嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

お久しぶりです。

いつもながら、日々の塾に忙殺され、気がつけばセンター試験一週間前、中学入試も今日を皮切りに始まるという時期になってしまいました。ブログに書きたいこともストックしていたつもりが、
なかなか書くことができずに、こんな時期になってしまいました。
ここから先、ますます忙しいのですが、しかし何とか時間を作ってはポツリポツリと書いていこうと思います。

どの受験もそれぞれに大変なことが多いのですが、特に大学受験というのは勉強をやらされてやるものではないだけに、自分自身のこれまでの人生と向き合わざるを得ない受験生が多いように思います。
自分の人生を振り返り、あるいは試験が間近に迫ったこの一年を振り返り、嫌になることが多いでしょう。
特にこの一年に関しては、情けない自分を思い知らされる一年だったかもしれません。
しかし、それでも受験生の皆さんは、残りわずかな時間を、少しでもまともな努力を積み重ねることが大切です。
なぜなら、どこかから、「区切りよく心機一転頑張る!」ということができないのが人生であるからです。
人生は切れ目のない敗北の連続です。それは「受験での合格」のように、解りやすい勝利によって目をそらそうとしてもそらしきれないほどに、無力な私たちを圧倒していくものです。その中で、外側からの切れ目が自然に生じて、そのチャンスをうまく自分もつかむことができて、今までの情けない人生を変えることができる、などと期待しても、結局うまくいかずにそのまま一生を過ごすことになるでしょう。
 
絶え間ない敗北の連続に、それでも諦めることなく、何とか今日こそは違う1日を過ごそう!と必死にもがく
人間にだけ、もちろん理想通りにとはいかないまでも、もがいた成果が必ず残るはずです。
もちろん、その「成果」もまた、より視野を広げては広い世界を見渡せば、何の成果にもなりえていないことを
また気づかされることは必然であると思いますが、しかし、そこでの新たな敗北にも、敗北の連続から立ち上がったという経験自体は、通用するかもしれません。

今までの自分がどんなに情けないままであろうとも、それは次の瞬間も情けないままであることを決して決めはしません。決定論は、自由に耐えようとしない精神の怠惰さ故に作られたものであることをベルクソンの『時間と自由(意識に直接与えられたものについての試論)」は述べているのだと僕は思っていますが、しかし、確かに、それは敗北に敗北を重ねている人間にとっては、耐え難い主張であると思います。たとえば20代にそれを読んだときに受けた感銘は、30代を終えようとしている今、改めて考え直すに、極めて重い十字架のようにも感じられます。敗北を積み重ねてくればくるほどに、この次の瞬間の「自由」に対して、もはや耐え難くなるのです。

そこに自由さえなければ。汚れて失敗した自分が、そのようであり続けるのは、過去の自分のせいであり、現在の自分のせいではない、と言い張ることができます。しかし、現実は残酷です。汚れて失敗した自分が今この瞬間にもなお、そのようであり続けるのは、現在の自分がそれを選びとっているからであるのです。過去は(少なくともこの瞬間の行為の選択には)関係がありません。恐ろしいほどまでに、我々は過去から自由であるのです。

受験生が、日々頑張れなくなるのは、まさにそのような自由を日々突きつけられるからであると思っています。
彼らを励ますことができるのは、同じようにあるいはそれ以上に敗北にまみれ、ダメな自分を突きつけられてもそれによって自分が頑張らない理由を探すのではなく、今この瞬間に頑張ろうともがき苦しむ人間だけであると思います。
僕自身がそうであるかどうかは、自信のないところではありますが、しかし、そうでありたいとは
思い続け、もがき苦しんでいることは確かです。そのように苦しむ受験生に、少しでも力になれるように、残りわずかですがしっかり教えていきたいと思います。
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