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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

効率をあげるには。

書きたいことがたまっていて、連日の教育ネタですみません(何度も言いますが、一応学習塾のブログなのです)。

先日、塾でなかなか勉強に身が入らない子と話し合った際に、「自分は効率が悪い。効率さえよくなれば、もっと努力する気になれるのに。」という話になりました。このことについては、このブログでも何度も書いていますが、やはり、こういう認識の子が多いのだな、と思い、また同じ話をしました。それは次のようなものです。

そもそも、勉強に限らず、どんなものでも自分が練習している量や時間が少ない中で、どんどん効率の良い練習の仕方を考えては効率を上げていける、というのは天才でしかなく、それは、東大や医学部に合格できる、というレベルではなく、余裕で合格するレベルの子達なんだよ、と。当然努力というのは、始めた当初は方向違いの無駄がたくさんあるもので、しかし、それをやってみて、「なるほど、この方向の努力はあまり効果的でないな。」という反省の繰り返しの中で、段々とピントがあっていくものなんだよ、という話もしました。そして、そこに至るまでは、努力の質をいちいちとやかく気にするのではなく、まずは量をこなさなければならない、と。

ただ、この内容をきつく言ってわかるほどには、現段階でその子の認識の歩みが追いついていない、と思ったので、「まあ、とりあえず今月はテスト勉強頑張ろう!」程度の結論に落ち着かせました。

この話の内容自体は、まあ、このブログを読んでおられるマニアの方から見れば、あるいは自分で真剣に何らかの分野への努力をしている方であれば、当たり前の話です。学習院の田崎晴明先生も以前、ご自身の日記でドラクエとファイナルファンタジーの違い、という形で「決まったストーリーをなぞるファイナルファンタジーよりは、あちこち歩き回ってはだんだんと(進むべき方向への)見当がついていくドラクエの方が、研究に近い。」という話を書かれていましたが、基本的にそれは受験勉強のような(範囲が決まっていて見当をつけやすい)ものであっても、本来はそうあるべきです。というより、受験勉強ほど見当をつけやすいものですら、他人から教えられるばかりで自分で見当をつけていけないのであるとしたら、それ以上に複雑な実社会の中でどのようなことが効率がよいか、どのようなことが有益か、どのようなことが社会的に意義があるか、などについて見当をつけていくのはほぼ不可能であると思います。受験勉強というのは、その一つの練習場であると思いますし、その「自分自身で見当をつけて洗練させていく技術を鍛えていく」ための指導をしないのであれば、結局生徒達は、将来生きていくときに、また別の人からの教え込みを必要とする、というあまり力のない大人になってしまうと思います。

ただ、この「努力の初めには多少無駄になる時間がつきものだ。」というきわめて真理に近い事実への許容度が、生徒一人一人でまるで違います。そこに、教育者としての腕の見せ所、逆に言えば難しさが出てきます。子ども達が全体として「少しの努力で最大限の成果」を求めては、努力の量を先に上限を決めておく、という子が多くなってきているのは事実であると思いますが、それでも世代の差よりは一人一人の個人差の方がきわめて大きく、その「報われない努力」への許容度を見ては、その子にとってのbest policyをこちらが考えていかねばなりません。その許容度が低い子に正論を話したとしても、それが定着して力になる前に、努力を辞めてしまうでしょう。その場合には、その努力の量のハードルを少しずつ、上げていく必要があります。(その意味で、内田樹さんのように、「最小の努力で最大の利益を得ようというマインドがそもそもおかしい!教育する側がそれに毒されているから、子ども達もそうなる!」という主張は、僕もきわめて正しいとは思いますが、しかし、伝えようという努力を欠いた提言であると思います。それをなるほど、と思える人はそもそもそのような何かができない状態にあまり陥っていないのです。そして何かを自分が苦手意識をもち、それに触らないでいたいのに、周りからはそれができないことばかりを責められる、という状況下で「(その苦手なことをする)努力に見返りを求めるな!」というのは、きわめて伝わりにくいでしょう。それを理解できる子は、自分自身を根っこから反省することの出来る、ごく一部の既に準備が出来ていて、あとはきっかけだけを求めている子達です。)

さらには、努力に抵抗感がなければよい、というものでもないところがまた難しいところです。一般に努力に対して抵抗感が少ない子ほど、その努力が自分の力となって身についているかどうか、つまり「効率」を気にしない、という傾向があります。つまり、自分の人生を勉強に費やすということにさほど抵抗感を感じない子ほど、そこで頭を使って何とか身に付けようという努力には無頓着であることが多いです。これは、「勉強をする」こと(つまり、机に向かって頭を使わずにノートにペンで何か書くこと)自体を褒められて育ってきた子に多い傾向です。これはこれで、ある方向の努力(机に向かうこと)を懸命にしては、別の方向の努力(頭を使うこと)を避けてきているわけで、指導者としてはその子の勉強の姿勢にメスを入れていかねばなりません。

結論として、その子がどのような状態に入れば学習効果が一番高いかについて教育者が深く理解している、ということは教育というプロセスのスタートであって、決してゴールではない、ということが言えると思います。もちろん、そのスタートすら理解していないのかも、と思えるような先生方が多いのは残念なことではありますが、「この子にはこういうところが足りていないから、それをこういうふうに鍛えていかなければ!」ということが的確に見えていたとしても、実際にその子をそこまで
鍛え続けられるかどうかは、うまくいくこともあるとしても、うまくいかないことも多く、苦い思いをすることばかりです。もちろん、こちら側から諦めることなどはありませんが、本人、あるいは周りのご家族が諦める、ということになってしまうのであれば、(その諦めるという判断にこちらとしては様々な異論があろうとも)やはりそれは教育者の責任であるのです。

本当に、こんな難しい仕事をよくも選んでしまったな、と思い続ける毎日ですが、何とか一人一人の成長のために、
今日も悩み続けていきたいと思います。
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