嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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劇団どくんご2014『OUF!』東京公演の感想

劇団どくんごの東京公演、見てきました!また内容について説明するのが難しい劇ですが、しかし、その魅力に僕の言葉が耐え得ないのを覚悟の上で、感想を書きたいと思います。あのような熱量の高い、素晴らしい劇を見て、何もしゃべらないのは、言葉を持つものの怠慢であると思うからです。

「ここは双子星のうちの一つ」と登場人物が語る場面がありました。つながりが失われていることを知る前は、自分たちが失ってしまったとは思いません。つながっていたはずなのに、それを失うからこそ、悲しみが生まれてくる訳で、そもそもつながっていないときには失っていることに気づきません。最後の「田中君」のエピソードもそれと通底していると思います。このエピソードから、全体を読み解いていきたいと思います。

今回の劇は脚本がある劇、ということでしたが、去年の『君の名は』が「つながっていないようで、つながっている」作品だとしたら、今年の『OUF!』は、「つながっているようで、つながっていない」作品であると感じました。宇宙、SFという設定は共通しているものの、つながっていないのです。

山下陽光さんの「全力で30点をとりにいく」劇団だ、という評価が正しいと思います。何故、全力で30点をとりにいくのか。それは、何が100点かわからないからです。相手が求める100点が、本当に100点かどうかは、その相手が国家であろうと、あるいは人類社会全体であろうと、それらにとって100点である、ということが本当に正しいことであるかはわかりません。その「30点」に全力でこだわることの方が、実は人間社会への大きな貢献につながっているかもしれません。

それはすなわち、伝わらないものを何とか伝えようという行為であるのです。偏執狂じみた、あるいはどこかずれた一人一人の登場人物は、みな、必死に何かを伝えようとします。それは私たちにとって、伝わらないのに必死にそれに取り組む彼らを見て、その滑稽さ、ベルクソンの『笑い』のような機械運動が生の現実を外れて、自動運動に入るとき、(その存在意義を見失うという意味で)我々は滑稽さをそこに感じるのだ、という、あれです。しかし、どくんごの一つ一つの場面は、滑稽さだけを湛えているのではありません。彼らが必死に伝えようとしている姿勢に私たちは心を打たれます。なぜなら、それはある特定のディスコミュニケーションを描いているのではなく、伝わらないけれども、懸命に伝えようとする、というその姿勢こそが、コミュニケーションの本質を体現しているからであるのだ、と思います。

私たち自身が親しい友人や家族、それどころか大志を共有できるような同志のような存在の友人と腹を割って会話をしているときにでもなお残る、互いに理解できない部分に対して、どうしても私たちは足を踏み入れることを恐れがちです。そこに踏み込んでしまえば、結局お互いにけんか別れするしかなくなるのではないか、けんか別れをしてまた新たな友人とここまでの関係が果たして持てるだろうか、という逡巡のもとに、結局私たちは本当に一番親しい友人の、しかし、ここから先は自分には理解できないという一線を超えて踏み込むことを諦めていることが多いのではないでしょうか。相手に対して、遠慮しては踏み込めないだけでなく、少なくとも自分にはそういった理解され得ない部分が存在するという事実をこちらから親しい相手に話すことすら、なかなかできていないのではないでしょうか。

もちろん、このおかげでうまく行っていることも山ほどあります。小異を捨てて、大同につくのは政治や社会活動の基本であるでしょうし、あまりにも異なる一人一人の違いに拘泥すれば、それこそセクト主義になってしまって、ごくわずかな差異を巡っての、絶え間ない相互攻撃しか生み出さないかもしれません。その意味で、我々は皆、異端としての心を持ちながらも、しかしそれをどこかカミングアウトできずに生きている、と言えるでしょう。セクト主義への恐怖故に、自らが独自の意見を持つことを恐れ、そしてそれを隠している。このような姿勢には相手の異端としての部分を理解できないという恐怖以上に、自分の異端としての部分を理解され得ないことへの恐怖が大きな原因となっているのだと思います。

もちろん、そのような動機に支配されない人々もいます。それは、「狂人」です。彼ら、彼女らは決して
相手におもねることなく、自分の言いたいことを言い続けているでしょう。もちろん、この「狂人」というのは
世間的に見て、ということであり、人々に理解しがたい(がしかし、優れている)内容を語る、という意味ではイエスやその他の思想家、革命家達も「狂人」であるといえるでしょう。

ここまでを踏まえて、どくんごの劇に戻りましょう。
どくんごの劇において、各場面での一人一人は、懸命に彼らの思いを伝えようとします。その懸命さ、その彼らの確信は、社会的コミュニケーションに慣れきった私たちにとって、その彼らのコミュニケーションの稚拙さ、現実からの乖離は笑いの対象でしかありません。「この社会の中でうまくやっている私たち」に比べて、何と愚かなもの達か!という優越感さえ感じさせてくれます。その意味ではまさに「道化」を演じているように最初は感じてしまいます。しかし、様々な場面で、様々な登場人物達が彼らの思いを必死に伝えようとしているのを見ているうちに、自分の中の「社会的コミュニケーション」が実はコミュニケーション本来のもつエネルギーを失っていることを徐々に思い知らされてくるのです。
聞いてもらえないなら、話さない。聞いてもらっても、わかってもらえないのなら、話したくはない。そのように、私たち一人一人が「自分語り」を諦めて、生きていることを振り返るきっかけを、彼ら一人一人が与えてくれます。このどくんごのテントに集まる我々は、「狂人」を見に来ているようで、実はどちらが狂人かがわからなくなります。自分を見失い、コミュニケーションを諦めている私たちは確かに「100点」「90点」とこの社会の中でされているものをとっているのかもしれないが、しかし、それは「30点」を全力でとっている彼らに、胸を張れるような振る舞いであるのか。そのような問いが、つきつけられます。

去年に見たときも感じましたが、そういう意味で、どくんごの劇への反応は見事にまっぷたつに別れると僕は思っています。それは100点や90点とされるものを踏まえていないことに不満を感じる人間と、それに固執していた自分を笑い飛ばせる人間と、にです。人類の歴史が様々な文化や制度を生み出し、それが長い年月の間に蓄積され、一つの見るべき形になったとはいえ、それは唯一の正解ではありません。どくんごの劇は、その意味が組み立てられていった結果として社会の中でがんじがらめになって生きる私たちを、その意味が成立する前の太古の原初へと立ち返らせてくれ、意味を初めから、考えていくことを促してくれます。自分の思いが恥ずかしいものであれ、理解されないものであれ、それを伝えようとしていいのだ、と強く励まされます。
その、人類社会が積み重ねてきては、自分の中に堆積してきた様々な偏見が引きはがされていくことを快感と感じずに苦痛と感じる人にとっては、つらいかもしれません。

聞いてもらえない、あるいは聞いてもらえても理解されないからしゃべらないのではなく、聞いてもらえなくても、あるいは相手がどんなに一生懸命聞いてくれてもなお理解されないという悲劇の中に我々が生きているとしても、それでもなお私達は自分の中の「異端」を話していかねばならない、という責任感をどこかに持ち続けているのではないでしょうか。それは、「自分が相手に理解される」という心地よい心理的報酬のため、という動機を諦めた後に、相手を愛する、ということにつながります。まるで、人類が自らの言葉を理解できずに自らを迫害する、とわかっていて、それでも話したイエスのように。そして、そのような迫害は、決して昔々の愚かな人類だけが犯してしまった過ちでは決してありません。現在もなお、同じように理解の範疇を超えているが故の迫害は続いていると言えるでしょう。

ここまで話を広げなくても、どくんごの劇は、様々なレベルで「伝わらないから、諦めてきた。」という私たちの悲しい諦めを揺り動かし、勇気を与えてくれます。それは、まるで、生まれたばかりの赤ん坊がまだ言葉を覚える前に、声を出したり、泣いたり、じたばたしたり、懸命に何かを伝えようとする、あの姿に似ているのだと思います。私たちは、言葉を覚え、うまく嘘までつけるようにもなりました。しかし、伝わるかどうかわからないとしても、伝えようとするあの赤子の一生懸命さを、それらの手管を覚えれば覚えるほどに、自分を傷つけない為にもたないようにしてきてしまったと言えるでしょう。彼ら彼女ら赤子が、伝えられるかどうかを少しも不安に思わず、伝えたいという思いだけから様々な働きかけをする、あの姿勢に、私たちは勇気づけられます。どくんごの劇は、意味と無意味の間を自在に飛び越えながら、自分の外の社会の不自由を内在化しては、伝わらない言葉はしゃべらないようにしよう、と悲しい決意をもつ私たちに、それが唯一の可能性ではないのだ、ということを優しく教えてくれるようです。

私たちは、こんなにまで社会の規範を内面化し、自分が言いたいことも言えないままにぐっと我慢しては物わかりの良い人として生きていかなくたってよいのではないか。相手を思いやることも愛だとしても、自分の中に確かに感じるこの感情、この思想、この衝動、その他諸々を表現しようとすることもまた、愛なのではないだろうか。

切り離された双子星の一つとして、外界から切り離されたこの地球という牢獄の中で、私たちは失ったものにしか
気づくことなく、鈍感ながらも生きている訳です。しかし、それでもなお、失ったものには気づくことができる。
それに気づきさえすれば、ほんの少し勇気を出して、伝わらないかもしれない言葉をぽつり、ぽつり、と話していくことができるかもしれません。

と、ここまで書き連ねてきても、うまく説明できている気がしません。まあ、でも、よいのです。
どくんごの劇を見て、誰でも何かを語りたくなる、ということ自体が、どくんごの皆さんがやっていることの
本当の凄さであるわけですから。今年も素晴らしい劇を、本当にありがとうございました。

(ようやく書き上げて初めて、来年のどくんごの旅がおやすみになるということを知り、ショックを受けていると共に「やはりそうか。」という気持ちがあります。本当に素晴らしいものは、どくんごに限らず、長く続けるのが本当に難しいものです。あのような厳しい旅を毎年続ける、ということのものすごさと共に、その困難さは外から想像できる以上のものであるのだと思います。再来年の旅を心から楽しみに待つとともに、その劇団の皆さんの凄まじい努力に恥ずかしくない何かをまた再来年持ち寄れるように、頑張りたいと思います。)
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