嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その2

前回の続きです。

アイドルが確かにこの社会で役立っていること、そのために彼女たちは必死の努力をしていることなどを教えられた、という話を前回は書きました。しかし、それはアイドルに限ったことではありません。たとえば芸人のマキタスポーツさんはビジュアル系バンドが何故売れるか、という問いに対して、ビジュアル系バンドの圧倒的なまでの「ファンに対するおもてなしの心」を指摘されていました。CDを買う、というのは、これだけ音楽配信が手軽になった現在に於いては、(自分が聴く音楽の)新たなジャンルの開拓のため、というよりは応援したい対象に対する忠誠心の証としての意味の方が強くなっているのでしょう。そこでは「音楽」が重要なのではなく、真摯にファンサービスをしてくれるヴィジュアル系バンドやアイドルといった彼ら彼女らに対する恩返し、あるいは応援する気持ちを形に表したものとして、CDを購入する、という行為だけが形骸化して残っていると言えるでしょう。それに対して、売上を伸ばすために音楽とは別の付加価値をつけることに異論はもちろんあるでしょうが、そういったファンの間ではむしろ彼ら彼女らの帰依するアイドルやアーティストが演奏し歌っている音楽は二の次の価値しかないのだと思います。

そのような購買行動は昔からあったのでしょう。近所の商店街で買うのは、何もそのお店が近隣のどこよりも品質が高いからではありません。家の近くで入手できるという、という利便性以外にも、よく自宅の前までまとめて掃き掃除をしてくれている、とか、忙しいときにちょっと自分の子どもを見てもらってた、とか、そういった人間関係に対してお金を払っている部分があるでしょう。そのような小さなcommunityが地縁社会の中で成立していたときには、そのような購買行動はむしろ自然だったのだと思います。都市化が進む中で、そのようなcommunityが減ってくれば来るほどに、逆にアイドルやヴィジュアル系バンドのように、広い地域でのそういった擬似communityが必要となってきたと言えるのではないでしょうか。それ自体は(もちろんあまりにも加熱しすぎて犯罪その他につながるのでなければ)批判すべき事ではなく、社会の変化に対してそういった文化の仕掛け人がニーズを感じ取り、対応してきている結果であるのだと思います。また、実際に一人一人の内面に於いて、社会的包摂の一つのチャンネルになっていることは前回書いたとおりです。

ただ、考えなくてはならないのは、このような擬似communityによる「社会的包摂」がその擬似communityの土台となっている社会とどのように接点をもちうるか、であるのだと思います。端的に言えば、地縁社会におけるcommunityは常に国家との関係性を意識させるものであったと思います。communityが国家に対抗しうる根拠となる、などと楽観的なことを言うつもりではありません。むしろcommunityは国家のミニチュアとしての同調圧力、まさに手先としての役割を担うことの方が多かったでしょう。いわゆる「非国民」という言葉がこのことの一つの具体例です。「非国民」は、国家に逆らうから糾弾されるのではなく、近所の迷惑になるから糾弾されていたのだと思います。「そのcommunityの安寧を保つ」ことが、国家規模での勤労・兵役への動員と思想統制の具現化のチャンネルになっていたといえるでしょう。だからこそ、そのような地縁社会におけるcommunityは、ある意味で国家に対する態度決定を要求するものであり、それ故に批判を持つ人も少数ながら存在し得たのだと思います。その意味で、わかりやすい暴力性があったと言えるでしょう(端的に言えば、生まれ落ちた瞬間に、あるcommunityの中に存在する、ということが、それに対して従順であれ、反抗するのであれ、問題意識を涵養する、ということですね。)。
 しかし、擬似コミュニティによる「社会的包摂」は戦う相手を明示しません。そのコミュニティの中での同調圧力に倦み疲れれば、そこから抜けるなり、別の擬似コミュニティを探せばよいだけです。そこでの「同調圧力」という暴力性は、国家という権力の暴力性の代理人ではないがゆえに、国家の暴力性に対する問題意識を育てにくいままに終わるのだと思います。しかし、それは国家という権力が弱くなる、あるいはなくなることとは違います。そうした擬似コミュニティが成立するためには、政府による許認可事業であるテレビ局の影響力がきわめて大きいこともさることながら、そもそもそうした流動的な擬似コミュニティの存続にとって唯一のありうる危険性は、それが政府によって何らかの理由で規制されることであるからです。

これに、さらにはそもそも固定した地縁社会が弱くなり、国籍以外に抜け出ることのできないcommunityというものがなくなっていることこそが、最後の拠り所として「愛国心」を要求し、ことさらに言われるようになっている現状を作り出していることとあいまっての現状は、なかなか問題があると思っています。

もちろん、社会的包摂のチャンネルの多様化自体は好ましいことです。また、地縁社会の影響力の低下も、避けられないことでしょう。しかし、現在進んでいるこれはこれで、また意味を考え、なすべきことを考えていかねばなりません。前回、黒子のバスケ脅迫事件の渡邊博史さんの話を書きましたが、「彼がアイドルを好きになっていればよかったのに。」という話で終わらせてしまってはいけないのだと思います。いやいや、アイドルもビジュアル系バンドも必死になって頑張っていると思います。本当に、素晴らしい努力です。

しかし、その上で思うのは、
社会的包摂をアイドルやビジュアル系バンドだけに任せるなよ、という思いです。それは、彼ら、彼女らの仕事だけでなく
私たちの抱える課題なのではないか、とも思うわけです。所属するcommunityを自由に選べるかのように思えるこの時代だからこそ、異なるcommunity同士をつなぎ合わせていくための工夫がより必要になると思っています。

嚮心塾もそういう一つの場になれれば、と思ってやっていますが、まあなかなか難しいものです。
諦めることなく、頑張っていきたいと思います。
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