嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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通信第14号

バイオエタノールについては、もてはやされ、さらにその問題点が指摘され、ということが一巡した感じはありますが、それが化石燃料に頼り続けるという我々の文明や歴史自体へのreviewにつながっていないのは依然として同じであると感じています。

第14回 そんなの解決じゃねぇ!(小島よしお風に)

いやぁ、お久しぶりです。不死鳥のように復活!なのですが、半年もサボってしまって、すみませんでした。

 さて、タイトルとどうつながるのかをご説明しないまま、まずはバイオエタノールについての話から始めちゃいます。バイオエタノールって何ぞや、という方に説明を簡単に致しますと、バイオエタノールとは植物由来の燃料で、トウモロコシ、サトウキビ、その他小麦の収穫後の茎などから作ることができるそうです。そのバイオエタノールを、それを利用できるエンジンの付いた自動車に入れると、ガソリンの代わりになるというすぐれもので、原油の値段が現在のように高騰したり、原油のとれる量自体に限界があることがわかっている現在、かといって燃料電池(水素を空気中の酸素と結びつけて水にすることでエネルギーを得ます)はまだまだ実用可能となるにはほど遠いこの現状の中、当座の策として急浮上してきたのでした。(バイオエタノール先進国のブラジルではもうずいぶん前から普及しているみたいです。僕も10年以上前にマンガでそれを読んだ覚えがあります)さらにこのバイオエタノールにはもう一つ「良い点」があります。それはその原料となる植物が成長する過程でCO2(二酸化炭素)を吸って光合成をしてきているので、バイオエタノール自体は燃やせば燃やす程CO2を排出するものですが、今の地球温暖化防止の枠組みでは、その排出量から原料となるサトウキビなりトウモロコシなりが生育するのに必要としたCO2を引いて計算することができるのです(この計算方法を採用していて良いのかは、はなはだ疑問が残るものではありますが)。即ち、バイオエタノールを使えば、その生育する間のCO2吸収量分だけ石油や石炭などの化石燃料を使うよりもCO2の排出量を「減らした」ことになるわけです。このような理由からバイオエタノールは燃料不足と温暖化対策の救世主として脚光を浴びています。

 もちろん、新しいエネルギーを様々に工夫していこうとすることは、とても難しい問題であるが故になかなか完全な解決策など見つからないのは当たり前のことです。その欠点をあげつらうだけで、実際にエネルギーが足りないという問題を解決しようとしないのは無責任でしょう。しかし、その点を考慮しても、やはり僕はこのバイオエタノールには大きな問題があるように思えてしまいます。まず考えねばならないのは、食料にまわすことのできる穀物を燃料に用いるというそのことの意味です。単純に考えて、燃料としてのバイオエタノールを用いる人々(即ち自動車を用いる人々)よりは、トウモロコシを食べる人々の方がより貧しいのは明らかなことです。だとすれば、バイオエタノールを人間の食べられる穀物から作れてしまうということは、貧しい人々の日々の糧を奪っては、先進国の人々の自動車の燃料になるということにはならないでしょうか。食物と燃料とでは明らかに食料の方が人間が生きていくのに必要でしょうが、しかし、その当たり前の優先順位よりもむしろ、どちらにお金があるのかが優先されるのが市場社会というものなのですから、燃料としてのバイオエタノールを先進国が安く買いたたいたとしてもまだそれが、市場にはのらない半自給自足社会での食料としての穀物の価格よりも高くなるということにはなり、結局食料用の穀物が減っていってしまうというおそれがあります。最近の穀物価格の上昇はこの懸念がそれほど取り越し苦労ではないことを示しているように思います。
 次に考えねばならない点は、たとえば第一の問題点が何とかクリアできて、人々の食料生産をバイオエタノール生産よりも必ず優先するという仕組みを国際的に何とか作ることができたとします(これ自体がかなり不可能に近い話ではありますが)。そののちに、小麦を収穫後の茎など、本来は廃棄するものからバイオエタノールが作られるのなら、それはそれで食料不足をさほど招かずにうまくいくのではないか、という主張もなされると思います。しかし、このような取り組みがうまくいったとしてもそれは第二の問題、即ちそれが堆肥として地味を肥やすために今まで使われていたのであれば土壌の荒廃を招くという結果を招いてしまいそうです。植物を残さず有効利用しているつもりがやがて不毛な土地ばかりができてしまい、そもそもその頼みの植物さえ生えてこなくなってしまうという笑えない結果を引き起こしてしまうかもしれません。石油が買えず、燃料の足りない途上国限定の燃料としてバイオエタノールを使うという心ある取り組みも生まれていますが、石油を買う事ができないために燃料不足に苦しむ途上国でバイオエタノールを作るということは、確かに先進国でそれを用いること以上に有意義ではあるものの、しかし結局は途上国の土壌の荒廃や森林の伐採を招いてしまうのではないでしょうか。途上国には石油が回らない仕組みそのものを変えて行かねばならないと思います。     
 第三に、そもそも石油や石炭、天然ガスという化石燃料と呼ばれるものは生物の死骸が長い年月を経て高圧や高温によって変質してできたものであるのだとしたら、バイオエタノールを作るためにエネルギーを費やしながらそれをエネルギー源として使っていくというのは、今までは自然の力で作られていたエネルギーを今度は人間の使わせてもらっているエネルギーを使って作り出そうとするということです。それは少なくとも石油や石炭、天然ガスを採掘するよりも遥かに少ないエネルギーで植物をバイオエタノールに変えられるのでなければ、エネルギー収支が赤字になってしまうでしょう。仮にそれができたとしても、何か地球ができてから今までに死んでいった生命でできたその貯金を使い果たしそうになってきたので仕方なくその場で生命を殺してやりくりをしているようで、それが解決策になっているようには僕にはどうも思えません。
 そもそも、化石燃料を使い果たすとはどういう意味を持つのかについて、私たちは考えていかなければなりません。生物の死骸から我々の今用いている化石燃料が生まれているのだとしたら、我々は親の遺産を食いつぶすように地球の生命のあらゆる歴史を食いつぶしているわけです。それが足りなくなったから今生きている他の生物を燃料に変えていこう、というのでは他の生物に対して配慮がなさ過ぎるように思います。

 
 このように、バイオエタノールが解決する問題点とバイオエタノール自身が招く問題点とを考え合わせてみると、僕は学校で質量保存則やエネルギー保存則を習ったとき、「あ、つまり僕がどのように生きようとどんなにがんばろうとそれらは全て徒労でしかないということなんだ。」という深い絶望を感じたことを思い起こします。もちろんそれは、「閉じた系」という考え方が人間の仮説にすぎないということを忘れて現実のありようであると見なすという幼稚な思いこみではあったのですが、しかし、そのことが僕にとってはとても考えさせられるきっかけになったことは確かです。そして、現在の人類に足りないのはひとえにこの絶望であるようにも思います。死によって全てが終わるという言説もまた、一つの仮説に過ぎないのかもしれません。しかし、その仮説は僕にとっては、死後の世界に天国や地獄であれ、六道輪廻であれ、何らかの因果応報によって自分にとっての世界が続いていくと考えることよりも、自分の人生にとって遙かに実りの多い仮説であるように感じます。また、宇宙に目をやれば、もしこのどこまでも広がり続けるとされる宇宙の中で意識を持つ生命体が私達だけだとしたら、私達はどれほど大きな責任を負っていると言えるのでしょうか。もちろんこのように考えることから、その「他の存在者への優越」を誇るという幼稚な姿勢も、最初は現れるでしょう。しかし、その後に来るものはどうにもしようのない孤独と絶望、そして責任の意識でしょう。生命の誕生が「意識」という第二の生命を誕生させたのがただ我々においてのみであるとしたら、我々は全宇宙のその存在を費やしてでも、その与えられた責任とは何かを考えざるをえないわけです。人類は、その責任に、ひどく耐えかねている。それが「宇宙開発」の隠れた動機なのではないかとさえ僕は考えます。

 そして、「問題に取り組む」とはどういうことかを考えて行かねばならないと思います。たとえば以前、僕が尊敬している方の一人が、自分の子どもが小さい頃にさんざんに不注意でガラスのコップを落として割ったことをふまえて、ガラスや陶器ではない割れないコップをお子さんたちに用意した、というお話を聞いたことがあります。その話を聞いたとき、僕はその方の創意工夫とねばり強い努力に本当に感心するとともに、「しかしそれは問題の解決ではない。」(そんなの解決じゃねぇ!)と強く思いました。それではガラスのコップを落として割ってしまっている子どもたち自身がそれを深く反省し、落とさないような人間になるわけではないからです。
 また以前、この通信の第5号でもご紹介した無洗米も、あのフィギュアスケートの荒川静香選手の広告でおなじみの金芽米の会社の社長さんが米のとぎ汁が海を汚しているということに心を痛めて開発したものだそうです。その社長の心の動きや創意工夫の努力には本当に頭が下がります。しかし、それはやはり問題の解決ではない(「そんなの解決じゃねぇ!」)のです。なぜなら、それは「水(下水道)に流してしまえば、後は誰かが何とかしてくれるだろう」と無責任に思いこむ私たち自身の無責任さ、一旦水道が出来てしまえばそれの来し方行く末を考えない私達の無責任さなどがそれによって何か変わるわけではないからです。
 このように小島よしおさん風に「そんなの解決じゃねぇ!」と言ってばかりの僕自身もまた「そんなの解決じゃねぇ!」ことに気づかず、大失敗したことも、もちろんたくさんあります。たとえば、去年の夏頃、僕は今いる自分の娘(当時三歳でした)の下に、もう一人子どもがほしいと思っていました。なぜならうちの娘はとても天真爛漫なところはよいのですが、弱いものへの思いやりがいまいち欠けていると思っていて、そこで下に弟妹ができれば、その点が改善されると思ったからです。そのことを僕の師匠に話したところ、「そんなの問題への取り組みじゃねぇ!」と喝破されました。この場合でいけば、たとえそのことで上の娘が弱い者への思いやりをもてるようになったとしても、僕の娘が目の前に弱い者がいなければ弱い者への思いやりをもてない、あるいは僕が自分の娘に弱い者への思いやりを伝えられない、という問題の解決には決してならないのでした。
 
 バイオエタノールに話を戻せば、先進国が資源を使ってしまって途上国にまわらないのであれば、それをまわるようにしていかねばならないですし、そもそも燃料が足りないのなら、使う量を減らして行かねばなりません。それらの根本的取り組みは、確かにとても困難であるでしょう。しかし、他の解決方法を探ることは結局その問題の解決にはならず(「そんなの解決じゃねぇ!」)、その問題を先送りしていくだけなのではないでしょうか。
私たちは、誰か他の人のブレイクスルーだけでは、何も本当には自分の問題が解決しないということを自覚しなければならないのだと思います。金芽米の会社の社長さんのブレイクスルーは、彼にとって一つの問題への取り組みと解決法であったこと、そしてそれがこの社会にとってこの上もなく貴重で有り難いものであったことは間違いがありませんが、しかしその成果に私たちが頼りさえすれば問題が解決すると考えるのはやはり、問題を先送りにしてしまうことになる(「そんなの、解決じゃねぇ!」)ことになってしまいます。アダム=スミスのいうような「分業に沿って、各々が各々の持ち場で努力してさえいれば自然とよりうまくいく」という考えはまた、彼の意図を超えて、「本当は自分に関わる問題でも自分が解決しなくていいかもしれない」という淡い期待を生み出してきたのかもしれません。しかし、その淡い期待を捨てなければ、一つ一つの問題への真の取り組みは始まらないように思います。
 そのような先送りの歴史の一つの成果として、このような現在の人間の文明が発達してきたのかもしれないとしても、また僕自身も先にご紹介したようにそのような問題一つ一つをがっきと受け止めることを忘れてしまうという鈍感さの中に沈んでしまうという過ちも多いのですが、それでも、自戒を込めて、小島よしおさんのように「そんなの解決じゃねぇ!」と言っては、本当の解決とは何かを考えていかなければならないと思っています。先送りによっていくら他に発達する部分が増えようと、それは肝心の問題については何の解決にもならないということをもういくら何でも気づかねばならないほどに、私達は犠牲を重ねてきてしまっています。
 どんな問題も他の誰かに任せておくだけではだめだというのは、一見面倒ですが、しかしそれはどんな問題も自分に出来る事が何もないわけではない、という事でもあります。沖縄の反米軍基地闘争に携わった阿波根昌鴻さんが世界人権連盟議長のボールドウィンさんに「核戦争を止める方法がありましたら、教えてください」と聞いたとき、彼の「みんなが反対すればやめさせられる。」という答えに心から納得したそうです。その単純な答を、「そんなこと誰でもわかる」と鼻で笑うことなく、深く感じ入る事の出来るその篤実さこそが、むしろより深い賢さの現れであると思います。
      2007年12月6日
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