
難関大学受験なら、嚮心塾!?
答えはNoです。嚮心塾には、毎年、様々な学力の子達が通ってくれています。また、通い方も、難関校を目指して勉強する子から、学校の勉強の補習をする子まで様々です。よく、補習塾と進学塾を分ける傾向がありますが、補習を積み重ねていく先に、進学が狙いとしてないのであれば、やはりそのような補習はモチベーションが上がらないでしょう。逆に難しい学校を受ける力のある子であっても、意外と出来ていない基本的なところを補習すべきことも多いです。その意味では、「補習塾」「進学塾」というくくり自体が、わかりやすさを求める顧客のニーズを感じ取って、塾業界が作り上げた商品なのかもしれません。
とはいえ、そのように分けることは、塾の側から見ると、計り知れないメリットがあります。一般に、難関校受験をする子を教える先生に必要なものは高い学力であり、学校の勉強の補習をする子を教える先生に必要なものは生徒に対する忍耐力です。そして、この両者を兼ね備えている先生を確保するというのは、きわめて難しい条件であるのです。高い学力を持つ先生ほど、辞書や教科書を引けば分かるレベルの生徒の質問に対しては自然と冷淡にならざるを得ません。ましてや、「こんなの、覚えられないよ~」という不平に対しては、「努力して覚えろ!」と一喝したくなってしまうでしょう。逆に、生徒に対する忍耐力を持ち親身になれる人は、普通勉強が苦手(といってもトップクラスではない、という意味です)であることが多いのです(目の前の勉強に集中して学力を身につけてきた人は、他の人のことを考える暇がなかったからです)。
嚮心塾では、そのどちらの生徒さんも教えていて、学校の補習レベルから東大理Ⅲレベルにまで対応しております。もちろん、「私は高い学力と他者への忍耐を兼ね備えたすばらしい教師です。」などというつもりは(少ししか)ありません。その両方のレベルの生徒をともに同じ場で教えることは、教える側にとっては苦痛の大きなものであるのに間違いはなく、塾を開いて以来、日々悪戦苦闘をしては、自らの力不足を猛省する中で、少しずつ成長を感じる毎日の5年間でした。しかし、勉強をする子供達にとっては、この場が本当にかけがえのない場となっていることを強く感じているため、この形式をより鍛えて、守っていきたいと考えていますし、そのために僕自身ももっと勉強を重ねていきたいと考えております。
そのように考えるのは、僕自身の苦い反省があるからです。僕の通っていた高校は東大に現役で毎年100人受かるような受験高校でした。そのため、受験生になると「東大にあらずんば、人にあらず」的な雰囲気が蔓延していました。その当時、同級生の一人が慶應大学に進学することになり、「あんなバカばかりの大学に行ったら高校の時みたいにまともに話し合える友達なんか作れない。」と泣いていたのを今でも覚えています。そのとき僕は、その友達の偏見に対して「その考え方はよくない!」と反論をしましたが、しかし、僕はそのような偏見を表立って表明することはよくないことだとわかっているだけで、僕自身が同じ偏見を持っていなかったかと言えば疑問です(現に僕は私立大学を一つも受験しませんでした)。高校生の時の僕は、その友達を批判しながらも、東大に入れる程度の学力が賢さの証明であるかのようにいばったりさぼったりする人間はどうしようもなくアホだけれども、しかし、「東大に入れる」というのはやはり賢さの最低限の条件なのでは、という浅薄な認識であったと思います(もっともその認識は入学後3日くらいで修正せざるを得なかったのですが)。
人は、環境に染まります。その環境によって形成された自分の価値観を否定することは自分の人生の一部、あるいは全部を否定することだからこそ、苦痛を伴うのです。しかし、そのように環境によってのみ形成された価値観を自己の価値観とすることは、偏見に基づいた大きな暴力に、知らず知らず加担することになってしまうと思います。あのときの彼や、僕のようにです。
教える仕事に、15年程携わって、今では確信を持って言うことが出来ます。
一人一人の子供達に多様な人生があるが故に、一人一人の受験にも多様な受験があり、「意味のない合格」もあれば、「意味のある不合格」もあるのだということを、です。また、同じ「東大」や「慶應」でも、意味のある「東大」と、意味のない「東大」、意味のある「慶應」と意味のない「慶應」がある、ということを、です。その上で、「意味のある合格」を目指して、徹底的に鍛えていく塾でありたいと考えております。
今年の合格実績を「合格実績」のカテゴリに載せておりますが、この中には偏差値の高い学校も低い学校もあります。しかし、どの塾生の受験に関しましても、受験勉強を一生懸命頑張ることを通じて、塾生と一緒に苦闘しなかったことはありません。その意味で、第一志望に合格できた塾生もそうでない塾生もいますが、どの結果に対しても、僕自身は心の底から彼ら彼女らのがんばりに誇りを持っております。 2010年3月11日
答えはNoです。嚮心塾には、毎年、様々な学力の子達が通ってくれています。また、通い方も、難関校を目指して勉強する子から、学校の勉強の補習をする子まで様々です。よく、補習塾と進学塾を分ける傾向がありますが、補習を積み重ねていく先に、進学が狙いとしてないのであれば、やはりそのような補習はモチベーションが上がらないでしょう。逆に難しい学校を受ける力のある子であっても、意外と出来ていない基本的なところを補習すべきことも多いです。その意味では、「補習塾」「進学塾」というくくり自体が、わかりやすさを求める顧客のニーズを感じ取って、塾業界が作り上げた商品なのかもしれません。
とはいえ、そのように分けることは、塾の側から見ると、計り知れないメリットがあります。一般に、難関校受験をする子を教える先生に必要なものは高い学力であり、学校の勉強の補習をする子を教える先生に必要なものは生徒に対する忍耐力です。そして、この両者を兼ね備えている先生を確保するというのは、きわめて難しい条件であるのです。高い学力を持つ先生ほど、辞書や教科書を引けば分かるレベルの生徒の質問に対しては自然と冷淡にならざるを得ません。ましてや、「こんなの、覚えられないよ~」という不平に対しては、「努力して覚えろ!」と一喝したくなってしまうでしょう。逆に、生徒に対する忍耐力を持ち親身になれる人は、普通勉強が苦手(といってもトップクラスではない、という意味です)であることが多いのです(目の前の勉強に集中して学力を身につけてきた人は、他の人のことを考える暇がなかったからです)。
嚮心塾では、そのどちらの生徒さんも教えていて、学校の補習レベルから東大理Ⅲレベルにまで対応しております。もちろん、「私は高い学力と他者への忍耐を兼ね備えたすばらしい教師です。」などというつもりは(少ししか)ありません。その両方のレベルの生徒をともに同じ場で教えることは、教える側にとっては苦痛の大きなものであるのに間違いはなく、塾を開いて以来、日々悪戦苦闘をしては、自らの力不足を猛省する中で、少しずつ成長を感じる毎日の5年間でした。しかし、勉強をする子供達にとっては、この場が本当にかけがえのない場となっていることを強く感じているため、この形式をより鍛えて、守っていきたいと考えていますし、そのために僕自身ももっと勉強を重ねていきたいと考えております。
そのように考えるのは、僕自身の苦い反省があるからです。僕の通っていた高校は東大に現役で毎年100人受かるような受験高校でした。そのため、受験生になると「東大にあらずんば、人にあらず」的な雰囲気が蔓延していました。その当時、同級生の一人が慶應大学に進学することになり、「あんなバカばかりの大学に行ったら高校の時みたいにまともに話し合える友達なんか作れない。」と泣いていたのを今でも覚えています。そのとき僕は、その友達の偏見に対して「その考え方はよくない!」と反論をしましたが、しかし、僕はそのような偏見を表立って表明することはよくないことだとわかっているだけで、僕自身が同じ偏見を持っていなかったかと言えば疑問です(現に僕は私立大学を一つも受験しませんでした)。高校生の時の僕は、その友達を批判しながらも、東大に入れる程度の学力が賢さの証明であるかのようにいばったりさぼったりする人間はどうしようもなくアホだけれども、しかし、「東大に入れる」というのはやはり賢さの最低限の条件なのでは、という浅薄な認識であったと思います(もっともその認識は入学後3日くらいで修正せざるを得なかったのですが)。
人は、環境に染まります。その環境によって形成された自分の価値観を否定することは自分の人生の一部、あるいは全部を否定することだからこそ、苦痛を伴うのです。しかし、そのように環境によってのみ形成された価値観を自己の価値観とすることは、偏見に基づいた大きな暴力に、知らず知らず加担することになってしまうと思います。あのときの彼や、僕のようにです。
教える仕事に、15年程携わって、今では確信を持って言うことが出来ます。
一人一人の子供達に多様な人生があるが故に、一人一人の受験にも多様な受験があり、「意味のない合格」もあれば、「意味のある不合格」もあるのだということを、です。また、同じ「東大」や「慶應」でも、意味のある「東大」と、意味のない「東大」、意味のある「慶應」と意味のない「慶應」がある、ということを、です。その上で、「意味のある合格」を目指して、徹底的に鍛えていく塾でありたいと考えております。
今年の合格実績を「合格実績」のカテゴリに載せておりますが、この中には偏差値の高い学校も低い学校もあります。しかし、どの塾生の受験に関しましても、受験勉強を一生懸命頑張ることを通じて、塾生と一緒に苦闘しなかったことはありません。その意味で、第一志望に合格できた塾生もそうでない塾生もいますが、どの結果に対しても、僕自身は心の底から彼ら彼女らのがんばりに誇りを持っております。 2010年3月11日
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