嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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ラーメン。その2ー信念の曲げ方

前回の話で、ラーメン屋さんの行列に並んでいなければ、あのように深い世界を理解できないままに僕の人生は終わっていたと思いますが、一方で並んだことによって、様々なものも失いました。大きくは時間を。ほかにも健康や、自己を律する力など、失ったものは数知れないでしょう。このような自己の信念の曲げ方を堕落、ないしは自己への背信ととらえるとしたら、このような場合、どのように振る舞うのが正しいと言えるのでしょうか。端的に言えば、信念を曲げないことが正しいのか、曲げることが正しいのか。もちろん、それが時と場合による、ということは言えるでしょうから、どのようなときには曲げるべきで、どのようなときには曲げないべきであるか。そのことについて考えてみたいと思います。

まず、信念を曲げるには、信念をもたねばなりません。そして、これこそが最も重要なことです。生きていく中で信念をもって生活をしている人がどれだけいるでしょうか。信念とは、言い換えればこの世界の正義に対する仮説です。しかし、仮説は真理の探究のためにそれをもっていなければならないが故に意味があるだけであり、仮説自体に何らかの価値がある訳でありません。

話を信念に戻して言えば、信念を持っていなければ、そもそも目の前の事態に対し、「これは正しいか」という考察をしなくなります。そういう意味で、信念をもたない、という状態は何が正しいのかについての真理の探究を諦めた、極めて無責任な態度であると言えるでしょう。しかし、一方で自分が現在抱えている信念が死ぬまで貫くべき正しい信念である、と考えるのもまた正しさについての考察を放棄した態度であると言えるでしょう。なぜなら、どのように賢い人間のもつ信念であれ、その信念がどの状況でもどの相手に対しても正しい、ということはあり得ないからです。ある場面では正しさの判定に極めて有用な信念が、別の場面では目の前の現実に対して正しさの判定を誤らせてしまう、ということは容易に起こりえます。

故に私たちは、信念をまず持たねばならない。しかし、それを持つ理由は、その信念に依ることで一生をすごす判断の源泉とするためではなく、いつかその信念を捨てるためにそれまではその信念を貫かねばならない、という態度をとることが大切です。その信念の限界を現実に即して痛切に感じるその瞬間のためだけに、その信念を信じる、ということですね。いつか必ずくる別れのために、相手を愛する、ということでしょうか。

もちろん、そのように自分の信念を曲げることは何よりつらいことです。身を切るよりつらい。なぜって、今まで馬鹿にし、攻撃していたその相手と表面上は同化することになるわけですから。だからといって、「何も信じない!」という態度をとって「ああ、これもあるよね」という安全なところからの判断だけにしていくことは、結局何が正しいのかについての判断力を鈍らせていくことになります。自分が現在抱える信念をしっかりと信じているからこそ、それと目の前の現実における正義とが齟齬をきたしているときに、その矛盾の前に真剣に悩まざるを得なくなります。それこそが、ある信念(仮説)を脱し、次の信念(仮説)へと脱皮していく大きなチャンスであると思います。逆に言えば、何も信じない、という態度からは真理への漸近は決して生まれません。自らの信念を
、一つの仮説としてその限界を迎えるいつかまで、懸命に守り抜き、しかしその限界を迎えたときには、それを涙を飲んで捨てていく。そのような姿勢が大切だと思います。

とはいっても、一人の人間の中でこれ(「自らの信念を、いずれ別れるために真剣に愛する」)をすることが極めて難しいからこそ、学説同士の論争による科学史になっているのでしょう。一人の人間の中でそのように振る舞うことが難しいとしても、人類全体としてはそのように科学は進んでいるのかもしれません。しかし、科学について仮説とその検証という姿勢が根付いてきているとはいえ、一人一人の人生において、そのような姿勢が定着していかない以上は、やはり戦争というのは起きざるを得ないのかな、と思っています。

塾や予備校、あるいは家庭教師などの教師、というのもまさに「別れるために愛する」職業ですね。その子達と(もしかして永遠に)別れるために全力を尽くす、という職業だと思います。(ここは、学校の先生との大きな違いでしょう。)自分の信念を、いつかその寿命がくるときのために真剣に愛するかのように、塾は生徒一人一人が塾を打ち捨てることができるように、彼ら、彼女らのことを真剣に思いやります。ある意味予備校のカリスマ講師の方々の、「俺ほどすごい奴はなかなかいないぜ!」アピールというのは、その寂しさの裏返しであるのかもしれませんね。過去の僕自身を振り返ってみても、そのように思っていたと思いますし、それを振り返ると非常に恥ずかしい思いをもちます。

今は違います。卒塾生にとって、嚮心塾も僕自身も「いずれ捨て去るべき仮説」であることが大切であると僕は思っています。彼ら彼女らが5年も10年も懸命に生きて、嚮心塾にこだわるのだとしたら、それは彼ら彼女ら自身の努力が足りないのです。(本当は大学でのアカデミックな師弟関係もそのように言えれば一番良いのですが、なかなかそうはなっていないようですね。狭いコミュニティの中で「師」達の方が人事権を握っていてはなかなかそれが難しいかもしれません。あるいは、職を得ることと関係なくても、例えば数学の佐藤幹夫先生のお弟子さんのお話などを以前新聞で読みましたが、やはり偉大な先生に習うということは、思考も不自由になりがちであるようです。)

その上で、今年もまた、懸命に一人一人の生徒たちに、全力を尽くしていきたいと思っています。
彼ら彼女らが塾や僕を打ち捨てるその瞬間に、少しでも真理へと漸近できるように。
そのように役に立てるのなら、それは打ち捨てられて砂をかけられて、本望といえるものでしょう。
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