嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

巨人の肩に乗ることもできずに、三国志を読む。

北大の合格発表がサーバー落ちで確認できないため、時間つぶしでブログを書いています。

先日、ある受験生にかなりしっかり話をしました。その子は本当に努力を重ねる子なのですが、自分に自信をもてておらず、
そのことからだいぶ精神的に参っている状況でした。この大学受験でそれなりのところに合格しなければ自分の人生はもう終わりだ、というように思い詰めて、そのせいでかえって実力を発揮できない、という失敗を重ねてしまっていました。

その子に僕が話したのは、「中高時代に、どんなに『賢い』子に対してコンプレックスを抱くようなことがあっても、ここからは君の勝ちだ。なぜなら、これだけ高度に発達した学問体系に対して、もはや『賢さ』故のbreakthroughなど、期待されないからだ。たとえば、ノーベル賞受賞者も『賢くって独自の誰も思いつかないような革命的なモデルを思いつきました!』みたいな人は出なくなっていて、むしろ愚かさ、言葉をかえれば愚直にひたすら努力できるかどうかが問われる時代になっている。だからこそ、君のような努力を継続的に人間こそ、この時代の勝ち組だよ!」という話をしました。

ノーベル賞受賞者は決して賢くない(もちろん、それは彼らの偉大さを否定するものでは全くありません。)、というのは当たり前の話だと思うのですが、この認識はなかなか社会には共有されないようです。

話は変わりますが、僕は中1から中2の時に三国志にはまりました。最初は三国志のカードゲームから興味を持ち、吉川英治のものを読み、さらに飽き足らずになくなったおじいさんの書棚にあった何かマニアックな漢詩つきの講談本まで熟読というか、暇さえあれば読み返していました。もうすっかり忘れてしまいましたが、武将の名前も出てくる人はほぼすべて覚えていました。そのせいで、その後ファミコンゲームでもコーエーの三国志シリーズがはやったのですが、僕にとってあのゲームはクリアして喜ぶものではなく、比較的有名ではない武将の能力のパラメーターを原作での登場場面と照らし合わせてどう評価付けをしているか、その評価付けにいちゃもんをつけるというマニアックな遊び方をしていました。

そこまで僕が三国志にはまっていたのはなぜかと言えば、とにかく「この時代に生まれたかった!」あるいは「生まれる時代を間違えた!」ということだったのです。三国志の時代であれば、己の体力、武芸、知力だけで勝負ができました。しかし、この時代はどんなに喧嘩が強かろうと、銃を持っている人にはかないません。それとともに、どんなに賢かろうと、ここまで発達した学問を修めなければ話になりません。scienceとtechnologyが発達する前の段階で僕が生まれていれば、それこそ孔明とはいわなくても郭嘉とか陸遜くらいには、かなりいい勝負ができたのではないかと思っていたのですが、「巨人の肩に乗る」(先人の業績をふまえる)ことで初めて勝負が始まる現代においては、僕の飽きっぽさ、努力の足らなさでは、ある程度はできたとしても所詮世界一にはなれない、とわかってしまいました。それが前のエントリーで書いたいわゆる「○○五輪」系の努力の方向も僕はとる気になれなかった理由です。それが(社会の中での大学による厳しい差別を目の当たりにしていたので(そんなの、新聞や本を読めばわかりますよね。どこどこ大学卒が経歴の紹介で一生ついてくるわけですから。小学生でもわかる理屈です。))「東大に入れればいいや。」という低い目的意識になり、先のエントリーで吐露したような情けない中高生生活になってしまっていた理由でもあります。

もちろん、この判断は今から思えばいろいろと間違っています。たとえば、数学においてブルバキの登場以降、ブルバキズムをふまえないで数学は語れないものの、ブルバキズムを経て勉強を進めていけば、当然それに対しての批判やもっと偏らない目で数学の全体像を見ようという姿勢が阻害されるように、「巨人の肩にのる」努力をしながらも、その巨人を疑う、という姿勢を貫ける人間こそが、学問の奴隷にならずに学問の新たな一歩を進められる人間です。僕にそれを引き受けるだけの能力があったかどうかは別として、その可能性を目指しもしなかったのは明らかに僕の失敗でした。もしあの当時の僕のような中学生が目の前にいたら、「この人間の発達させた学問体系に対して違和感を感じるからこそ、それを勉強しなければならない、僕はそれで失敗した。だからこそ、君は頑張りなよ!」というアドバイスを僕はするつもりです(なかなかそういう中学生や高校生に巡り会えないのですが)。ただ、その当時、僕はそんなことを相談できる相手がいませんでした。親からは園児の頃から「何を言っているかわからない」とよく言われていましたし、学校の先生も信頼できる人は数少ないながらいたとはいえ、この問題を打ち明けて相談できるほどの信頼をしては裏切られるのが怖くて、話さずにいたところがあります。

だからこそ、僕は塾でそのように学校の勉強も打ち捨てて、「三国志」(もちろん三国志でなくても良いのです。何かしら、自分がそれに強く引きつけられる、ということはそこに自分の人生をかけて取り組むべき根本的な問題がある、ということです)を読んでいる子に、「勉強しなさい!」という決まりきった文句ではなく、「なぜ君はその本が好きなの?」という問いかけをしていきたいのです。それは、あの頃の僕を孤立無縁なままに見殺しにしないため、でもあり、そのような子に少しでも自分で考えるのとは別のアプローチを提示できるのであれば、それは必ず人類全体への大きな貢献につながると思っています。

それとともに、手持ちの武器で戦略を練る、という三国志時代のような原始的な取り組みも案外この社会では必要であるようです。たとえば、大学入試のように時間がきつい中で難易度の高い問題を解く、ということになってくるとこれは学力だけでは決まらなくなってしまいます。高い学力の子も解き方を間違えれば得点が取れませんし、持っている学力は合格ぎりぎりでも、それをどのように駆使するかによってはバチッと合格することもできます。そのような思考法自体は、大学受験を終えても必ず一人一人の人生において必要になってくるので、その点でも受験生を最後まで鍛えていきたいと思います。


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