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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

天才達に学ぶ。

塾を開いた頃のぼくの目標は、「あらゆることに精通し、どの分野に於いても生徒達の力になること」でした。また、それが可能であると思っていました。しかし、開塾から来年で十年を迎えようとしている今、ぼくのスタンスとしてはむしろ一人一人の生徒達の「天才」を見つけ、それに敬意を払いながら理解をしようと努力し、そしてサポートしていく、というように変わってきたと思います。

これは、一つには一人一人の子達の抱えているものがあまりにも、深く鍛えられていることに感銘を受け続けた結果であるとも思います。もちろん、受験勉強で必要な科目についてそのように深く学んで僕を凌駕する子、というのもたまにはいますが、それよりも、小説、パソコン、カメラ、ゲーム、アニメ、鉄道、音楽、ペン回し、その他いわゆる世間では「必要」とはとらえられていない、あるいは所詮趣味としてしかとらえられていないものに、深く没頭し、こちらが知らないような深みをそこに感じている子達に学んでは、僕も視野を広げさせてもらえてきた、というところがあります。

学問の世界ではいわゆる実業や実社会から必要とされるものだけでなく、「役に立たない」とされるものを研究することの意義などは少しは理解されやすいのかもしれませんが、一旦学問の世界を離れたときには、私たち大人というものはどうも「必要性」にとらわれては、「これはいらない。」「これは必要。」と軽薄に判断しがちです。しかし、子供達は、そのように実社会からの圧力にとらわれず、軽薄な実用的判断をしません。それゆえに、そこに豊かな世界が広がっていることを、私たち大人よりも柔軟に感じとることができ、かつそこに対して没頭が出来るのです。そして、そういった一つ一つの(大人から見たら「必要」のない)世界をバカにする大人達を、目の肥えた子供達はバカにしています。僕は大人の端くれながらも、その子供達から少しでも学んでいきたいと思っています。

もちろん、学習塾など、学校以上に受験勉強の「必要」を説き、子供達に勉強をやらせる機関であるわけで、そういう意味では大人の求める「軽薄な実用性」の走狗でしかありません。しかし、「遊んでないで、そろそろ頑張りなよ。」という呼びかけも、彼らが何故「遊んで」いるのかに対する理解や共感を抜きにして語りかければ、単なる暴力にしかならないでしょう。
それでは、嚮心塾がある意味などありません。とはいえ、あるがままの彼ら彼女らをそのままに肯定し続けるだけであるのなら、(塾がビジネスとして成り立たないという問題だけでなく)そういった個々の天才性を抱えながらもこの社会との適応に悩む彼らの力になり得ているともいえません。そういった個々の天才を見抜き、評価する力がこの社会の大多数になくても、彼らは生きていかねばならないし、彼らがその天才性を抱えたまま生きていく力をつけていく、ということ自体が彼らにとってもこの社会にとっても必要なことであるからです。

この矛盾した課題にどのように取り組むかを、一人一人について絶えず苦しみながらも、しかし、一つ一つの彼ら彼女らの深く掘り下げた分野に教えを請うことを今の僕は本当に有り難い契機であると思っています。

そもそも僕自身は何かに「ハマる」ということのない子供でした。「熱中」というところからもっとも遠い子供だったと言えるでしょう。何かにハマらないからこそ、自分は何も(そこそこはできても)超一流にはなれないのだ、という事実に気付き、悩んでいた時期もありますが、何にも熱中しないからこそ、熱中してきた人に対してできることもまた確かにあるのです。そのことを、今日も一人一人の天才達に語りかけては、力になっていこうと思います。
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