嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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L型大学・G型大学の話について

ふっふっふ。あんな長いの書いたから、次の更新は一ヶ月後くらいじゃね?と思ったそこのアナタ!
「二日に一回更新を」という目標を掲げたら、なぜか書きたいことが沢山でてきてしまい、寝かせてあるネタが
山ほどあるのです。今日は明日の朝からまた教えきゃいけないことなんか忘れて書いちゃいます!(本当はブログ書いてないで、塾のパンフレットの巻頭言を(まだ夏休み前に書いたものを使っているので)早く書き換えねばならないのですが…。)

と言っていないで、本題に移りましょう。
ちょっと前にL型大学、G型大学という話が話題になりました。L型のLはlocal,G型のGはglobalで、要は「すべての大学が教養教育をする必要はない。むしろ実用に堪える技能や知識を身につける方が大切だ。なので、G型と認定されるレベルの高い大学だけ、今までの大学での学問を、それ以外の大多数のL型の大学は実用的な知識や技術を身につけるような教育にシフトすべきだ。」という話です。産業再生機構の冨山和彦さんが教育再生実行会議ででしたかどこかで言っていて、学者の間でも意見が分かれるとは思うのですが、僕がざっと見た感じでは、ほとんどの大学教員は反対、労働関係の学者で一部賛成、それに対して産業界では賛成意見が多い、という感じではないかと思います。

まあ、この反応の別れ方自体は当たり前でしょう。基本的に大学の先生というのは、大学で勉強をしてきた中でそこに人生を懸ける価値を感じ、その道を選んできた人々ですし、そもそもその点において、エリートです。逆に言えば、産業界の人々というのは、上場企業の社長であろうと何であろうと、学問の道という意味ではほぼおちこぼれです。東大や京大、早稲田、慶応の中でのおちこぼれですよね。もちろん、日銀の黒田総裁のように学究肌で実務でも極めて優秀かつ、碧海先生と一緒にカール・ポパーの翻訳をしてるような凄い人もたまにはいるのでしょうが、それはあくまで例外的であり、おおむねこのように意見が分かれるのは当たり前でしょう。

問題は、そこで意見が分かれることではないと思っています。この論争というのは古くて新しいものなので、そもそも日本の教育制度において、ごく一部の学部を除いては学部教育が職業教育とはリンクしていない、という現実をどのようにすべきかという論争はずっと続けられてきていると思います。また大学の学部が硬直的で流動性がない時代には、その教育と労働の隙間を専門学校や各種学校が埋めるように発達してきた、という事実もあります。そのような中、(下位の大学は時代のニーズに合う学部をあれこれ作ろうとしてきたとしても)ほとんどの大学ではその労働社会によって要請される短期的ニーズを満たさないままできた、という事実は認めた上で見直していかねばならないと思います。それは学問がこの社会にとってどういう意味をもつのか、というより包括的な議論も含めて、です。

そもそも、いわゆる実用的なニーズに基づいた職業訓練校、というのは時代時代によって必要なものが変わってきます。逆にそういう当面のニーズを無視した学校というのは、ニーズを満たさないにせよ、新たなニーズを生み出すイノベーションの母胎となる可能性もある訳です(もちろん、大多数はうまくいかないとしても、です。)。そういう意味で、社会に無駄なものを抱える経済的余裕があるときには、むしろG型大学をたくさんもっておくことが賢い戦略と言えるでしょう。なぜなら、そこでうまれる新たなイノベーションは、今までにそこに可能性があるなどと予想もできなかった新たな分野を開拓するからです。一方で現在のニーズにそった実用的な職業訓練校を増やす、というのは社会に無駄なものを抱える経済的な余裕がなくなったときには、そうなりがちだというだけでなく、正しい選択であるとも言えるでしょう。しかし、それによって新たなイノベーションの可能性は少なくなり、後追いによる利益の最大化を目指そうとすることになるという欠点もあります。それはそもそも経済的に困窮しているときには必要な戦略ですが、逆に言えば(予想もしない分野でのイノベーションの可能性を放棄するという意味で)いずれ行き詰まる戦略であると言えるでしょう。

つまり、大切なのは、そのどちらも恒久的な戦略とはなりえない、ということを私たちが認識することであると思います。経済的に余裕があるときは無駄な可能性をできる限り追求することが(新たなイノベーションによって新規分野でのナンバーワンになれる可能性があるという意味で)良い戦略ですが、経済的に余裕がないときにはこれは自殺行為であると言えるでしょう。一方で、できる限り実務に特化した職業教育を広げる、ということは経済的にきついときにはとらざるを得ない戦略ですが、いつまでもそれをやっていれば、逆に新たなイノベーションを生み出すことはできず、やがて衰退していきます。なぜなら、どこでイノベーションが起きるかはどんな天才であれ、人間に予想がつくものではないからです。またこれに関して、L型大学の数を増やしても研究センターとしてのG型大学さえあれば、そこで研究をしているから大丈夫だ、とは残念ながらなりません。研究センターを絞り、競争的研究資金を争うようになれば、必ず「有望な」研究、あるいは「有望な」研究者にのみ、予算がつくことになります(現にそうなってきてますよね)。競争的研究資金を獲得できるのは既に有名なラボにどうしても偏ってしまうでしょう。当たり前です。それを審査する大家達は、既存の研究という先入観を持っているからです。しかし、どこに今まで開拓していないフロンティアがあるかは、大家にもわかりません。むしろ、その道の大家であるほどわからないと言えるでしょう。だからこそ、イノベーションが起きる為には、レベルの高く資金力のあるセンターが少しあるよりも、「こんなの、何の役に立つんだ。」という研究をしているラボがたくさんあることが大事であるのです。

このように、実用か教養か、という古くて新しい問題は実は「どっちも大事」であるからこそ、今はどっちを優先すべきか、そしてそれはどういうふうに状況が変わったら見直すべきか、という見直しのサイクルを短くすることの方がむしろ大事であると思います。そして、そのときに大切なのは、そのような変更が不可逆的にならないように制度を工夫していく、ということであると思います。

それとは別に、僕は職業柄大学入試に関わっているので、大学の先生方の大学入試を公正なものにしようという情熱というのは本当に素晴らしいものがあると、いつも感心させられます。真理の探究という個々の研究者の動機に支えられてあのような努力がなされていることが、極めて精密なレベルでの応募者の選抜に役立っていると思います。そして、それが産業界が何だかんだいって、応募者がどこの大学を出ているのかを重視している根拠にもなっているのだと思います。G型・L型を導入するかどうかの議論というのは、「たとえば真理の探究など無意味だ!」という主張をする産業界が実は、真理の探究を動機とする学者の努力に、会社の新しい構成員の質の担保をかなり大きな部分で依存しているというように、極めて複雑に絡み合っているのだと思います。大学が今、教育再生実行会議で議論されているように点数で入学者を決めなくなってくるとしたら、それによって新入社員を選ぶコストがよけいにかかる割には、あまり良質な応募者を選べないという結果に陥るのは、むしろ産業界なのではないでしょうか。このように、現在の大学のどれが役に立っていて、どれが役に立っていない、という評価も実は非常に難しいのだと思います。大学の教授達が実用的な教育に無関心であるからこそ、大学入試の選抜能力の質が高く、それが各企業が単体で学生を選抜しなければならないコストをかなり下げている、ということもまたあるかもしれません。だからこそ、それを評価していこうとすることと、それが評価しきれると決めつけてしまうこととは全く違いますし、絶えず見直しをしていくことが大切だと考えています。
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