
2009年に塾でも講演会をしていただいた、尾角光美さんの初めての単著、「なくしたものとつながる生き方』が先日サンマーク出版から発売されました!
献本いただいた後、すぐに読み終えて、とても素晴らしいと思っていたので、感想を書こうと思っていたのですが、あまりの忙しさに忙殺され、書くのが遅くなりました。すみません。
この本は、巷にあふれる「癒し」や「回復」を目指した本ではありません。その意味で、心の痛手から立ち直るヒントを求めて読んでしまうと、拍子抜けするかもしれません。この本に現れている尾角さんの思想は、「痛みを抱えながら、罪を感じながら人はどのように生きていくのか。」ということだと思います。自分自身の「回復しよう」という姿勢、「立ち直ろう」という姿勢自体が、その深い喪失を真剣にとらえている人ほどに、苦しめてしまう事になるということは多いのではないでしょうか。
あるいは「立ち直れたかな?」「乗り越えられたかな?」という他者の思いやりから生まれたはずの言葉もまた、そのかけがえのない喪失に直面した人にとっては、暴力としてしか作用しません。回復できるような悲しみは、そもそもそんなに深い悲しみではありません。回復できない悲しみこそが、「失う」「なくす」という語を使うときでしょう。それに対して、
さんざんに苦しんできた尾角さんが、でも自分はどのように生きていくのか、という一つの姿勢を打ち出したのがこの本であると思います。
端的に言えば、この本はわかりにくい。感涙を誘っては読者のカタルシスに役立つことをどこかでやんわりと拒絶している部分があります。しかし、それがよい。生きるということが様々な痛みを、つまり大切なものや人を次々と失い続けることだけが人生であるのだ(家族や愛する人を一生失わない人間はいません。)、という尾角さんの覚悟が見えます。そこには、「失ったことを乗り越える」という「健常」への偏向や「異常」への拒絶に自分の感情を委ねることなく、その大切な人やものを失うことも含めて、人生を丸ごと愛そうとする覚悟が見えます。「風邪が治る」ようにdepressionからの脱却を「回復」と呼ぶのであれば、大切なことを忘れやすいほどに「心の健康」を維持できることになってしまいます。もちろん、それは事実としてはそうなのでしょうが、「心の健康」を保つ人が正しく、保てない人が正しくないわけでは決してありません。自らの罪を、喪失を抱えて生きざるをえない人間と、それを忘れて生きられる人間と、どちらが人間らしいと言えるのか。僕は前者であると思います。
優しいからこそ、大切な人やものの喪失に深く傷ついている人々にとって、そのような罪や傷を抱えながらも生きている尾角さんの存在は、一つの福音であると思います。もちろん、それがモデルケースではありません。一人一人、罪や傷を抱えながら生きていく、ということはそんなに簡単にまねのできるものではありません。あるいは、尾角さん自身、ここからどうなるかもわかりません。すべての「これをきっかけに私は生きる勇気が出てきました!」という気づきは、そのような気づきにその人自身の心が既に準備されているが故に起きるものです。それは、きっかけをもらうのではなく、何かをきっかけと自ら主体的に見なしているだけですし、そのようなきっかけをこの本に求めても、無駄でしょう。しかし、自分の罪や傷を抱えて生きるために、様々なきっかけを主体的に見いだしている尾角光美という一人の人間の言葉は、外から押し付けられる心ないきっかけを排除し続ける人々にもまた、「他から与えられるきっかけが嘘くさいものだからといって、自分自身が人生を肯定することを諦める理由にはならない。」という一つの灯をともしてくれる、そのような本であると思います。
人間らしく生き続けるのは、難しいことです。ドストエフスキーが『悪霊』で描いたように、キリスト教にもし深い部分があるのだとしたら、それは、罪の自覚を強制されない立場にあるものが、それでもなお、自らの罪を自覚することの中にあるのだと思います。しかし、『悪霊』のスタヴローギンがそうなるように、人間にはそれに耐えるだけの強さがありません。誰かの責めには抗することができても、自分の良心の責めに耐えることはできません。だからこそ、歴史の上でも様々な暴露や革命が可能であったのでしょうが、一人一人の運命を考えるときには、自らの犯してきた罪への深い悔恨という人間性の回復は、その人間の社会生活を困難にしていくでしょう。端的に言えば、自らに対して深い反省をもつような生きるに値する人間こそが、生き続けにくいのです。僕の塾もまた、少しでもそのような人々の支えになれるよう、引き続き努力していきたいと思います。
アマゾンからも買えますので、興味を持たれた方は是非読んでみていただけると嬉しいです。
献本いただいた後、すぐに読み終えて、とても素晴らしいと思っていたので、感想を書こうと思っていたのですが、あまりの忙しさに忙殺され、書くのが遅くなりました。すみません。
この本は、巷にあふれる「癒し」や「回復」を目指した本ではありません。その意味で、心の痛手から立ち直るヒントを求めて読んでしまうと、拍子抜けするかもしれません。この本に現れている尾角さんの思想は、「痛みを抱えながら、罪を感じながら人はどのように生きていくのか。」ということだと思います。自分自身の「回復しよう」という姿勢、「立ち直ろう」という姿勢自体が、その深い喪失を真剣にとらえている人ほどに、苦しめてしまう事になるということは多いのではないでしょうか。
あるいは「立ち直れたかな?」「乗り越えられたかな?」という他者の思いやりから生まれたはずの言葉もまた、そのかけがえのない喪失に直面した人にとっては、暴力としてしか作用しません。回復できるような悲しみは、そもそもそんなに深い悲しみではありません。回復できない悲しみこそが、「失う」「なくす」という語を使うときでしょう。それに対して、
さんざんに苦しんできた尾角さんが、でも自分はどのように生きていくのか、という一つの姿勢を打ち出したのがこの本であると思います。
端的に言えば、この本はわかりにくい。感涙を誘っては読者のカタルシスに役立つことをどこかでやんわりと拒絶している部分があります。しかし、それがよい。生きるということが様々な痛みを、つまり大切なものや人を次々と失い続けることだけが人生であるのだ(家族や愛する人を一生失わない人間はいません。)、という尾角さんの覚悟が見えます。そこには、「失ったことを乗り越える」という「健常」への偏向や「異常」への拒絶に自分の感情を委ねることなく、その大切な人やものを失うことも含めて、人生を丸ごと愛そうとする覚悟が見えます。「風邪が治る」ようにdepressionからの脱却を「回復」と呼ぶのであれば、大切なことを忘れやすいほどに「心の健康」を維持できることになってしまいます。もちろん、それは事実としてはそうなのでしょうが、「心の健康」を保つ人が正しく、保てない人が正しくないわけでは決してありません。自らの罪を、喪失を抱えて生きざるをえない人間と、それを忘れて生きられる人間と、どちらが人間らしいと言えるのか。僕は前者であると思います。
優しいからこそ、大切な人やものの喪失に深く傷ついている人々にとって、そのような罪や傷を抱えながらも生きている尾角さんの存在は、一つの福音であると思います。もちろん、それがモデルケースではありません。一人一人、罪や傷を抱えながら生きていく、ということはそんなに簡単にまねのできるものではありません。あるいは、尾角さん自身、ここからどうなるかもわかりません。すべての「これをきっかけに私は生きる勇気が出てきました!」という気づきは、そのような気づきにその人自身の心が既に準備されているが故に起きるものです。それは、きっかけをもらうのではなく、何かをきっかけと自ら主体的に見なしているだけですし、そのようなきっかけをこの本に求めても、無駄でしょう。しかし、自分の罪や傷を抱えて生きるために、様々なきっかけを主体的に見いだしている尾角光美という一人の人間の言葉は、外から押し付けられる心ないきっかけを排除し続ける人々にもまた、「他から与えられるきっかけが嘘くさいものだからといって、自分自身が人生を肯定することを諦める理由にはならない。」という一つの灯をともしてくれる、そのような本であると思います。
人間らしく生き続けるのは、難しいことです。ドストエフスキーが『悪霊』で描いたように、キリスト教にもし深い部分があるのだとしたら、それは、罪の自覚を強制されない立場にあるものが、それでもなお、自らの罪を自覚することの中にあるのだと思います。しかし、『悪霊』のスタヴローギンがそうなるように、人間にはそれに耐えるだけの強さがありません。誰かの責めには抗することができても、自分の良心の責めに耐えることはできません。だからこそ、歴史の上でも様々な暴露や革命が可能であったのでしょうが、一人一人の運命を考えるときには、自らの犯してきた罪への深い悔恨という人間性の回復は、その人間の社会生活を困難にしていくでしょう。端的に言えば、自らに対して深い反省をもつような生きるに値する人間こそが、生き続けにくいのです。僕の塾もまた、少しでもそのような人々の支えになれるよう、引き続き努力していきたいと思います。
アマゾンからも買えますので、興味を持たれた方は是非読んでみていただけると嬉しいです。



