嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第10号

日付からもわかるように、この通信の間隔を空けないためにさらっと書いた文章です。3ヶ月のブランクに焦りを感じていた自分を見習って、また定期的に書いていかねばなりませんね。


第10回 感動は常に美しいのに、

 あらゆる感動は、その感動の対象が、肥えた目から見ればいかに稚拙なものであっても、美しいと思います。だから、たとえば僕は、『NANA』(マンガのです)という作品には不満も感じますし、あれを「良い」と思う人々にも不満を抱きますが、しかし、あの作品を読んだ人々のその感動は、本当に大切だと思いますし、大切にしていきたいと思います。
こう言うと、何かずるい感じがぷんぷんしますよね。「厳しく作品の評価を下すことで、強い風当たりをうけ、中には迫害を受けて苦しむ人々を後目に、上手く世の中をわたっていこうとしているんじゃないか、おまえは!」というお声が聞こえてきそうです。厳しい批判者として生きるが故の受難の歴史は、J.J.ルソーを思えば、いや、そんな遠くを見ずとも、たとえばテレビでおなじみの映画監督の井筒和之さんを思えば、当たり前のことです。そのような方々から見たら、「八方美人的なずるいこと言いやがって。」と叱られても当然です。もちろん、僕は井筒監督の怒りもおおかた正しいと思います。彼のような批判者がこの社会には足りなく、だからこそとても貴重であり必要であると、本当に心から思っています。(彼も最近は大分、画面の枠になじんでしまってはいますが。)僕自身もそのように厳しく批判をしていかねばならないと思っています。
 しかし、そうした作品への批判も、その批判を取り入れる側にとっては、やはり自分の身の丈にあった批判を取り入れることになってしまっています。自分の身の丈にあった感動を取り入れるのと同じように、です。それでは勇気ある批判もまた、「個性」を演出するアクセサリーとして使い捨てられていってしまうのではないでしょうか。その現状に対し、批判を投げかけて後は放っておくだけではなく、また別の取り組み方をしていく必要があると思うのです。
 問題は、感動は人をその中に引き入れるのに対し、批判は、その自分の内的感動と作品とのズレを目覚めさせるものであるということが理解されていないことにあると思います。自分の感動した作品に対する批判とは、自分の感動に対する批判ではなく、むしろ自分の感動を大切にしていないことへの批判であるのです。「こういう作品にあなたは自分の感動を重ねてしまっているけれども、それは本当に自分の感動を大切にしていると言えるのかい?」という問いかけこそが批判であると思います。
 ですから、批判というのは、「そんな自分じゃだめだ。」というだけでなく、「そんなものを自分と呼んじゃだめだ」というメッセージです。特攻隊の青年の遺書や、生命を救う医師の姿に感動することは美しいとしても、自分の感動を感動の対象に無理矢理重ねるのではなく、自分の感動と感動した対象とのズレに気づけるようになっていくことが、「本当に自分の感動を大切にする」ということだと思います。

 最後に、最近アランの『定義集』(神谷幹夫訳)を読んでいたら、次のような項目が二つ並んでいて、その妥協のなさに「感動」しました。それを引用しておきます。

理想(ideal):賛嘆や模倣の対象として作り出されるモデル。理想はいつも、不似合いな、ささいな現実から超脱している。人は、賄賂の効かない裁判官が家では吝嗇であることを、知るのを好まない。人は真理の探究者が権力者にへつらったことを、知るのを好まない。愛は全て、愛する対象を理想化するが、その種の盲目は憎しみから生じる盲目よりも害が少ない。人類は無垢の英雄達への賛美によって人類自身を超越している。無垢の英雄達は人が崇敬しているようには存在しなかったのだ。レオニダスは理想である。そしてスパルタもまたそうだ。

偶像崇拝(idolatrie):ある形象、それ(これがイドラ(偶像)の本来の意味である)が精神を意味することができる
。この意味において、外的な美しさは精神の均衡を表している。しかし、イマージュの中にはなにか人を魅了するものがある。また反対に、人に好かれるすべを知らない正直な人たちも必ずいる。好きなものを尊重するのは、食い道楽のようなものだ。心地よい思考を楽しもうとするこの嗜好、それが偶像崇拝の本質である。

「無垢の英雄達への賛美によって人類自身を超越」することを目指しながらも、「理想」を「偶像崇拝」せぬように、気をつけていきたいものです。                          2006年11月5日
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