嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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国会での足の引っ張り合いは無益か。

安倍内閣でも、鳴り物入りの女性大臣の二人が有権者への利益供与の疑いで辞任しました。これに関しては、追及する側の民主党議員でも、政治資金の記載があやしいところもあって、安倍首相が「打ち方やめになればいい」と言ったの言わないのだのも問題になっています。

このようなことがあるたびに、私たちの常識的な反応としては「そんなくだらないことで相手を攻撃するのなんてばからしい。それこそ、そんな低レベルの追及合戦はやめて、政策論争にこそ真剣に取り組むべきだ!」的な感想をついもってしまいがちです。しかし、僕はそのような感想を持つことこそが無責任であると思います。なぜなら、このような「くだらない追及の仕方」こそが実は高度な民主主義社会においては、不可避であると思うからです。

それがなぜかと言えば、これだけ様々な社会の抱える問題が高度化、複雑化している中で、個別の政策論争をいくら政治家同士がかまびすしくやったとしても、それに我々国民はついていけないからです。与野党で主張が大きく別れるような政策論争上の争点が仮にあるとして、それについてどのように各陣営が互いの主張の正しさ、相手側の主張の欠点を説こうとも、肝心の我々国民にはそのどちらの主張がより正しいのかを判断する能力がありません。「能力」という言葉は実はさらにごまかしで、それを判断しようという意図がそもそもないと言えるでしょう。それほど私たちは、日々の生活に追われ、目の前の仕事に追われ、その中で政策論争の双方の主張をしっかり勉強しては、そのどちらが正しいのかをいちいち、多岐にわたる分野において精査することなどする気にもなれないでしょう。

日常生活が安定している中では、当然個別の政策への関心は薄れます。あるいは、安定していない状態にある人で、その状態の政治的解決を目指す人々は、その単一の課題に全力を尽くします。結果として、一人一人にとってkeenである政策(即ちそれは、その政策の対象とする範囲の人々が極めて狭いもの)以外に関しては、ほとんどの国民は関心を持たないといえるでしょう。

そのような「無関心」の中では、野党側がいかに個々の政策論争で与党よりもよい提案をしようとも、それを理解し評価できる有権者などはほとんどいないわけですから、そのような地道な努力が与党の力による独断専行にブレーキをかけられることはありません。たとえ、それを個別の政策についてしっかりと観察し、評価する国民がいるとしても、それはごく少数であり、選挙の大勢には全く関係がないでしょう。このような状況の中で、野党として与党の独断専行を防ぐためにとれる方策は、「政策論争などの勉強していない人でもわかる論点で戦うのではなく、国民の誰にでもわかるような部分で与党を批判する。」という作戦しかありません。それが即ち、「カネ」「女性あるいは男性」スキャンダルであるわけです。これならば、一人一人の倫理観の問題であるがゆえに、個々の政策について吟味する気力も意図もない国民にとっても、わかります。「こんなカネに汚い人に政治は任せられない」「こんな異性にだらしない人に政治は任せられない」という言説は、それが命題として正しいかどうか、そもそも検証可能な命題であるのかどうかをさておいたとしても、有権者にとって訴え、かつ理解してもらえる数少ないチャンネルの一つであるのです。だからこそ、「そんなあら探しではなく、政策論争を!」という一見理性的なかけ声を私たち国民が、訳知り顔で言っているうちはこの状況は変わらないと言えるでしょう。野党の国会議員もバカではないのです。むしろ、そのような主張ならマスコミも大きく扱ってくれて、国民も問題視してくれるというこの状況を苦々しく思っているでしょう。しかし、他に権力の抑制のために訴えられる手法が極めて限られているため、結局そのような手法をとらざるを得ない。そのジレンマに苦しんでいるのだと思います。

このように、醜いように見える「足の引っ張り合い」にも必ずその裏に、もっと深い動機があるのだと思います。しかし、です。このような攻撃手法の行き着く先は、やはり地獄です。そもそも、こうした状況を深く理解し、戦略的に行動しているよほど切れ者の議員か、あるいは本当に聖人君子のような議員でなければ、相手をこのような基準で攻撃すれば、当然自分たちも火の粉をかぶることになります。当たり前です。つまり、権力を握っている側の独断専行への対抗策として導入したはずのこのやむをえない攻撃が、結果として自分たちをも傷つけ、そもそもこのような筋の悪い手法をとったのにも関わらず、権力へのブレーキとしてはさして有効なものではなくなる訳です。そして、残るのは双方のこのような下世話な攻撃に慣らされ、さらに愚かになっていった国民、という恐ろしい事態でしょう。もちろん、マスコミがこれを増幅するのがよくない、というのも正しいのですが、所詮マスコミは買い手の求めるものを書くものです。それは朝日新聞であれ、産經新聞であれ同じことです。

ここには、民主主義がそもそも人口が億をこえるような社会において成り立ちうるのか、という壮大な社会実験の成れの果てがあるのかもしれません。これだけ構成員が多い社会で、これだけ様々な社会制度が複雑になってはその概要を一人の人間が把握することなどどんな天才にも難しい、という状況の中で「政策論争」が国民の代表の間で可能であるのか、可能であるとしてもそれが国民の投票行動とどうリンクしうるのか、という難しい問題を抱えているのだと思います。

その上で、私たちはもっと勉強をしなければなりません。「中傷合戦や粗の探し合いはうんざりだ。もっと政策論争を!」と偉そうにいう私たちは、実際に政策論争をされていったときに、その双方の主張を精査しては立場に偏りなく判断できるのでしょうか。そもそも、日々の仕事や家事、育児に追われて、「そのような難しいことはわからない」という姿勢をとってはいないでしょうか。自分の仕事と家庭のことだけを考えているから、政治家に「倫理観とかについて与党を攻撃しないと有権者にはわからないだろう!」と見くびられて(また事実その見くびりは正しいのです)、結果として民主主義の失敗とでも言える事態へと落ち込んでいってしまっています。「下らない追及をしやがって」と憤る前に、あのような下らない追及をするところまで自らの品位を下げてでも、権力を持っている側の独断専行にブレーキをかけようとしている(かもしれない)彼ら野党議員の悲痛な思いに思いを馳せねばならないと思います。たとえ、野党が自民党であれ、民主党であれ、です。そして、考えるべきことにはやはりそれが大きく複雑な問題であっても取り組んでいかねばならないと思います。少なくとも僕は、それを、教育の面からやっていきたいと思っています。

学習塾にとっては、「バカでもわかる卑近な評価基準」とは即ち、合格実績である訳です。教育ジャーナリストのおおたとしまささんが母校の麻布高校のことを振り返ってBLOGOSで書いていて、「麻布の自由が守られる為には麻布は進学実績を出し続けねばならないことを後輩諸君は心して欲しい」ということを書かれていました。これは事実認識としては、その通りである訳ですし、嚮心塾も、広告を出さない、DMも打たない、検索してもこんな文字数が多く塾のことを説明してないブログしか出てこない、最近に至っては看板すら出さない日の方が多い、という中で何とか営業できているのは(改めて書いてみると、我ながらひどいですね。)、ひとえに(毎年の受験生が頑張ってくれた)合格実績のおかげであるわけです。しかし、まあ、そこに満足してしまうのは、結局国会での足の引っ張り合いで満足してしまう国会議員とあまり変わらないのだ、と自戒していかねばならないと思います。もちろん、できる限り全員を合格させてあげたい、という思いはずっと強くありますし、そこにもまだまだ改善の余地があります。ただ、それは手段であって目的ではありません。彼ら、彼女らがそのように真剣に学ぶ塾での日々を通して、勉強にはきりがないこと、社会の中で自分が生き延びるという以上により大きな責任を担っていくためには自分の人生だけがうまくいっているだけでは駄目であること、そしてそこまでを射程に入れてがんばろうとするとき、どのような天才にとっても人生は極めて厳しいのだ、という事実を直視した上で、そこに粘り強く立ち向かう一人一人になっていってほしいと思っています。

このように、大規模な社会であるほどに民主主義は人々の知性ではなく、倫理観に、即ち言葉をかえれば劣情に訴えることが最も有効な戦略になる、という意味で民主主義はファシズムを準備していきます。それは、失敗した民主主義がファシズムにつながる、という個別の失敗ではなく、そもそも民主主義というもの自体に原理的にそうならざるを得ないものがあるのではないか、と僕は考えています。
このことについては、またしっかり書きたいと思っているのですが…。いかんせん、それはかなり時間をかけないとですね。まあ、ちょこちょことは書いていきたいと思います。

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