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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第11号

この文章をブログに載せる上で、お断りをしておきたいのは、僕はいわゆる「立ち位置」というものに全く興味がないということです。右か左かは、どちらでもよい、あるいは、どちらでもだめだと考えています。どのような立ち位置をその人がとるにせよ、真剣に悩み考え抜く、という姿勢が大切であり、「このように考えるが故に僕の主張は正しい。」ととりあえず対外的には主張したとしても、内面では「本当に自分の主張は間違っていないのだろうか。」と絶えず悩んでいることが大切だと考えています。


第11回 「愛の対義語は無関心である」のなら、「無関心の対義語は愛である」と言えるのか。

 さて、始まりました、嚮心塾通信。第11回の今回は、「『愛の対義語は無関心である』のなら、『無関心の対義語は愛である』と言えるのか。」です。長すぎるタイトルの上、意味もわかりにくくて、すみません。順を追って書いていきましょう。
 まず初めの「愛の対義語は無関心である」という言葉は、マザー・テレサの言葉です。正確には、「愛の対義語は憎しみではない。無関心だ。」という言葉であり、とても深く厳しい言葉であると僕は思います。誰からも見捨てられた人々を「神の子」と呼び、自分から率先して救おうとし続けた彼女らしさが現れている言葉であり、それと共にそのような人々を見捨てて平気である人類全体への厳しい問いかけであると思います。
 しかし、このすばらしい言葉も、ひっくり返してみて「無関心の対義語は愛である。」とすると、とたんにキナ臭くなります。この言葉は、たとえば、現在国会を通過することが間違いなくなってしまった教育基本法の改悪案を推し進める人々が心に抱いているものではないでしょうか。「国を愛する心」を育てよう、というその態度は、現在の若者が国家や政治に対して無関心であるという自体を憂うるからこそ生まれてくるものです。「国家に対する若者の無関心を何とかしたいが『無関心の対義語は愛である』からこの無関心さを直していくためには『国を愛する心』を育てなければならない!」単純化すると、このような思考回路ではないかと思います。

 しかし、この論理には、言うまでもなく飛躍があります。日本語の「愛」には大きく分けて二つの意味があるからです。それは、その対象を好きで好きで仕方がないという愛(英語のlike、あるいはこの意味のloveですね)その対象に深く関心を寄せ続け、時にはその対象をよりよくしようと批判する愛(likeの類義語ではない英語のlove)とがあるからです。先のマザーテレサの言葉が深い意味を持ったのは、loveの反対語としてhate(憎む)を想定することから、人は、誰かをhateして(憎んで)いない自分にloveがあると見なすことが多いものの、ほとんどの人は世界の悲惨に対してloveもhateもしていない状態(これが無関心、be indifferentです)であり、それこそが問題であるということを鋭く突いたからでした。つまり本来hateの対義語はlikeであり、loveではないのにも関わらず、loveの対義語はhateではなく、indifferenceだといったことにこそ、彼女の言葉の意味があったのでした。それは、loveという語の意味を、ほぼlikeの程度の強いものに過ぎないようにおとしめてしまっている各人の私的な生き方を批判する力となり、likeとその延長のloveしか持たずに生きる人間に、そうではないloveの存在を喚び起こしたのです。
 翻って、「無関心の対義語は愛である」という態度はどのようなことを意味するのでしょうか。それは、loveをlikeから切り離して、loveにはもっと深い意味がある、ということを提示するのではなく「loveは所詮likeと同じ意味なのだよ。」とすりこませようとするすりかえであると思います。たとえば、「私は日本を愛するが故にこんな腐った状況を何とか変えたい」とか、「私は日本を愛するが故に日本人のしてきたこのようなひどい過ちを許しはしない」というのは、この態度の延長からは許されなくなりそうです。上のように日本と日本人を批判し、反省するのも立派な「愛国心」であるはずですが、そのような「愛国心」が排除され、教え込まれるものに「Yes」と言うしかない人の群れを作るのがこの変更の目的であるとしたら、このことを通じて日本という社会が良くなるはずがありません。(今も昔も日本人に根本的に弱い力は、自省する力であると思います。自分から反省をするという力があまりにも弱すぎて、相手が何も言わなければそのままのさばってしまうのです。逆に相手がちょっと何かを批判すれば、その批判の当否を考えずにびくびくしてしまいます。この卑怯さが他の国の人から信頼されにくい理由であると思います。戦前の日本的な価値に勇敢さを見いだそうとするのも間違いでしょう。狂信は現実を見つめようとしない臆病さの現れでしかないのですから。)
 今までの話をまとめれば、「愛の対義語は無関心である」という言葉は、privateなloveをpublicなloveへと引き寄せようとする運動である、と言うことができるでしょう。逆に「無関心の対義語は愛である」という言葉は、publicなloveをprivateなloveへと引き寄せようとする言葉であるのです。それをふまえれば、「無関心の対義語は愛である」という言明は、公的精神復活のためではなく、むしろ、国家をも超えた公的精神の撲滅運動であると思います。
 エゴイズムの反動として愛国心が説かれるようになってしまうという構図ももちろんそれなりに的を射ているのですが、今起きている事態を理解するためには、実はエゴイズムの延長線上に愛国心があり、両者は同質のものであるという視点こそが大切であると思います。なぜ、エゴイズムの反動として、人類愛や宇宙愛が説かれないのかという問題は、およそ「反動」という作用によって我々がたどり着くことのできるレベルには本能的なものしかないという悲しさ、そこでの本能は結局生存のため以外の目的を描きえないという限界が確かにあることを示しているのです。愛国心はprivateなわがままさと同質のものであり、決して他者へのやさしさではないということを肝に銘じておかなければなりません。(自分をI(私)にするかWe(私たち)にするかの違いであり、決してYou(あなたたち)やThey(彼ら、彼女たち)への愛情ではないのです。)
 自らの意図も明確に自覚もせずに、無関心への反動として愛を強制する人々のために、教育基本法の改定はなされてしまいました。この愚かしさを、しかし、一部の政治家やその支援者の問題だけにしてはいけません。私たち全てに責任がある愚かしさであるのです。私たちは、結局戦後60年をかけても、publicと国家は同じにはならないのだという事実に気づくことのないまま、真のpublicとは何かを探すことをに目を背けてはprivateを追い求めてきたことへの反動として、「ほらやっぱりpublicと言えば、国家でしょ」と押しつけられてしまうことへの抵抗力をなくしてきたのでした。一体何人の人が、「publicとはおまえたちの押しつける国家なんかじゃない。もっと大きなものだ。そして僕や私はそのことのために生きてきたんだ。馬鹿にするな。」と断言できるのでしょうか。国家主義とは他の全てのものよりも国家を優先するのではなく、他の大切なものが見えないからこそ「国家を尊重しろ」という命令に違和感を感じない、という悲しい態度に過ぎません。そのような愚かしさを、まずは身の回りから反省していきながら、全てのprivateなものと戦い続けるしかないようです。

※この文章ではわかりやすくするために、loveとlikeの意味を分けて書きましたが、どうして相手を愛する意味であるloveに広い意味が生まれてきたのかについても、また機会があったら勝手な推測(調べろよ!とお叱りは承知の上で)を書きたいと思っています。
       2006年12月14日
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