嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

この恐ろしき社会の中で。

センター試験は終わり、これから国公立の出願を準備しながら、私大入試、中学受験、高校受験、そして国公立大学の入試と塾はまさに勝負の一ヶ月です。受験生ももちろん僕も様々なことに神経をすり減らす毎日です。

とはいえ、様々なことに困っているご家庭は山ほどある訳で、そういった相談や生徒の心のケアということも極めて大事であるため、なかなかに忙しい毎日です。勉強だけを教えられるのなら、どんなに楽なことでしょう。とは毎年思うのですが、それならそれで僕が学習塾をやる意味などあまりありません。「全教科教えるだけでなく、何もかもについて、できる限り生徒の力になる」というコンセプトを掲げて始めた嚮心塾ですが、これがどれほど大変なことであるのかは、そのコンセプトを掲げた当時には全くわかっていませんでした。

それと同時に、このような取り組み自体がやはり必要なものであることもまた毎年感じています。自分の困っていることについて、「これについては○○に行って相談すれば良い!」とわかる人というのは、既にだいぶ力がある人たちであるのです。どのように社会のセーフティネットを制度設計していこうとも、そもそもその制度を知らなければ活用できません。あるいは、潜在的なニーズが表に出てこないままであれば、そもそもどのような問題があるのかは把握できません。「こんなこと、誰に相談したら良いかよくわからないけど、とりあえず通っている塾の塾長のおっさんに話してみる。」ということがただ「語る」ということを通したセラピーとしての機能を果たすだけでなく、彼ら、彼女らにとって「調べてみると結構具体的にとれる手が(しかもこんな場末の塾のおっさんでも調べたらわかるくらいあちこちに)あるんだ!」という、気づきにつながってきます。それは彼ら彼女らを極端な自暴自棄へと走らせる前に、「調べる」習慣を鍛えていくことができるでしょう。

受験勉強に限らず、ある程度のメリトクラシーが実現していると思われている社会においては、努力こそが美徳であり、
社会的に成功していない人たちは努力不足であると勝手に類推されてしまいます。しかし、そこで問われているはずの「努力」にはその努力の時期によって評価されやすさに大きな偏りがあります。このような学歴社会では、18歳からそこらまでの努力は一生評価され、逆にそこまではさぼっていてその後に努力をどんなにしても、それが報酬として正当に評価されることは極めて少ないのです。
さらには、子供が進学するために必要な親の経済的余裕が、子供の生涯賃金を決めてしまいます。つまり、全く本人の努力だけで計られているわけではないのですが、それにも関わらず、努力が社会的地位や収入の高さによって逆算できるかのように思われてしまいます。ましてや、ここに男性と女性のキャリアパスの違いを考えれば、恐ろしいまでに抑圧的な構造が私たちの社会にはまだまだ根強く残っているのです。そのような中で、根本的に評価されにくいキャリアパスの中では、その本人たちの誠意も努力も安く買いたたれていくだけということになってしまいます。

金銭的に報われる仕事だからその仕事に精を出す人間と、報われない仕事であろうとその仕事に精を出す人間と、どちらが高い人間性をもつかは、極めて自明である(もちろん後者です)訳ですが、それはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法(奴隷は主人の役に立つために様々なことをするからこそ、奴隷に様々なスキルが蓄積され、逆にそれらを奴隷に任せている主人は何もできなくなり、結果として能力の低い主人は能力の高い奴隷にやがてとって代わられるという考え方)」で描かれたようにはうまく社会が流動化することなしに、人間的に成長する方が待遇を改善してもらう仕組みはできないままに、利益はより上へと集積されていきます。こういうと、「じゃあ共産主義がよい!」という短絡的な反応も出てきてしまう訳ですが、強制的に経済的な平等を実現するためには、それを実現する強力で抑圧的な行政機構が存在しなければならなかったわけで、その失敗を僕たちは覚えているでしょう。大切なのは、人間社会をうまく切り盛りするには、人類史上名だたる天才たちの知恵をいくら集積してもまだ決定的な答えなどは出てこないし、それを将来的にも期待するのは不可能である、ということであるのです。マルクスにもヘーゲルにも、それは無理でした。そして、それは彼らの罪ではありません。

だからこそ、生徒一人一人が抱える一つ一つの違和感、生きにくさをどのように「問題」としてとらえ、それに対して解決策をその都度必死に考えていく、ということは一見迂遠であるかのように見えながら、実はとても大切なことであると思っています。「大理論」によって問題をいっぺんに解決することを目指すのではなく、しかし、解決への糸口を丹念に探し続けるという姿勢は、一人一人の問題の解決に必要なだけではなく、彼ら彼女らがその後の人生において、鍛えていくことのできる戦略であるのです。それを伝えたいと思っています。

それとともに、僕が塾でやるべきことは「報われない努力をいとわない子たちに、報われる努力が何かを見つけてはそれも踏まえることのできる力をつける。」ということです。この世界は、子供たちが想像する以上に、はるかに不公正です。「努力をしていれば、報われない努力も誰かが必ず見てくれている。」などという奴隷の道徳を説いては、子供達に自分が道徳的であるかのように振る舞うことで自己満足に浸るくせに、彼らの将来に責任を持とうとしないエセ「聖職者」になるよりは、彼らが報われやすい努力の方向を見つける力と、それを実行する力とをつけていきたいと思っています。

受験勉強で言えば、「わかる」「解ける」だけでなく、「点を取る」ということにどれだけこだわれるかです。毎年受験生を教えていて、優秀な子であっても(特に再受験生にその傾向が強いのですが)点を取るということにこだわれていない子があまりにも多いことに驚きます。しかし、大学受験は、この不公正な社会においては、一生を決めるものです。あまりにもそこに対する恐怖がないままに、不用意に臨まぬように、受験勉強を馬鹿にせずに準備をしていく姿勢を何とか伝えねばなりません。そこを、誰よりも「報われやすい努力」を見つけるのに敏感な、即ち人間性の低い僕が、最後まで徹底的に鍛えていきたいと思っています。
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