
先日、スタジオジブリに密着した映画、『夢と狂気の王国』のDVDを見ました。その中で、とても印象的な場面として、宮崎駿監督が零戦を作った堀越次郎の夢の話をして、「飛行機を作りたい、という思いは呪われた夢なのです。それが戦闘機に用いられ、人が殺されざるを得ない、という点で。そういう意味ではこの時代にアニメを作る、というのもまた呪われた夢でしかない。」という話をされているところがあり、その認識に対して本当に共感しました。
戦時に飛行機を作ること、この時代にアニメを作ることだけではなく、現代においてはどのような夢も、ほぼ呪われた夢としてしか存在し得ないのではないかと僕は思っています。ここでいう、「呪われた」とはその夢の実現に向けて自身がどのように誠実に頑張っていこうと、それは自身が望まなかったはずのある種の暴力へと加担せざるを得ない、ということです。学問や芸術は違う、と言いたいところですが、学問という一見生産には関わらないことが社会の中でその経済的非効率性を許されて存続するためには、アカデミアというある種の特権団体に限定される必要があり、そしてそのような団体の存続のためには、真理や美は容易にねじ曲げられるでしょう。ある意味、このような弊害を生まずに一人一人が探求活動をするためには、我々の精神が、自らの生活の中にある芸術や学問の萌芽に対する準備ができていなければならないことになりますが、それは、大学や美術館の中にあるものに対してしか学問や芸術を感じ取ることのできない、多くの鈍い精神には、なかなかに難しいことでしょう。
それは、一時期流行した「社会的企業」についてもまた、同じことが言えるでしょう。社会の欠陥を弥縫(びほう)するためのどのような取り組みもまた、「呪われた夢」であるのです。お金を稼ぐことではなく社会の改善を目指すその動機はすばらしいとしても、ある単一の課題への取り組みに、それさえ改善されれば今の世の中が少しはよくなる、と信じて一心に取り組もうとも、その改善が何を前提にして進んでいくのか、即ち何を犠牲にして進んでいくのかを考えていかなければ、自分が当初掲げたsingle issueが改善していくことは、別の不幸や暴力を生み出すだけのことになるでしょう。
もちろんこれらの指摘から、「夢を持つな」とか「社会の改善を諦めろ」ということを言いたい訳ではありません。大切なのは、すべての夢は「呪われた夢」にすぎなく、その夢の実現が個人としても、あるいは社会全体としてもそれだけでプラスの側面しか生み出さない、ということは決してなく、必ずプラスとマイナスを生み出すのだということを覚悟して、その「呪われた夢」を追求することをしていかねばならない、ということだと思います。自分の夢の追求とその実現がもたらす負の側面に対して心の準備をしては目を背けずに見つめながら、しかしそれでもその夢の実現を目指そうとしていけるか、言い換えれば自分の中で自分の夢をどこまでも信じる自己と自分の夢の犠牲にするもの故に自分の夢をどこまでも憎む自己という、二つの自己という矛盾をどこまで抱え続けられるかどうかが大切であるのだと思います。
それは、なぜなのか。それは人間の歴史自体が一つの試行錯誤の歩みでしかないからです。
ある人が掲げることになる夢には、必ずその必然性があります。また、その夢が抱える限界もまた、必ずあります。新たな暴力を引き起こさないためにそもそも何もしない、というのではその試行錯誤すら止まってしまうからです。どのような天才であれ、少なくとも人類にとって未来永劫正解として持ち続けるような正解にたどり着いて生きることはできないとしても、次につながる失敗をすることはできます。呪われた夢であろうと、その「呪い」を恐れるあまり、何もしないよりはそれを追求する方が前進することはできます。
それと同時に、その「呪い」を強く自覚していることが、その「夢」のもたらす失敗に気づきやすくしてくれます。ある時代の正義や真理がその有効性を失ってもそれが今までに獲得してきた権威のために自らを守ろうとして、結局それを差し替えるために大きな規模の暴力を招かざるを得なかった、という歴史もまた人類の歴史でしょう。
その差し替えにかかる時間やそのために必要とされる暴力を少なくしていくためには、その「呪い」への痛切な自覚が必要となります。
自らの夢が、呪われた夢であることに気づいてもいない人々は、もっと目を凝らしてよく自分の夢を実現するためにどのようなものが犠牲とされているのかを見た方が良い。僕は、彼ら彼女らに対してはかなり厳しい意見をもっています。正直考えないで生きていないと、そのように夢をもつことはできないとさえ、思っています。しかし、自らの持とうとする、どのような夢も既に呪われていることに絶望する人々は、何でもいいからえいやっと、やってみるのも良い手ではないかと思います。それによってでてきた不具合や起こしてしまった暴力については、それを防ぎ乗り越えていくために次にどうしていくべきかを考えていけば良いではないですか。
とかく前者(夢を追い求め、その呪いには鈍い子)はもてはやされ、それを批判する能力がない大人と、それゆえ後者(呪いに敏感なあまり、夢をもてなくなっている子)の苦しみに対しては理解することのできない大人ばかりの世の中ですが、嚮心塾が(もちろんどちらに対しても力になりたいものの)本当に力になりたい、と強く思っているのは、後者の子達です。呪われた夢が、呪われていることを深く知り抜きながら、それをえいやっとつかみ、必死に追い求め、その上で「呪い」の部分をどう乗り越えていくかに対して、共に知恵と勇気を振り絞ることができるような塾でありたいと思っています。君たちが、自分の夢を「呪われた夢」と感じることができているなら、それは追い求めるに値する夢です。それはちょうど、自らの人生を呪われた人生であると感じられるのであれば、それは生きるに値する人生であるのと、同じことですね。まあ、しんどいでしょうが、お互い頑張りましょう。
戦時に飛行機を作ること、この時代にアニメを作ることだけではなく、現代においてはどのような夢も、ほぼ呪われた夢としてしか存在し得ないのではないかと僕は思っています。ここでいう、「呪われた」とはその夢の実現に向けて自身がどのように誠実に頑張っていこうと、それは自身が望まなかったはずのある種の暴力へと加担せざるを得ない、ということです。学問や芸術は違う、と言いたいところですが、学問という一見生産には関わらないことが社会の中でその経済的非効率性を許されて存続するためには、アカデミアというある種の特権団体に限定される必要があり、そしてそのような団体の存続のためには、真理や美は容易にねじ曲げられるでしょう。ある意味、このような弊害を生まずに一人一人が探求活動をするためには、我々の精神が、自らの生活の中にある芸術や学問の萌芽に対する準備ができていなければならないことになりますが、それは、大学や美術館の中にあるものに対してしか学問や芸術を感じ取ることのできない、多くの鈍い精神には、なかなかに難しいことでしょう。
それは、一時期流行した「社会的企業」についてもまた、同じことが言えるでしょう。社会の欠陥を弥縫(びほう)するためのどのような取り組みもまた、「呪われた夢」であるのです。お金を稼ぐことではなく社会の改善を目指すその動機はすばらしいとしても、ある単一の課題への取り組みに、それさえ改善されれば今の世の中が少しはよくなる、と信じて一心に取り組もうとも、その改善が何を前提にして進んでいくのか、即ち何を犠牲にして進んでいくのかを考えていかなければ、自分が当初掲げたsingle issueが改善していくことは、別の不幸や暴力を生み出すだけのことになるでしょう。
もちろんこれらの指摘から、「夢を持つな」とか「社会の改善を諦めろ」ということを言いたい訳ではありません。大切なのは、すべての夢は「呪われた夢」にすぎなく、その夢の実現が個人としても、あるいは社会全体としてもそれだけでプラスの側面しか生み出さない、ということは決してなく、必ずプラスとマイナスを生み出すのだということを覚悟して、その「呪われた夢」を追求することをしていかねばならない、ということだと思います。自分の夢の追求とその実現がもたらす負の側面に対して心の準備をしては目を背けずに見つめながら、しかしそれでもその夢の実現を目指そうとしていけるか、言い換えれば自分の中で自分の夢をどこまでも信じる自己と自分の夢の犠牲にするもの故に自分の夢をどこまでも憎む自己という、二つの自己という矛盾をどこまで抱え続けられるかどうかが大切であるのだと思います。
それは、なぜなのか。それは人間の歴史自体が一つの試行錯誤の歩みでしかないからです。
ある人が掲げることになる夢には、必ずその必然性があります。また、その夢が抱える限界もまた、必ずあります。新たな暴力を引き起こさないためにそもそも何もしない、というのではその試行錯誤すら止まってしまうからです。どのような天才であれ、少なくとも人類にとって未来永劫正解として持ち続けるような正解にたどり着いて生きることはできないとしても、次につながる失敗をすることはできます。呪われた夢であろうと、その「呪い」を恐れるあまり、何もしないよりはそれを追求する方が前進することはできます。
それと同時に、その「呪い」を強く自覚していることが、その「夢」のもたらす失敗に気づきやすくしてくれます。ある時代の正義や真理がその有効性を失ってもそれが今までに獲得してきた権威のために自らを守ろうとして、結局それを差し替えるために大きな規模の暴力を招かざるを得なかった、という歴史もまた人類の歴史でしょう。
その差し替えにかかる時間やそのために必要とされる暴力を少なくしていくためには、その「呪い」への痛切な自覚が必要となります。
自らの夢が、呪われた夢であることに気づいてもいない人々は、もっと目を凝らしてよく自分の夢を実現するためにどのようなものが犠牲とされているのかを見た方が良い。僕は、彼ら彼女らに対してはかなり厳しい意見をもっています。正直考えないで生きていないと、そのように夢をもつことはできないとさえ、思っています。しかし、自らの持とうとする、どのような夢も既に呪われていることに絶望する人々は、何でもいいからえいやっと、やってみるのも良い手ではないかと思います。それによってでてきた不具合や起こしてしまった暴力については、それを防ぎ乗り越えていくために次にどうしていくべきかを考えていけば良いではないですか。
とかく前者(夢を追い求め、その呪いには鈍い子)はもてはやされ、それを批判する能力がない大人と、それゆえ後者(呪いに敏感なあまり、夢をもてなくなっている子)の苦しみに対しては理解することのできない大人ばかりの世の中ですが、嚮心塾が(もちろんどちらに対しても力になりたいものの)本当に力になりたい、と強く思っているのは、後者の子達です。呪われた夢が、呪われていることを深く知り抜きながら、それをえいやっとつかみ、必死に追い求め、その上で「呪い」の部分をどう乗り越えていくかに対して、共に知恵と勇気を振り絞ることができるような塾でありたいと思っています。君たちが、自分の夢を「呪われた夢」と感じることができているなら、それは追い求めるに値する夢です。それはちょうど、自らの人生を呪われた人生であると感じられるのであれば、それは生きるに値する人生であるのと、同じことですね。まあ、しんどいでしょうが、お互い頑張りましょう。



