
以前、TBSの『金スマ』という番組で近藤誠さんが出て、自身の持説である「がん放置療法」について語っていた、という話です。僕はその番組は見ていないのですが、その近藤誠さんの主張に対する反論は様々に読みました。たとえば、
腫瘍内科医の勝俣範之さんのtwitter、あるいは(この番組に直接ではないものの、以前に近藤誠さんに反論した)NATROMさんのもの、さらには金スマのこの回に関してのdirectな反応としては、このブログなどが有名でしょう。
こうしたお医者さん達の反論(「そもそも大多数のがんは早期発見により治せるがんであり、近藤医師の『本物のがんは見つかっても治せないし、がんもどきは放っておいても大丈夫だから、がんを治療しても仕方がない』という二分法はおかしい」)は僕も正しいと思います。ただ、それをいくら声高に主張しても、こうした近藤さんの主張を信じたい人々にはあまり効果がないのだとも思います。このような近藤さんの主張は、それを必要とする人々のニーズに支えられているからです。それがお医者さんの間ではいまいち、よくわかっていないからこそ、こうしたデマが広がる隙を与えているのだと思います。
そもそも、人間は厳しく残酷な現実に目を向けたがるものではありません。できればそのような現実に自分が直面していることからは目を背け、だましだまし生きていきたいものです。しかし、ある日自分ががんである、とわかったら、そのような残酷な現実に急に直面させられるわけです。自分ががんである、という事実以上に厳しいのは、その時点から手術、化学療法などその厳しい現実と、そこから先何年も絶えず向き合うための努力を要求されるということです。合理的に判断できる人であれば、(もし長生きしたいとその人が思っているならば)それらの努力をすることでまだ長く生きられるのであれば、そのような治療に取り組む道を選ぶはずです。しかし、そのように合理的な判断をするよりは、何となくその厳しい現実に向き合いたいたくない、というぐらいの逃げの姿勢で「そのことについては考えないようにしたい」と思っている人は(医師のような知的エリートには想像つかないくらい)多くいるのです。そして、その人達にとっては近藤さんの話す「放置療法」は天啓のように聞こえるはずです。
ですから、本来は近藤さんのこのような主張に説得力を無くしていくためには、もちろんその主張の誤りを指摘していくことは大切だとしても、それだけでは大して影響がありません。それは理性的にどちらの主張が正しいかを判断できる人々にしか響かないからです。そして、それはごく少数でしょう。
それよりも、がん患者の治療に於いて、もっと手術にいたるまでの、そしてそれに加えて手術後のメンタルケアを充実させる、というところこそがより根本的な解決になるのではないかと思います。そして、そこに関しては僕が寡聞にして知らないだけかも知れませんが、まだまだ不十分であり、「手術とそれによって生まれるメリットを理性的に判断すれば、患者はみな手術を喜んで受けるはずだ!」という人間の理性を過信した取り組みしか為されていないように思います。近藤さんの主張が広まる、本当の原因はここにあるのだと思います。そもそも外科手術自体が(医療行為として)市民権を得たのがせいぜいこの300年くらいの話でしょう。がんの手術で100年ちょっとです。その技術の発達に多くの人々の意識が追いついていないことなど、当たり前である以上、人々の意識の低さに対してどのようなアプローチをとるかを医療に携わる人々が考えていかねばならないのだと思います。
というのを、教育に引きつけて書きますと、「このままじゃ受験、絶対落ちるよ!」「このままじゃ定期テスト絶対悪いよ!」ということを毎日口を酸っぱくして言っていたとしても、それがどのような現実へとつながっていくかを感じ取り、現在の見たくない現実を直視して一歩一歩努力できる子など、そもそも元々賢い子がちょっとさぼってました、というだけであり、全体の中ではごくレアケースです。たいていの子達は、自分の5年後、10年後など想像しないで生きていますし、毎日が楽しい、楽しくない以外にあまり関心がありません。その結果として自分が将来困ることを口を酸っぱくして周りの大人が説こうが、そもそもそれをイメージすることも、ましてやイメージした上で苦痛を伴う現在の努力を始める、ということなどはできません。だからこそ、それがどのように困るのかを丹念に本人にわかるまで何度でも具体的に説明していくことが大切です。
さらには、です。こちらが様々な子を教えていくプロセスとして、近藤さんのように「放置」しているかのように接することも、実はその子によってはあります。なぜなら、最初からその子の問題の部分に全て切り入り、「こうした全てを改善しないと後で大変だよ!」と言って、そこで始められる子、というのも既に一定の(現実を直視するだけの)心の準備のできている子であるのです。それをやったとたんに、「努力したってそんなに大変な状況だから、努力したって損するだけだ。」となる子の方が圧倒的に多いでしょう。また、今の楽しさを将来の苦しみとそもそも比較できない子も居ます。あるいは周りの大人にとても危機的な状況を耳にタコができるほど叱責され、それでそもそも大人の言うことは聞かなくなっている子もまたいます。
そうした子達には、一見「放置」しているかの外観をとりながら、その子との信頼関係を深めていき、その中で残り時間をにらみながら、だんだんと勉強のハードルを上げていく、という粘り強い努力が必要です。基本的に勉強をさぼってきた子達にとって、塾の教師というのは(親の言いなりで自分の嫌いな勉強をさせようとする)敵です。そのように敵意をむき出しにしてくる子達には、「こちらは敵意がないよ。」ということを示すところから入らざるを得ません。しかし、いつまでも楽しくおしゃべりをしながら勉強をしているだけでは、その子が受験に間に合わなくなりますし、結局はそれで将来その子自身が困ります。そういう意味でもその子の残り時間をにらみながら、しかし、徐々にステップアップしてはその子にとって見たくない現実を見ては、それに向かって努力するという姿勢を鍛えていくことが大切であると思います。
そういう意味では、「放置」もそのままに終わらずに治療の入り口とするのであれば、それはまた一つの高度な戦略であるのだと思います。そこにやってくる人々は、「手術や抗ガン剤による治療」というきついが正解である選択肢を選ぶ(少なくとも病気に関しては)理性的な患者ではないからです。近藤さんがこれだけ「放置療法」を大々的にアピールしながら、そこで自分の外来に来る患者さんにそのように接しては徐々に「やはり手術を受けた方が良いね。」という態度をとっていたら、稀代の名医だと思うのですが、現実はそうではなさそうです。ただ、それを近藤さん批判で終わらせずに、先に述べたように、そういった人々に対して医療従事者がどう取り組むかということが、教育者と同様に現在も問われ続けているのだと思います。もちろん、偉そうに書きましたが、ここでいう「そういった人々」というのは、僕自身も含まれています。自分のよく知らない分野、あまり興味がない分野について、自分が放っておいてひどい状態になっているとして、それをしっかり考えましょう、というのは誰にとっても苦痛であると思います。近藤さんの主張に飛びつく患者のことを嘆く医師も、あるいは将来を考えずに学習を後回しにする生徒のことを嘆く教師も、別の分野に関して言えば、同じように理性的でない行動をしているものです。本来、人間は理性的に振る舞うことがきわめて苦手であり、そのような理性的な行動というのは一種の訓練によって初めて獲得することが出来るものであることをもっと一人一人が自覚していかねばならないのだと思います。だからこそ、自分が訓練を積んでいないところに関しては、非理性的な行動をどうしてもとってしまいがちである、ということをよく頭に入れて自分を疑うこと、あるいは自分がプロとして接する相手の人々に対しては、そのような非理性的な行動をとる可能性が十分にあるはずだと想定した上で、どのように接していくかを考えていくことが大切であると思います。
塾の卒業生で医師になる道に進んでいる子も多いですが、彼ら、彼女らにもこの問題に真剣に悩むような医師になってほしいと思っています。
腫瘍内科医の勝俣範之さんのtwitter、あるいは(この番組に直接ではないものの、以前に近藤誠さんに反論した)NATROMさんのもの、さらには金スマのこの回に関してのdirectな反応としては、このブログなどが有名でしょう。
こうしたお医者さん達の反論(「そもそも大多数のがんは早期発見により治せるがんであり、近藤医師の『本物のがんは見つかっても治せないし、がんもどきは放っておいても大丈夫だから、がんを治療しても仕方がない』という二分法はおかしい」)は僕も正しいと思います。ただ、それをいくら声高に主張しても、こうした近藤さんの主張を信じたい人々にはあまり効果がないのだとも思います。このような近藤さんの主張は、それを必要とする人々のニーズに支えられているからです。それがお医者さんの間ではいまいち、よくわかっていないからこそ、こうしたデマが広がる隙を与えているのだと思います。
そもそも、人間は厳しく残酷な現実に目を向けたがるものではありません。できればそのような現実に自分が直面していることからは目を背け、だましだまし生きていきたいものです。しかし、ある日自分ががんである、とわかったら、そのような残酷な現実に急に直面させられるわけです。自分ががんである、という事実以上に厳しいのは、その時点から手術、化学療法などその厳しい現実と、そこから先何年も絶えず向き合うための努力を要求されるということです。合理的に判断できる人であれば、(もし長生きしたいとその人が思っているならば)それらの努力をすることでまだ長く生きられるのであれば、そのような治療に取り組む道を選ぶはずです。しかし、そのように合理的な判断をするよりは、何となくその厳しい現実に向き合いたいたくない、というぐらいの逃げの姿勢で「そのことについては考えないようにしたい」と思っている人は(医師のような知的エリートには想像つかないくらい)多くいるのです。そして、その人達にとっては近藤さんの話す「放置療法」は天啓のように聞こえるはずです。
ですから、本来は近藤さんのこのような主張に説得力を無くしていくためには、もちろんその主張の誤りを指摘していくことは大切だとしても、それだけでは大して影響がありません。それは理性的にどちらの主張が正しいかを判断できる人々にしか響かないからです。そして、それはごく少数でしょう。
それよりも、がん患者の治療に於いて、もっと手術にいたるまでの、そしてそれに加えて手術後のメンタルケアを充実させる、というところこそがより根本的な解決になるのではないかと思います。そして、そこに関しては僕が寡聞にして知らないだけかも知れませんが、まだまだ不十分であり、「手術とそれによって生まれるメリットを理性的に判断すれば、患者はみな手術を喜んで受けるはずだ!」という人間の理性を過信した取り組みしか為されていないように思います。近藤さんの主張が広まる、本当の原因はここにあるのだと思います。そもそも外科手術自体が(医療行為として)市民権を得たのがせいぜいこの300年くらいの話でしょう。がんの手術で100年ちょっとです。その技術の発達に多くの人々の意識が追いついていないことなど、当たり前である以上、人々の意識の低さに対してどのようなアプローチをとるかを医療に携わる人々が考えていかねばならないのだと思います。
というのを、教育に引きつけて書きますと、「このままじゃ受験、絶対落ちるよ!」「このままじゃ定期テスト絶対悪いよ!」ということを毎日口を酸っぱくして言っていたとしても、それがどのような現実へとつながっていくかを感じ取り、現在の見たくない現実を直視して一歩一歩努力できる子など、そもそも元々賢い子がちょっとさぼってました、というだけであり、全体の中ではごくレアケースです。たいていの子達は、自分の5年後、10年後など想像しないで生きていますし、毎日が楽しい、楽しくない以外にあまり関心がありません。その結果として自分が将来困ることを口を酸っぱくして周りの大人が説こうが、そもそもそれをイメージすることも、ましてやイメージした上で苦痛を伴う現在の努力を始める、ということなどはできません。だからこそ、それがどのように困るのかを丹念に本人にわかるまで何度でも具体的に説明していくことが大切です。
さらには、です。こちらが様々な子を教えていくプロセスとして、近藤さんのように「放置」しているかのように接することも、実はその子によってはあります。なぜなら、最初からその子の問題の部分に全て切り入り、「こうした全てを改善しないと後で大変だよ!」と言って、そこで始められる子、というのも既に一定の(現実を直視するだけの)心の準備のできている子であるのです。それをやったとたんに、「努力したってそんなに大変な状況だから、努力したって損するだけだ。」となる子の方が圧倒的に多いでしょう。また、今の楽しさを将来の苦しみとそもそも比較できない子も居ます。あるいは周りの大人にとても危機的な状況を耳にタコができるほど叱責され、それでそもそも大人の言うことは聞かなくなっている子もまたいます。
そうした子達には、一見「放置」しているかの外観をとりながら、その子との信頼関係を深めていき、その中で残り時間をにらみながら、だんだんと勉強のハードルを上げていく、という粘り強い努力が必要です。基本的に勉強をさぼってきた子達にとって、塾の教師というのは(親の言いなりで自分の嫌いな勉強をさせようとする)敵です。そのように敵意をむき出しにしてくる子達には、「こちらは敵意がないよ。」ということを示すところから入らざるを得ません。しかし、いつまでも楽しくおしゃべりをしながら勉強をしているだけでは、その子が受験に間に合わなくなりますし、結局はそれで将来その子自身が困ります。そういう意味でもその子の残り時間をにらみながら、しかし、徐々にステップアップしてはその子にとって見たくない現実を見ては、それに向かって努力するという姿勢を鍛えていくことが大切であると思います。
そういう意味では、「放置」もそのままに終わらずに治療の入り口とするのであれば、それはまた一つの高度な戦略であるのだと思います。そこにやってくる人々は、「手術や抗ガン剤による治療」というきついが正解である選択肢を選ぶ(少なくとも病気に関しては)理性的な患者ではないからです。近藤さんがこれだけ「放置療法」を大々的にアピールしながら、そこで自分の外来に来る患者さんにそのように接しては徐々に「やはり手術を受けた方が良いね。」という態度をとっていたら、稀代の名医だと思うのですが、現実はそうではなさそうです。ただ、それを近藤さん批判で終わらせずに、先に述べたように、そういった人々に対して医療従事者がどう取り組むかということが、教育者と同様に現在も問われ続けているのだと思います。もちろん、偉そうに書きましたが、ここでいう「そういった人々」というのは、僕自身も含まれています。自分のよく知らない分野、あまり興味がない分野について、自分が放っておいてひどい状態になっているとして、それをしっかり考えましょう、というのは誰にとっても苦痛であると思います。近藤さんの主張に飛びつく患者のことを嘆く医師も、あるいは将来を考えずに学習を後回しにする生徒のことを嘆く教師も、別の分野に関して言えば、同じように理性的でない行動をしているものです。本来、人間は理性的に振る舞うことがきわめて苦手であり、そのような理性的な行動というのは一種の訓練によって初めて獲得することが出来るものであることをもっと一人一人が自覚していかねばならないのだと思います。だからこそ、自分が訓練を積んでいないところに関しては、非理性的な行動をどうしてもとってしまいがちである、ということをよく頭に入れて自分を疑うこと、あるいは自分がプロとして接する相手の人々に対しては、そのような非理性的な行動をとる可能性が十分にあるはずだと想定した上で、どのように接していくかを考えていくことが大切であると思います。
塾の卒業生で医師になる道に進んでいる子も多いですが、彼ら、彼女らにもこの問題に真剣に悩むような医師になってほしいと思っています。
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