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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ビットコインについて

現在、世間をにぎわしているビットコインについて、現時点での僕の考えをまとめておきたいと思います。

まず、不正なのか、それともセキュリティの脆弱さ故なのかはわかりませんが、一つの取引所がこのように破綻しただけで、鬼の首でもとったかのように「だからこんな怪しいものは信じちゃだめだ!」という結論に至るのはもったいない。ましてや、ほかの詐欺事件(円天とかですね)と比べるというのは無理解故の悪意すら感じます。円やドルに比べてビットコインが「怪しい」要素が果たしてあるのかどうか、素人考えながらいくつかの論点に分けて書いていきたいと思います。

①もともと実体のないビットコインが価値を持つなんておかしいのか。
というビットコインへの批判は、そのまま円やドルにも当てはまります。現代の貨幣は金本位制などの何らかの物質的価値に担保されることのない、信用貨幣です。であるが故に、「アメリカ政府が出しているから安心」「日本政府が出しているから安心」という考えは(たとえそれらの政府が巨額の徴税権をもっているとはいえ、それを帳消しにしてあまりある債務を抱えている以上は)あまり正しくないと言えます。さらに、です。各国の貨幣流通量がそのときの中央銀行の政策によって大きく変動するのに対して、ビットコインはどのようなカーブを経て、最終的にどのような量へと収束するかも定められています。つまり、「今不況だからとりあえずお札刷ろうぜ!」というアベノミクスだのヘリコプター・ベン(前FRB議長のベン・バーナンキのあだ名ですね。)だのの影響を受けない訳です。一国の経済状況に左右されて大規模な金融緩和が各国政府の権限で無秩序に行われる、ということ自体はこのアベノミクスを「成功」と各国の中央銀行がとらえれば、ますます増えていくでしょう。それが世界全体にどのような信用の低下を引き起こすかについては未知数のままに緩和合戦になっていくとして、そのような各国の貨幣よりもビットコインの方が怪しい、というのは単に私たちが今までの習慣からお札やコインを「お金」だと思っているという以上の根拠はないことであると思います。

②そもそもビットコインは貨幣の代替物なのか。
将来的な総量が決まっていること、あるいは「採掘」というアナロジーが暗示するようにビットコインは貨幣との比較だけでは語れません。むしろ、金やプラチナなどの稀少金属との比較で語る観点が重要であると思います。採掘や精錬にはコストがいるものの、そもそも地球上にそんなに多くは存在しない(かつピカピカしていてきれい)であるが故に、一定の価値の象徴として、これらの金属は長年に渡って貨幣経済の基礎となってきました。金本位制を本格的に人類が手放したのはいつとみるべきでしょうか。最終的な決別がニクソンショック以降、と考えればまだ40年くらいしか経っていません。これらの稀少金属の軛(くびき)から貨幣を自由にせざるを得なかったのは、それらに担保された財政規模では間に合わないような債務を現代の国家が担わなければならなかったでしょう。単純に言えば金(きん)をもっている以上に紙幣を刷らないと間に合わないくらいにお金を使うようになった、ということです。
ただ、一方でこれらの希少金属にも大きな難点がありました。それはまず埋蔵量に限界があること(限界があるからこそ、稀少金属であるわけですが、しかしそれでは足りないような財政規模に現代の国家はなってきました。)、次にやはりモノですから、そもそも保有するのにもコストがかかります。さらには取引コストも実際に金を移動しなければならないとしたら、大変なことです。
ビットコインはこの金やプラチナなどの稀少金属の問題点を解決するために考えられた制度であると言えるでしょう。取引コストの少なさ、タイムラグの少なさなどはその点で見事に解決できていると思います。もちろん、ビットコイン自体が信用を得るためにその埋蔵量に限界を作ることは当然必要であった訳ですが、このシステムがうまくいくのであれば、第二、第三のビットコインを作っていけば、人工的な、そして取引コストのきわめて小さい稀少金属の代替物を用意していくことができるわけです。その意味で、まさに稀少金属の稀少性のみに注目し、(いわゆる細密な電子部品に使われる「レアメタル」のように実用性があり、かつ稀少であるがゆえに高価な金属とは違って)実用性がない稀少金属は仮想通貨で代替しうる、という大きな社会実験となっている訳です。

世界史を見ても、たとえばヨーロッパの価格革命のように、ヨーロッパで産出される銀の量で銀の価値が決まっている状況に新大陸から大量の銀が流れ込み、銀の価値が大きく下落する、ということがありました。たとえば各国の中央銀行が発行する貨幣が技術的制約(お札をこれ以上刷れないという技術的制約はないでしょう)というよりは信用の最大値による制約を受けていて、逆に金やプラチナなどの稀少金属が流通量の最大値による制約というよりは技術的な制約(どこまでも深く掘れば金やプラチナを今よりもさらにとることはできるでしょう。ただ、それだけの技術があるかどうか、さらにはそれだけのコストが金やプラチナの価格に見合うかどうか(当然大量にとれれば稀少性は減るので))を受けているとすれば、ビットコインについては将来到達すべき最大値が示されているという点で流通量の最大値による制約を、また「採掘」に(少なくとも現段階では)コストがかかるという点で、技術的制約をもっています。それら二つが二つともにビットコインの稀少性を担保しているとすれば、僕たちが円やドル、あるいは金やプラチナをビットコインよりも信用するための、少なくとも理性的な理由はない、ということになります。


③さて、これから生じると考えられるであろうビットコインの問題点
さて、ここまではビットコインの可能性について書いてきましたが、当然問題点があります。それについて、これからおそらく問題になるであろう点をいくつか挙げていきたいと思います。
1)「技術的制約」についての見通しの不確かさ。
コンピューターの発達によってビットコインの「採掘」の技術的ハードルが下がれば下がるほどに、ビットコイン自体への信頼性も下がっていきます。また、そもそもアメリカのような超大国がスパコンを使ってその「採掘」に没頭していったとすれば、個人の採掘の「余地」などなくなるでしょう。保有するコンピューターの性能の差は、ビットコインにおいても貧富の差となり、富める国はますます富み、貧しい国はますます貧しくなるでしょう。技術的なことは僕にはよくわかりませんが、しかしコンピューターの性能が日進月歩で進む以上、現在の理論的な「技術的制約」が今後何十年にも渡って予測通りに制約であり続けるかはわからないのではないでしょうか。
2)そもそも貨幣は国家と強く結びついている、ということ。すなわち各国の中央銀行の(恣意的な)信用創造に対して、代替の選択肢を用意してしまうビットコインを歓迎する政府はない、ということ。
これについては、わかりやすいのではないでしょうか。少なくとも、この試みを保護したり推進したりする動機が
そもそもどの政府にもありません。
3)パソコンとインターネットを必要とする以上、デジタル・ディバイドによる貧富の差がさらに拡大していくこと。
4)稀少性、というだけでそもそも価値を担保できるのか。
これは頭で考えればわかるけれども、それをモノで媒介できないときにどこまでそれが受け入れられるのか、ということでもあります。貨幣の歴史を考えれば、貝とか布とか、「お!きれい!」という感覚的なものが先に立つところから生まれて生きている訳です。あるいは金や銀にしてもあんなピカピカしたものでなければ、いくら稀少であってもこのようにあれらを基礎とした経済ができたかは疑問です。案外、人間は頭で考えるよりも見て奇麗だと思ったり、感性に左右されるところがあります。もちろん、今のお札や硬貨を奇麗と思う人が多いかどうかは意見が分かれる訳ですが、すくなくともモノとして存在している以上は、そこに対するフェティシズムも可能になります。頭で稀少性を理解するだけでそれが、どこまで広がるかは、人間の偶像崇拝の歴史を見ても、限界があるかもしれません。

などなど、まあ問題点はいくらでもあります。ただ、大切なのは、こういう取り組みの意味をしっかり考えていくことだと思います。現在の貨幣経済が歴史の終点ではなく、現在の貨幣経済にも必ず大きな失敗があるわけです。その欠点に気づき、修正し、考えていくための一つのチャレンジとして、僕はビットコインを「何かうさんくさいもの」とみるのではなく、そのよいところを汲み、悪いところを反省しては、次につなげていくことが大切かな、と思います。

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