
先日、人生で初めてアイドルの握手会というものに行ってきました!といっても、それほど大規模なものではなく、CD発売記念にインストアイベントとしてやっているものでした。きっかけは、元塾生で今はアイドルをやっている子から、「明日握手会やるんだけど、来ない?」とお誘いの電話を受け、塾の子をあれこれ誘ったものの、みんな忙しかったため、一番暇な(!)僕が一人で行ってきました。
感想としては、非常に勉強になった、というのが正直なところです。ラーメンの話のところでも書きましたが、自分が「ここにはあまり探究すべきものがない」と浅薄にも判断しているところに、実は様々な深い話がある、ということを改めて思い知らさせられる、という経験をすることが出来ました。
アイドルの握手会というのは、もちろんアイドルですから、みんな美少女だらけです。しかし、本質はそこにはありません。そのような美少女達が僕のようなコミュ障でキモいデブなおっさんに対しても、目を見て親しげに笑顔で話しかけ、積極的に握手をしてくれます。そのことでもたらされる、自己肯定感といったら!異性に対して、あるいは同性に対してすら、自分の言いたいことをはっきり言えず、そのせいで様々に良いところをもちながらも、なかなか理解してもらえずに対人関係で苦い思いを抱いている人々にとっては、彼女たち美少女アイドルは天使です。
「彼女たちよりもかわいくも優しくもない、学校や職場の周りの異性達は、少し自分がうまくしゃべれないくらいで自分たちをバカにして、人の本質なんか少しも見る目がないけれども、それはでも奴らの見る目がないだけで、俺の良さはこの子達にはちゃんと伝わってる!」という自己肯定感は、人とのコミュニケーションが苦手なだけで憂き目を見ている人々にとって(そして、そのような人達の感じる抑圧感というのは、非常に強いと思います。この社会はコミュニケーション能力を不必要なまでに高く評価するからです。それこそ、少なくとも江戸時代の五人組くらいからそうなのでしょう。)、辛い毎日を生き延びるための心の支えになっているのだと思いました。もちろん、僕自身はそういう自分の欠点(コミュ障でキモいデブ)を乗り越えて余りあるくらいの根拠のない自己肯定感(神が人類に与えたもうたこの天才!すみません。)の塊であるので、あまり継続してアイドルの握手会を必要とはしませんが、アイドルは確かに社会を支えているのだな、ということを強く感じました。それとともに、そのために彼女たちが強いられる厳しい努力と犠牲を10代前半かそこらからずっとやり続けている、ということにも感銘を受けました。また、そのように努力を重ねても生き残れる子達はごくわずかである、という厳しい現実にも。その厳しい道を元塾生の子も選び、懸命に頑張っていることに、改めて応援を続けていこうと思いました。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告である渡邊博史さんが最終意見陳述書で書いていたように、「自身がEXO(韓国のアイドルです)にはまるのがもう少し早ければ、こんな事件は起こさなかったかも知れない。」ということが、たくさんあるのかもしれません。家族や親戚によって支えを受ける、ということが望めないが故に、その外へと助けを求めるためには、それら以外のセーフティーネットがきわめて希薄な日本においては、少なくともコミュニケーション能力が必要とされます。仮に、経済的には必要に迫られて、それがかろうじてできたとしてもなお、精神的なサポートというのは望むべくもありません。そのような時に、たとえばアイドルにはまって、それを応援する、というのは一つの心の支え、生き甲斐になることもまたあるのだと思います。その意味ではアイドルの握手会というのも、もちろん商業ベースで行われてはいるわけですが、広い意味での「社会的包摂」のチャンネルになっていると言えるのでしょう。
それを「握手会のために煽られて踊らされて情けない」とバカにするのは既に自分の人生に於いて自己肯定感をそこそこ持てている人々の浅薄な見識でしかないし、仮にそこで自身で稼いだお金を生活をしていけないくらいまでにCD代に費やしてしまっている人に、生活を立て直してもらいたいと思っても、そのCDを買うという行為だけを辞めさせようとするのは片手落ちに過ぎないのだ、という結論に至り、自身の見方に猛省を強いられました。この機会を与えてくれた元塾生の子に、本当に感謝しています。
と書いたところで、大分長くなってしまったので、次回に続けたいと思います。
感想としては、非常に勉強になった、というのが正直なところです。ラーメンの話のところでも書きましたが、自分が「ここにはあまり探究すべきものがない」と浅薄にも判断しているところに、実は様々な深い話がある、ということを改めて思い知らさせられる、という経験をすることが出来ました。
アイドルの握手会というのは、もちろんアイドルですから、みんな美少女だらけです。しかし、本質はそこにはありません。そのような美少女達が僕のようなコミュ障でキモいデブなおっさんに対しても、目を見て親しげに笑顔で話しかけ、積極的に握手をしてくれます。そのことでもたらされる、自己肯定感といったら!異性に対して、あるいは同性に対してすら、自分の言いたいことをはっきり言えず、そのせいで様々に良いところをもちながらも、なかなか理解してもらえずに対人関係で苦い思いを抱いている人々にとっては、彼女たち美少女アイドルは天使です。
「彼女たちよりもかわいくも優しくもない、学校や職場の周りの異性達は、少し自分がうまくしゃべれないくらいで自分たちをバカにして、人の本質なんか少しも見る目がないけれども、それはでも奴らの見る目がないだけで、俺の良さはこの子達にはちゃんと伝わってる!」という自己肯定感は、人とのコミュニケーションが苦手なだけで憂き目を見ている人々にとって(そして、そのような人達の感じる抑圧感というのは、非常に強いと思います。この社会はコミュニケーション能力を不必要なまでに高く評価するからです。それこそ、少なくとも江戸時代の五人組くらいからそうなのでしょう。)、辛い毎日を生き延びるための心の支えになっているのだと思いました。もちろん、僕自身はそういう自分の欠点(コミュ障でキモいデブ)を乗り越えて余りあるくらいの根拠のない自己肯定感(神が人類に与えたもうたこの天才!すみません。)の塊であるので、あまり継続してアイドルの握手会を必要とはしませんが、アイドルは確かに社会を支えているのだな、ということを強く感じました。それとともに、そのために彼女たちが強いられる厳しい努力と犠牲を10代前半かそこらからずっとやり続けている、ということにも感銘を受けました。また、そのように努力を重ねても生き残れる子達はごくわずかである、という厳しい現実にも。その厳しい道を元塾生の子も選び、懸命に頑張っていることに、改めて応援を続けていこうと思いました。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告である渡邊博史さんが最終意見陳述書で書いていたように、「自身がEXO(韓国のアイドルです)にはまるのがもう少し早ければ、こんな事件は起こさなかったかも知れない。」ということが、たくさんあるのかもしれません。家族や親戚によって支えを受ける、ということが望めないが故に、その外へと助けを求めるためには、それら以外のセーフティーネットがきわめて希薄な日本においては、少なくともコミュニケーション能力が必要とされます。仮に、経済的には必要に迫られて、それがかろうじてできたとしてもなお、精神的なサポートというのは望むべくもありません。そのような時に、たとえばアイドルにはまって、それを応援する、というのは一つの心の支え、生き甲斐になることもまたあるのだと思います。その意味ではアイドルの握手会というのも、もちろん商業ベースで行われてはいるわけですが、広い意味での「社会的包摂」のチャンネルになっていると言えるのでしょう。
それを「握手会のために煽られて踊らされて情けない」とバカにするのは既に自分の人生に於いて自己肯定感をそこそこ持てている人々の浅薄な見識でしかないし、仮にそこで自身で稼いだお金を生活をしていけないくらいまでにCD代に費やしてしまっている人に、生活を立て直してもらいたいと思っても、そのCDを買うという行為だけを辞めさせようとするのは片手落ちに過ぎないのだ、という結論に至り、自身の見方に猛省を強いられました。この機会を与えてくれた元塾生の子に、本当に感謝しています。
と書いたところで、大分長くなってしまったので、次回に続けたいと思います。
- 関連記事
-
-
嘘をつく、ということについて
-
めんどくさい要求にも、真摯に対応すべきであること。
-
人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その2
-
人生で初めてアイドルの握手会に行ってきました。その1
-
呪われた夢。
-
ビットコインについて
-
つなぐ。
-



