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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

保育園の卒園式

今日は下の子の保育園の卒園式でした。上の子の時も感じたのですが、親にとって保育園の卒園式ほどに感動的なものはない、と僕は思っています。もちろん、小学校の卒業式、中学・高校の卒業式、大学や専門学校の卒業式と、自分の子供の成長を節目として感じさせてくれるものはこれからもあるのでしょう。しかし、保育園の卒園式は文字通りその何年かを子供と共に生き抜いた、という思いでいっぱいになります。

誰しも子供を小さいときから保育園に入れたくはありません。でも生活のため、あるいは学業のために我が子を保育園に入れざるを得ないわけです。自分の子供に対して親としての務めを100%果たせていない、というそのその後ろめたさから、せめて一緒にいる時間は精一杯接しようとしても、現実は厳しいものです。日々の仕事の中で、どうしても忙しければ忙しいほどに子供に対しては十分に努力を尽くせないことばかりになります。子供と接することのできる短い時間にすら、仕事の疲れから、親としてしっかりと向き合えていないことだらけであるといえるでしょう。

だからこそ、保育園の卒園式では親たちは子供たちに「おめでとう」という気持ちをもつ前に、「ありがとう」さらには「ごめんね。」という気持ちが強く出ます。こんな「親」としては駄目な親であるのに、それでも子供達は先生達と一緒に頑張って何年間かを乗り越えてくれた、という思いで一杯になります。だからこそ、ただ成長を喜ぶ、あるいは別れを寂しがる、ということではなく、自身の存在の根底が揺すぶられるかのように、皆が号泣してしまうのだと思います。

僕自身はですって?もちろん、大いに泣きました。僕自身の10代は、自身がいかに完璧な人間であるかに絶望して、自身の死ばかりを望む毎日でした。それから20年以上を経て、僕は自分がいかに不完全であるのか、いかに何もできていないのかを思い知らされる人生を味わっています。保育園や家庭では、親として何もできていないことを、塾に戻れば教師として何もできていないことを日々味あわされていきます。それらは僕にとって、耐え難い苦しさであり、どうしようもない恥辱であり、自身が存在していることが申し訳ないくらいの消え入りたい情けなさを味あわされる一方で、それを何とかするために生き続けようと決意する理由になっています。

森有正がかつて「ヘーゲルの弁証法とは、哲学的な術語(term)ではなく、生きる過程そのものなのだ。」と書いていました。そのように生きる過程としての弁証法を味わえている、ということに感謝して、少しでもマシな親や教師になれるように、引き続き頑張っていきたいと思います。
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