嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

Facebookの運ぶもの。T君の死に。

先日、僕の中高の同級生で、長年テニス部でのダブルスのパートナーでもあったT君が亡くなったとの
知らせをもらいました。昨年も中1から仲の良かった同級生を亡くしていたので、立て続けでこのような知らせを
もらい、本当に考えさせられました。

僕はfacebookというものが、率直に言って嫌いです。なぜ、他の人の(かわいいお子さんとの心温まるエピソードなど)幸せを見せつけられなければならないのか。いやいや、嫉妬ではありません。僕も傍から見れば、家庭を作っていて、子供も二人います。また、自分で始めた事業もそこそこ(一人一人の受験生の合否についてはまだ思いのままにはいっていないものの、経営としては)順調にいっている方でしょう。しかし、だからといってそんなことを他の人が読めるところに垂れ流せば、たとえば事情があって子供を持てない人にとっては辛いものでしょう。あるいは、様々なことでうまくいっていない人にとっては、やり取りをすることもまた辛いのではないでしょうか。それを考えれば、あそこでの「交流」というもの自体が何か不気味なもの、有無を言わさぬ暴力的なものを前提としていて、それらへの反論は許されないように感じています。もちろん異業種の人と交流するという意味では良いのだろうし、僕も読んでいてい勉強になることは多いのですが、しかし、容易にはつぶやけません。優しさの媒介とならない言葉を他の人に投げかけるほどに、僕は鈍くはなりたくないと思っています。

しかし、facebookは死や不幸をも伝えます。もちろん、もうすぐ40歳になろうとしている僕たちの年代でぽつりぽつりと重い病気を抱えたり死に直面する人が出てくるのは確率的には当然のことです。しかし、それが自分にだけはおこらないと人間はつい思いがちであるのと同様に、自分が近しくしていた人たちにはおこらないのではないかとつい期待して生きてしまっている訳です。しかし、現実は、残酷です。

T君に関して言えば、僕は今でこそ自分の考えに基づいて何ら遠慮もしないかのように生きている訳ですが、
小学生や中学生のときはどこかあきらめていました。様々な可能性を考えていけばいくほどに、何が正しさかということが余計にわからずに五里霧中になってしまうわけですが、そのように考えていることで結局行動に移さない自分を正当化する、という非常に弱々しい態度の子供でした。自分の倫理観に基づき、言うべきことをはっきりと言っていくT君はそんな僕にとって、本当に眩しい存在でした。自分がおかしいと思うことを声に出す勇気、というものを今の僕が少しでも持ち合わせているとしたら、それはT君のそのような姿勢に感化され、自分もそのようでなければならないと自分自身を教育してきたからです。

もちろん、正義のために怒る瞬間には、必ずその思考の射程に限界を作らねばなりません。正義のために怒ることを
準備しないすべての思考が無益なものであるのと同様に、ある正義のために怒り続けてはその正義が本当に正義たりうるかについて考えないすべての怒りもまた、暴力へと堕していきます。

しかし。僕は思うのです。知性、という不誠実なものがきわめて肥大化しているがゆえに、どんなときにも考えることができてしまう僕にとって、T君のような正義感は、畏敬の念をもって僕が常に襟を正すべきものであるということを。魯迅の『小さな出来事』という小作品がありますが、あの魯迅の痛切な反省を、僕は中学生のときにT君と接して思い知らされたように思っています。

知性というものが、どれほど不誠実なものであるかを知り尽くした僕が、その誰よりも知性的であるが故に
誰よりも不誠実である僕の知性を、誠実な人たちが力と場所とを得るために骨身を惜しまず費やそう、というのが
嚮心塾という場であるのです。物理屋さんが「時間のきつい入試には判断力が問われる」というお話をされていて
本当にそれは僕も深く同意するところであるのですが、「知性」というものが「今ここにないものを考える力」「誰かからリクエストされたものを無視しては、なぜそのようなリクエストがなされるのかを考える力」である以上、
それは不誠実さでもあるのです。僕は子供たちに限らず、すべての人間がもっと知性を鍛えるべきだと思いますが、それと共に、自分の知性を誇るすべての人間を軽蔑しています。

「判断ができる」ということは、自分をあらゆるものから切り離している、ということであるのです。
それは自己を親にも家族にも友達にも会社にももちろん国家や宗教にも投影しないという意味で、きわめて不誠実です。しかし、その不誠実さが、過ちを犯さないためには、あまりにも必要であるのもまた事実です。
近くは制限時間のきつい入試に失敗せずに合格するために。あるいは、人生を最後まで生き抜くために。あるいは、
経済政策だけが争点かのように扱われた衆院選や参院選の際に、特定秘密保護法のような改憲への動きを見抜くために。あそこで自民党に投票した人に、昨日の強行採決を批判する資格はありません。あのときから、こうなることはわかっていたではありませんか。

知性が足りない。判断力が足りない。

それを、塾生たちにも日々感じています。人生の残酷さへの用意が、考慮が、あまりにもなさすぎる。
誠実な彼らを、不誠実な僕が知恵を出すことで、少しでもこの知性という不誠実な力を鍛えられればと思っています。
不誠実な僕に誠実さを体現してくれたT君への、T君自身へは決してできないままに終わってしまった、恩返しという意味も込めて。

facebookはリア充な日々だけでなく、死をも運びます。それは少しはこのメディアが成熟してきた現れでもあるのでしょう。どんなに辛いこととはいえ、それはリア充な日々を運ぶだけよりも、遥かに健全なことであると思っています。
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