
さて、このシリーズも第二弾です。
今回は開塾したころではなく、塾をやっていく中で思いついたのですが、ちょっとこれは、と避けたキャッチフレーズです。
それはヒポクラテスの
Cure sometimes, treat often, comfort always.(時には治し、しばしば手当をし、常に慰める。)
という言葉が素晴らしいので、これをパクって(!)塾の巻頭言を書こうかな、と思いました。
この言葉の素晴らしさは、医療従事者自らが医療にできることの限界を知り、そしてそれでもなお医療従事者が果たすべき責務について向き合っている、ということに尽きると思います。「そりゃあ、ヒポクラテスの頃の医療なんて!それに比べて今の医療は格段に進歩しているのだから、Treat and cure alwaysでいいじゃん!」と思う医療従事者は、おそらく現実に対する認識が甘いと思います。医学がこれだけ発達してなお、日々真剣に取り組む医師たちは医療の限界に悩み、苦しんでいるのではないでしょうか。その中で、すべての患者さんを救えるわけではないという無力さに打ちひしがれては、自分の果たすべき役割に悩み苦しんでいる医療従事者の方こそ、この言葉の深い意味に気付けるのだと思います。生命の神秘はたかが人間の医学の発達くらいでどうにかなるものではありません。がん細胞が老化と関わりがあること、その上でがんと闘う、ということは必ずいつか負ける戦いであることを考えれば、少しでも長く生きぬくことだけが勝利であるとは限りません。結局、加齢による老化からくる様々な障害や疾病をどこまでも治すことで長生きをする、という医学全体の主流派のとっている方針は、どこまでいっても無理であることがわかるでしょう。それが原理的に無理であることを証明することはできないとしても、です。そのような臨界点へと現在の医療が近づいている中、このヒポクラテスの言葉は改めて意味の深い言葉であると思います。sometimes しかcureできないとしても、often treat はできる(treatには「手当てする」だけでなく「もてなす」という意味もあります)し、always comfortはできるはずです。究極的には、そこにこそ医療従事者の存在価値がある、と言えるし、それこそが機械やコンピューターに代替できない医療従事者の最後まで残る役割と言えるのではないでしょうか。
と思って、「よし、こんな素晴らしい言葉、塾でもこれをパクって使うぞ!」と考えたのですが、日本語にすると、
「時には合格させ、しばしば面倒を見、常に慰める。」
というキャッチフレーズになってしまい、最初から落ちることを前提としている学習塾のようになってしまいます(もちろん、やっている仕事としては、一つ一つは正しいのですが)。「絶対全員合格!」とか「合格100%保証!」とか嘘八百がならぶ受験業界において(絶対にそれらのキャッチフレーズの塾よりは嚮心塾の方が合格率は高いと思うのですが)、ちょっとこれはさすがにまずいかな、と思い、今の所採用していません。ただ、このキャッチフレーズは将来使ってみたいな、とも思っています。
問題はcomfortの中身であるのだと思います。受験に失敗した子に対して、慰めるだけならばあまりそんな塾はあってもなくてもどうでもよいと思うのですが(慰めている暇があったら合格できるように努力しろ!という話です)、生徒たち一人一人の人生は受験に受かろうと落ちようと終わるわけではありません。その後の卒塾生一人一人の人生を全て、僕の人生の最後まで支えていきたいし、そのためのきっかけが嚮心塾であると僕は思っているので、そのためには誰にも話せない悩み、自分で困っていること、その他何でも卒塾してからも塾に話しに来て欲しいと思っています。もちろん、そこで僕がその子の悩んでいることに対して、妙案を出せることもあればそうでないこともあるでしょう。というより、妙案が出せないことの方が圧倒的に多いでしょう。しかし、その子にとっての真剣な悩みを、共有し、共に悩むことはできます。そして、慰めることもまた、できると思います。
医療従事者にとって(病気や怪我に苦しむ)患者さんをcomfortするときのalwaysは(一人一人については)そんなに長い時間ではないでしょう。しかし、塾を営む僕にとっては卒塾生をcomfortするときのalwaysは、一人一人について、極めて長い時間になります。その意味ではこのヒポクラテスの言葉は、医療従事者にとってよりも、教育者にとっての方がより厳しい覚悟を突きつけられる言葉であると僕は思っています。
嚮心塾の本質は何か、と言われた時に、様々な学年の子が机を並べて勉強する、とか学力も様々だとか、自発的に学習できる場所だとか、まあいろいろあるわけですが、僕にとってそれらは特徴でしかなく、本質ではありません。僕にとって嚮心塾の本質とは、まさに僕自身が生徒一人一人の今後の人生に対して、always comfort という覚悟を持ち続けられるかどうか、であるのです。その覚悟がなくなったら、塾は閉めるつもりです。
ということで、ボツにはしたのですが、いずれは使ってみたいキャッチフレーズです(これだけ書いてしまうとネタバレしすぎて、もう使えないようにも思えてきました。うーん。)。
今回は開塾したころではなく、塾をやっていく中で思いついたのですが、ちょっとこれは、と避けたキャッチフレーズです。
それはヒポクラテスの
Cure sometimes, treat often, comfort always.(時には治し、しばしば手当をし、常に慰める。)
という言葉が素晴らしいので、これをパクって(!)塾の巻頭言を書こうかな、と思いました。
この言葉の素晴らしさは、医療従事者自らが医療にできることの限界を知り、そしてそれでもなお医療従事者が果たすべき責務について向き合っている、ということに尽きると思います。「そりゃあ、ヒポクラテスの頃の医療なんて!それに比べて今の医療は格段に進歩しているのだから、Treat and cure alwaysでいいじゃん!」と思う医療従事者は、おそらく現実に対する認識が甘いと思います。医学がこれだけ発達してなお、日々真剣に取り組む医師たちは医療の限界に悩み、苦しんでいるのではないでしょうか。その中で、すべての患者さんを救えるわけではないという無力さに打ちひしがれては、自分の果たすべき役割に悩み苦しんでいる医療従事者の方こそ、この言葉の深い意味に気付けるのだと思います。生命の神秘はたかが人間の医学の発達くらいでどうにかなるものではありません。がん細胞が老化と関わりがあること、その上でがんと闘う、ということは必ずいつか負ける戦いであることを考えれば、少しでも長く生きぬくことだけが勝利であるとは限りません。結局、加齢による老化からくる様々な障害や疾病をどこまでも治すことで長生きをする、という医学全体の主流派のとっている方針は、どこまでいっても無理であることがわかるでしょう。それが原理的に無理であることを証明することはできないとしても、です。そのような臨界点へと現在の医療が近づいている中、このヒポクラテスの言葉は改めて意味の深い言葉であると思います。sometimes しかcureできないとしても、often treat はできる(treatには「手当てする」だけでなく「もてなす」という意味もあります)し、always comfortはできるはずです。究極的には、そこにこそ医療従事者の存在価値がある、と言えるし、それこそが機械やコンピューターに代替できない医療従事者の最後まで残る役割と言えるのではないでしょうか。
と思って、「よし、こんな素晴らしい言葉、塾でもこれをパクって使うぞ!」と考えたのですが、日本語にすると、
「時には合格させ、しばしば面倒を見、常に慰める。」
というキャッチフレーズになってしまい、最初から落ちることを前提としている学習塾のようになってしまいます(もちろん、やっている仕事としては、一つ一つは正しいのですが)。「絶対全員合格!」とか「合格100%保証!」とか嘘八百がならぶ受験業界において(絶対にそれらのキャッチフレーズの塾よりは嚮心塾の方が合格率は高いと思うのですが)、ちょっとこれはさすがにまずいかな、と思い、今の所採用していません。ただ、このキャッチフレーズは将来使ってみたいな、とも思っています。
問題はcomfortの中身であるのだと思います。受験に失敗した子に対して、慰めるだけならばあまりそんな塾はあってもなくてもどうでもよいと思うのですが(慰めている暇があったら合格できるように努力しろ!という話です)、生徒たち一人一人の人生は受験に受かろうと落ちようと終わるわけではありません。その後の卒塾生一人一人の人生を全て、僕の人生の最後まで支えていきたいし、そのためのきっかけが嚮心塾であると僕は思っているので、そのためには誰にも話せない悩み、自分で困っていること、その他何でも卒塾してからも塾に話しに来て欲しいと思っています。もちろん、そこで僕がその子の悩んでいることに対して、妙案を出せることもあればそうでないこともあるでしょう。というより、妙案が出せないことの方が圧倒的に多いでしょう。しかし、その子にとっての真剣な悩みを、共有し、共に悩むことはできます。そして、慰めることもまた、できると思います。
医療従事者にとって(病気や怪我に苦しむ)患者さんをcomfortするときのalwaysは(一人一人については)そんなに長い時間ではないでしょう。しかし、塾を営む僕にとっては卒塾生をcomfortするときのalwaysは、一人一人について、極めて長い時間になります。その意味ではこのヒポクラテスの言葉は、医療従事者にとってよりも、教育者にとっての方がより厳しい覚悟を突きつけられる言葉であると僕は思っています。
嚮心塾の本質は何か、と言われた時に、様々な学年の子が机を並べて勉強する、とか学力も様々だとか、自発的に学習できる場所だとか、まあいろいろあるわけですが、僕にとってそれらは特徴でしかなく、本質ではありません。僕にとって嚮心塾の本質とは、まさに僕自身が生徒一人一人の今後の人生に対して、always comfort という覚悟を持ち続けられるかどうか、であるのです。その覚悟がなくなったら、塾は閉めるつもりです。
ということで、ボツにはしたのですが、いずれは使ってみたいキャッチフレーズです(これだけ書いてしまうとネタバレしすぎて、もう使えないようにも思えてきました。うーん。)。
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