嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

マルセル・モース『贈与論』

贈与という行為がもらった側の精神を縛り、反対給付(受け取った側がお返しをすること)を要求していく様子を、文化人類学的に分析した本です。それは単なる心理的義務を超え、その贈与された物自体、あるいはそこに宿った「精霊」というものがその反対給付を具体的に要請する、ということについての言及は、私たちがお中元やお歳暮、年賀状に関して感じている感覚を、各々の主観的な感覚ではなく、客観的事実として社会の中に根付かせようとしていた原始社会の知恵を教えてくれます。

なぜ、その感覚を社会の中に根付かせようとしたのかといえば、それこそが社会の結びつきの基盤であると考えられていたからでしょう。贈与とそれに対する反対給付の繰り返し、というのは、終わりのないことです。与える側は常に受け取ったよりも多くを与え、それによって直近の贈与で受け取った側は常に負債感をもたざるをえないからこそ、さらなる反対給付を続けることによって、関係性が途絶えることがない、というのがこの贈与による社会の結びつきを強くしていく仕組みです。

それにたいして交換は、「等価交換」であるがゆえに、その一回の交換で関係性を断絶することができてしまいます。言い換えれば、交換をいくら重ねていっても「相手に対する敬意や負債感」というのは(感受性が豊かでない限り)育まれない、ということです。

これなどはちょっと前に流行った国際関係論での相互依存論、すなわち、国際的な交易が進めば進むほど相互依存が高まるわけで、そのようになればなるほどに戦争というものは起きにくくなる、という考え方についての有意義な反論を内包していると思います。そもそも(等価の)交換を幾度重ねようとも、それによって関係は深まりはしない、という反論が成り立ちうるからです。

モースは交換と贈与とは別の成り立ちなのではなく、贈与の応酬が次第に交換へとつながっていった、と考えていたようです。もちろん、その仮説は確かめようがないことではあるのですが、先に言ったように贈与の応酬が社会の結びつきを強化する反面、間口を広くどの集団ともその関係を結んでいくのは難しい反面(相手がその応酬に入ることのできるような信頼できる相手かどうかを吟味しなければ応酬が続く前に贈与のための資源が枯渇してしまいます)、交換は等価であるがゆえに相手への信頼を必要としません。そこでの一回限りの交換が自分にとってそんな交換ではないならば、交換をする相手が誰であろうとどうでもよいからです(まあ、ヤフオクのようにそもそもその「等価」での交換が本当に成立しうるのか、というところの問題は残りますが)。しかし、それはtransactionの間口を広くとれる、というメリットができる一方で、その一回一回の交換そのものが、社会の結びつきに何のプラスも与えていかない、というデメリットを内包しているわけです。

まあ、平たく言えば、ネット上で一番安い金額で買えば地元の自転車屋さんで買うより安く手に入るとしても、地元の自転車屋さんと顔なじみになって自転車の不具合を相談したり、ときに自分の子供が見知らぬ大人に危害を加えられそうになったとき、その自転車屋さんが気づいてかばってくれる、とかいうことは起きなくなってしまう、ということです。貨幣と自転車との交換だけを考えれば、地元の自転車屋さんで買うメリットはありませんが、
それは自らの「社会」を細らせて、孤立していく道でもある、ということです。それをたとえばネットで買うのと地元の自転車屋さんで買うのとの差額を「贈与」ととらえれば、それに対しては必ず地元の自転車屋さんも何かしらで反対給付をしてくれます。それによって、人と人との(交換を超えた)結びつきが生まれていく、という感じでしょうか。

他にもドイツ語で「与える」ということは「毒」を意味すること、それには贈与のもつその一回にとどまらず被贈与者に働きかける性質を表している、などとも書いてあり、学ぶことの多い本でした。

その意味で、今もなお、いや、ネットショッピングその他で交換が面と向かって行われることすらなくなってきた、今だからこそ読まれるべき本であると思います。(アマゾンのリンクが今、不具合で貼れないので、また復旧次第貼りたいと思います。こんな話をした後にアマゾンのリンクを貼る、というのがなんとも矛盾ではあるのですが)
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