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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

愛人稼業。

著名人の愛人80人騒動なども世間ではありましたが、学習塾や家庭教師などというものは、所詮、愛人稼業であると僕は思っています。「正妻」(学校)の不満や足りないところを補うための役割を期待されて、ちやほやされたり持ち上げられたりしたとしても、少しでも役に立たないと思えば途端に切られてしまいます。あるいは、他にもっと条件のいい「愛人」(別の塾)を見つければ、すぐに切られてしまいます。教育産業で働く教師というのは、誰でもその悲しみを抱えながら教えているのではないでしょうか。結果を出せればよいものの、どんなに努力してもなかなかに結果が出なければ、「貴塾の教育理念に感銘を受けて‥」と言いながらも、さっさと別の塾に乗り換えられてしまいます。
 それだけではありません。そのように、打算からしか始まっていない関係であるのに、教師は塾生や卒塾生を献身的に思いやることを要求されるわけです。それも、そのように一方的に切られた相手をも含めて、いつでもその子のためを考えていなければならない、というわけです。このような、自分にとって非対称的な「愛」を貫くことができるのは、聖人のような心根の持ち主か、あるいはそのような努力の代償として経済的利益を得られるかのどちらかでしか難しいでしょう。しかし、そんなに聖人のような心根の人は多くない以上、そのような家庭のエゴイズムに対して多くの塾の教師が異議を唱えないのは、それでも異議を唱えないことの方が経済的利益を得られる、という打算からの選択であるのだと思います。儲け重視の教育産業というものを僕は本当に唾棄すべきものであると思っているのですが、しかし、逆に儲からなかったらこんなしんどいことなどやっていられない、というのが彼らの本音であり、それはやはり一定の理解を示さねばならないのかもしれません。

 僕自身のことを言えば、教え始めはこのことが本当に苦痛でしかありませんでした。こちらは様々なものを犠牲にして必死に教えていても、少し成果がでなければ(そしてそれは往々にして勉強する本人のモチベーションの低さという要因が強いのですが)とたんに首を切られてしまうわけです。その理不尽に、怒りというよりは深い悲しみを覚える毎日でした。過去形のように話しましたが、それはもちろん、今でもずっと続いていることです。
 しかし、それとともに、そのような価値観の中でも評価され得るように、自分を鍛えなければならない、とも思ってきました。僕のため、ではなくその子たちのために、そのような価値観でしか測れないとしてもその狭いストライクゾーンの中で評価してもなお、嚮心塾が「ストライク」と判定されるような努力をすることで、彼ら彼女らの力になるきっかけを作れれば、と思ってやってきたところがあります。
 かつて、僕の師が、灘やその他全国のトップレベルの受験生を集めて、「せめて君たちのその狭いテレビ画面のような枠に僕を映し出してくれれば、僕はそこからでも君たちと出会えるように努力したい。」という話をされていて、彼らの枠の狭さ、頭の悪さをバカにしていた当時の僕としては、そのような優しさというものを人間が持つことができることに、感銘を受けていました。しかし、今になって自分がそのように取り組むことを続けてきて思うのは、それ以外には道がないのだ、ということです。他に道がないからそうせざるをえないことを、「英雄的な努力」とみなすことは、まさに自分がその「他に道がない」という絶望的な現実と向き合っていないからこそできる態度でしかなかったのだと、改めて反省させられます。それは、どちらか一方(この場合は灘高生)が愚かなのではなく、お互いに狭いストライクゾーンの中でしか他者を理解できない、という条件の下で、人間が他の人間をどのように理解しうるのか、という普遍的な難題であるのだと思います。

そしてさらに難しいのは、そのような互いにずれた狭いストライクゾーンを端緒としてもなお、人間同士でわかりあえることがあるとしてもしかし、それはもっと幸福になるとは限らない、ということです。永遠にわかりあえないでいるのなら、それはそれで幸福感を味わえるのでしょう。人間と人間とがわかりあえてしまうことは、永遠にわかりあえないでいることよりも、はるかに残酷な結果を引き起こすのかもしれません。わかりあえていないのに、わかりあえている振りを続けることができなくなるからです。そのような深い関わりを、いかにして避けて生きるか、が幸福であり続けるためには必要なのだと思います。しかし、それでは真理の探究は犠牲となるでしょう。

わかりあえないという絶望を嘆いているときのほうが、分かり合えるとして、しかしそれはより深い絶望でしかないと気づくことよりもはるかに幼稚な態度であるのでしょう。人間は残念ながら、分かり合える。しかし、それは人間にとって他者として設定している人々への理解を拒むことで成立するほとんどの人間的関係を乗り越えてしまうが故に、希望ではなく、絶望である。あるいは、連帯ではなく、孤立への道である。そのことを、森有正の『ドストエフスキー白書』や原田正治さんの『弟を殺した彼と、僕』という本を読みながら、考えていました。

閉じた内部を愛することしかできないのなら、人間は昆虫と同じです。それはベルクソンが言っている通りだと思います。しかし、閉じた内部から出て、外部を理解しえてしまうという、この人間の認識能力、というより情動能力は、人間自身にはかなり耐えかねるものなのだと思います。それが、ドストエフスキー自身が、何度も書き連ねた人間が根本において直面している問題です。いや、これは別にドストエフスキーが書こうと書くまいと、根本的な問題として、人間自身がずっと直面してきたことなのでしょう。

その意味で、今年も最後まで僕は自らの「愛人稼業」に誇りを持って、生徒一人一人を教えていきたいと思います。自分が理解されないとしても、自分が理解をすることを恐れずに、一人一人を鍛えることに専念して、残りの厳しい受験を徹底的に戦っていきたいと思っています。
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