嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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付け合わせのサラダのドレッシングのような塾でありたい。

今日、定期的によく行く洋食屋さんで昼食を食べました。そこは非常に値段が安く、料理も手が込んでいてボリュームがあって、本当に素晴らしいお店なのですが、久しぶりに行ってみて、そこの付け合わせのサラダのドレッシングの味に改めて感動を覚えました。普通のドレッシングに見えて奥深い苦味があり、なんというか(付け合わせも含めて750円くらいの料理に)ここまで手をかけ、心を込めて作れるのか、と改めて自分の仕事ぶりを反省しました。

それとともに、最近マルセル・モースの『贈与論』を読み終えて、踏まえておくべき本として(手当たり次第に買ってとりあえず)読んだはずなのに、今の僕の問題意識と重なり合うところが多く、とても考えさせられました。

「質が高いからこそ、値段を高くする」という方向性は市場経済の理屈を進めていくことになるわけですが、そもそもモースの言うように、市場での交換というものの成立が、集団同士の互いの贈与の応酬に由来しているのであれば、その市場経済の理屈を進めていくこと自体が社会的紐帯を破壊する方向へと手を貸すことになってしまいます。「等価交換」が当たり前とされる社会では、交換という行為そのものをいくら繰り返そうと、人と人との結びつきには全くつながりえなくなるからです。逆に言えば相互の贈与の応酬によって「交換」が成り立っているときには、今現在、贈与を受けている側は必ず劣位にあることになります。先のレストランの話であれば、「こんな値段でこんなに美味しくて手の込んだものをお腹いっぱい食べさせてもらって、申し訳ない。」という思いが、自分からもそのお店に対して、あるいはそのお店に対してでなくても他の誰かに対して、何かをしなければならない、という思いにつながっていきます。

価値を正当に評価して交換するという等価交換の発達は、社会の進化に見えて実は退化である、というのがモースの主張でしょうが、これには僕も全面的に同意します。「等価交換」ができることによってプラスになっているものは、社会の紐帯の弱さという見えないところでのマイナスへとつながってしまってきているのだと思います。(これは何もこんな小難しいことを言わなくても、「金を払っているのだから」「こちらは客だぞ!」という見苦しい態度をとる消費者のことを考えれば、当たり前のようにわかることではないでしょうか。お金を払うというだけで、対等な人間同士の関係性ではなくなる、という思い上がりは実は等価交換を前提とする市場が社会に対してもたらす一つの帰結であると思います。)
だからこそ、冒頭で述べたような洋食屋さんの存在というのは、実はこの社会にとって非常に大切であるのです。
これは前にもブログで紹介したべんてんさん、あるいはいつも塾でお世話になっている福よしさんとかも同じように、この社会にとっての財産であるだけでなく、この社会にとって、市場経済の外の可能性を示してくれるお店であると思います。

翻って、嚮心塾も、その定食屋さんのような存在になれているといえるのでしょうか。安さやボリュームは、負けていないのかもしれませんが、品質という意味ではまだまだ改善の余地があるように思います。僕が死ぬその瞬間まで、その品質を少しでも高められるように、すなわちこの塾に通う全ての生徒達にとって僕の指導が月謝分の等価交換をはるかに超えたgiftになれるように、全力を尽くしていきたいと思います。(「超過分のgiftはいつか僕に返してね。」なんて言いませんよ!超過分は、誰かのために使ってもらえたら。もちろん、少し塾に返していただいても・・・)
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