば、容易に勉強ができるようになります。まあ、一般に数学が得意(で他は全部ダメ)な子は、あまり自分のことを「勉強ができない子」とは見なしていないし、周りもそうは見なしていないため、そういう子が他の教科を頑張って鍛えて合格すると、「あ、やっぱり数学できる子は他のもできるよね。」という反応になります。それに比べて、現代文ができる、というのはあまり「勉強ができる」ことだとは見なされていないため、このような子を他の科目の勉強法を教えた上で鍛えると、「奇跡の合格!」「ビリギャル!」と大騒ぎになるわけです。しかし、これらはどちらも同じことです。ただ、数学は「努力して身につけなければならないもの」であると見なされているのに対し、現代文は「努力しなくても身についているはずのもの」と見なされているため、このような反応の違いが生まれます(実際には現代文も努力しなければ力はつきません。そこまでにどれだけの量の本やマンガを読んできたか、その内容についてしっかり考えてきたかどうか、そこでわからない言葉を調べてきたかどうかがその明暗を分けてしまっています)。

実際に嚮心塾でも、「偏差値45から早慶全部合格!」とか、「部活をハードにやって高3のたった1年で早稲田合格!」とか実例があります。これらはすべて、元々現代文だけはできた子たちです。なので、塾によってはこれを「奇跡の合格!」と売り出すのかもしれませんが、まああまり意味がないことなのでそのような宣伝はしていません。

ここまでの話を踏まえ、「奇跡の合格!」を量産する「奇跡の塾」を僕が演出したいのなら、現代文だけ(これが数学だと、ちょっと奇跡っぽくありません)の入塾テストを行い、そこで現代文だけはできる子たちだけを集め(できれば金髪に染めてもらう(!)のを入塾の条件として)、そしてその子達に他の科目についての受検勉強の仕方を教えていけば、「今年度受験生、全員偏差値30アップの奇跡の塾!」が演出できるわけです(僕は絶対にやりませんが、そういう塾に引っかかってはだめですよ!)。

しかし、上に書いたことが当たり前としても、この本がこれだけ広まっている理由としては、教育に真剣に携わったことのある人にとっては当たり前にわかる「この子はいくらでも伸ばせる」という資質をもった子たちが、かなり多くの割合で見殺しにされている、という事実があるからなのかもしれません。たとえばビリギャルの主人公の女の子が塾に通わずにそのまま学校に通い続けているだけだったら、きっと自分の可能性に気づかないままであった可能性は高いのでしょう。つまり、先に挙げた記事の結論である、

『ビリギャル』は奇跡の大逆転物語などではなく、「中学受験のあと何年か遊んでいても、高いお金を払っていい塾に行けば大学受験はなんとかなる」という、現在の教育格差を象徴する話だったのではないか。(ここまで引用)


をふまえれば、現代の教育格差を生み出しているのは、その伸ばせる可能性のある子にすら気づいていない、ほとんどの学校と、その学校の先生の責任である(それは私立であれ公立であれ)、ということです。しかし、そこで先生の熱意や努力不足を批判するのは単なる無責任な根性論です。それに気づかない理由は端的にシステムの問題であると思います。それはつまり、一人ひとりの生徒を、全教科に渡って把握している先生がいない、ということがその原因であると思います。たとえばクラスの担任を生活担当と勉強担当の二人に増員し、勉強担当の子には総合的にその子の勉強について把握し、アドバイスをする(そのためにその勉強担当の先生は全教科を(完璧には)教えられないとしてもそのそれぞれの科目を鍛えるのにどれくらいの時間がかかり、どういう方法が効果的かを勉強しておく)、という(まあ嚮心塾ではずっとやっている)ことをするだけで、だいぶ違うのではないでしょうか。

「ビリギャル」を感動に紛れては、学習塾業界がお金を稼ぐための契機にするのでは、有害でしかないでしょう。もちろん、すべての勉強に困っている子に対して教える側が必死に教えていくのならよいのです。しかし、この「ビリギャル」と坪田先生の塾の成功は、それとは逆の戦略、すなわち「周りからは勉強ができるとはまだ評価されていないけれども、その可能性が高い子を掘り出しては、その子を集中して鍛える」という戦略を生み出してしまう恐れがあります。一人の「ビリギャル」が生まれることの方が、100人の学力の微増よりも、宣伝効果が高いからです。

それとともに、このような当たり前の結果で大騒ぎするだけでなく、いかに日本の学校制度が機能していないか、という反省点について考えるべきであると思います。野球の世界で「ダイビングキャッチなどのファインプレーは、実は野球が下手なのだ!」という話があります。経験や予測からファインプレーに見えないように、シュアなプレーをすることの方がはるかに大切であるからです。教育もこのビリギャルのような「奇跡」をたたえる前に、そのような「奇跡」が必要のないようなシステムを作ろうとしていくことが大切です。

もちろん、それでもどうしてもとりこぼしてしまうことはあるでしょう。そのとりこぼされてしまった一人一人の子達を鍛えるために、学習塾は必死に頑張らねばならないとは思いますが、本来学校教育の目指すべき道は、「学習塾や予備校の必要のない社会」ではないでしょうか。
そして、そのためには「生徒一人一人の全教科の勉強の状況を、一人の先生が把握する」というシステムを導入することが(特に高校において)学校にも必要なのだと僕は思っています。

病児保育のフローレンスの駒崎弘樹さんが行政に自らのアイディアをパクられて怒っているときに、NPO経営の先輩から「行政にこちらのアイディアをパクらせれば、よりよいものが広範に社会に広まっていくじゃない!」とさとされて気づいたというお話は、僕もとても素晴らしい話だな、と思っています。そろそろ文部科学省も、嚮心塾方式をパクリにきていただいてもよいと思っているのですが‥。まだ、先は長いようです。ケンブリッジでも何百年も前からパクってるらしいですよ!すみません。

そうは言っても、この形式もまだまだいくらでも改善の余地がありそうです。
いつパクられても大丈夫なように、もっと徹底的に鍛えていきたいと思います。
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