嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第9号

4年前のW杯直後に書いた文章です。この4年で、何が変わったのか、あるいは何も変わっていないのかはもうすぐ結果が出るのかもしれません。4年前のヒデの個性への反省に基づいて築き上げられてきた現在のサッカー日本代表チームが、今度は本田という個性に頼らざるを得ないのは、喜劇なのでしょうか、悲劇なのでしょうか。今度こそは、惨敗したとしても、本田のせいにしてはならないと思います。



第9回 サッカー日本代表を強くする方法。

 強豪国が勝ち残り、盛り上がったサッカーのワールドカップも終わりました。予選リーグで敗退した日本代表には、「情けない」「ジーコの采配がだめだった。」「ヒデがかわいそう」「もともと過剰な期待をメディアがあおったのがまずい」などと、様々な意見が飛び交っています。「これからの日本代表を強くするにはどうしたらよいか」などとスポーツ番組や雑誌などでも議論がかまびすしいようです。そこで、我が嚮心塾通信もこれに便乗して(かなり乗り遅れてはいますが)サッカー日本代表を強くするためのアイディアを二つ考えてみました。日本サッカー協会の方、とっておきのアイディアです。どちらを採用していただいても、アイディア料はとりませんので、遠慮なく使ってくださいね。

①「日本人」を増やす。
 さて、まず手っ取り早いのは、「日本人」を増やすことです。具体的には、日本に住みながら外国人扱いされてしまっている在日朝鮮人の人たちに、日本国籍も自由に選べるようにしていくのがまず初めでしょう。もちろん、日本か韓国・北朝鮮かどちらかを選べというのは彼らを痛めつけ、無理矢理こちらに連れてきて働かせておきながらそのような選択肢を迫るという自体が相手の意志を踏みにじることに他ならないのですから、二重国籍を認めてみてはどうでしょうか。もちろん、二重国籍を認めようと、「こんな軽々しく自らの罪を否定する日本という国の代表になどなりたくなんかない」と思われるのは当然です。ですから、しっかりと旧来の日本人が自らの罪を自覚した上で、「日本国民になりたいな。」と思ってもらえるような国にして行かねばなりません。単に「日本人になって日本代表になった方がもうかるぞ。」という選択肢を提供するのではなく、心底納得して、日本の国籍も持ちたいな、自分が両者の架け橋になれるといいな、などと思ってもらえるようにして行けば自然と日本代表も強くなるでしょう。

 それにとどまらず、日本は移民の流入を厳しく制限し、政治的難民ですら本国に送り返す(即ちそれは彼らの本国での逮捕・処刑を意味します)国として世界で悪名が高いのですから、この際、日本に入りたい外国の人は誰でも入れるようにし、ある程度の居住年数がたったら、希望者には日本国籍をさしあげるというのも良いのではないでしょうか。もちろん、94年のラモス瑠偉、98年の呂比須ワグナー、02年の三都主アレッサンドロのように、ワールドカップ前に日本代表に欲しい選手には、ポンっと簡単に日本国籍を与えておきながら、他の移入希望者は排除するというのでは、「あそこは本当に自分たちのことしか考えない国だから」と嫌われるのは当然です。そのような国のままでは、代表選手になることをしりごみする心ある選手も多いでしょう。ですから、どんな国からの移民希望者もあまねく受け入れて行かねばなりません。もちろん、それは犯罪やテロの増加、国民の間の格差による対立など新たな問題を招くでしょう。フランスのように。しかし、それでもそのような道を選ぶことで日本代表が強くなることは間違いありません。これもまた、フランスが良い例です。
 他にも、貧困や内戦、伝染病に苦しむアフリカからまとめて何十万人規模で移民(難民)を受け入れ、彼らのうち希望者には日本人としての国籍をさしあげて彼らがこの社会の中で生きていけるようにしていくというのも良いと思います。そうすれば、アフリカにいるままでは近い死を待つしかなかった彼らも日本人として生きることができるでしょう。そのようにして彼らのために尽くすことができれば、身体能力の高いアフリカの人々が日本代表に入ることでチームも強くなるでしょうし、またそのようにして彼らのために努力した日本という国の代表になることは彼らにとってもうれしいことと思ってもらえるようになるかもしれません。
 いずれにせよこの作戦には、日本という国が、各地域の選手が日本代表になりたいと思えるような国であることが不可欠です。アメリカの腰巾着、何を考えているかわからない国、金儲けだけはうまい国、アニメとマンガとゲームの国、自殺者が年間3万人以上いる国、近隣の人々の感情など何も考えない国、そういった国の代表に誰がなりたいと思うでしょうか。僕ならごめんです。世界中のスーパースターがこぞって、「日本のような国の代表になりたい。」と思ってもらえるような国にしていかなければ、この作戦はうまくいきません。

②サッカーを学ぶ。
「そんなの、日本代表じゃない。」という方、あるいはそうでなくても、「それはいいとこどりであり、自分たちで人を育てるという視点に欠けている」という批判をもつ方には、二つ目の作戦はいかがでしょうか。
 二つ目の作戦は、学校で勉強を教えるのを止めて、全てサッカーに必要なことのみを教えるというものです。戦術・技術から、体力トレーニング、海外のリーグで活躍するときのための語学のみを教えます。数学も国語も社会も、サッカー選手になるのに必要なだけ以外は教えません。大学の試験も入社試験も全て、サッカーで決めます。
 そんなことをしなくても、サッカーの専門学校やサッカーの大学をつくればいいではないか、と考えるあなた、甘いです。そのようなコースを作ろうと、現在元Jリーガーの何割が引退後もサッカーだけで生活できているというのでしょうか。この社会はサッカーに冷淡すぎます。そこで、何の役に立つのかわからない受験勉強など全て止めて、サッカーの実力だけでどの会社でも出世が決まるようにしてみるのです。役人もそれに準じて、中央官庁には入れるのはイタリアやスペイン、イングランドリーグで一軍で活躍した人だけ、とか、Jリーガーは都道府県庁までとか、国会議員になるには5年以上のプロの経験が必要という風にするのはどうでしょうか。このようにしてしまえば、女性や老人に対する差別が強化されることになってしまうという欠点もあるので、女性リーグ、子供リーグ、シニアリーグも国内でたくさん作り、そこでの成績でどの国民でも政治に参加する資格や職を得られるようにするのが良いでしょう。
 これなら、もちろん色々と大切なものは失うでしょうが、確実にサッカー日本代表は確実に強くなるでしょう。みんな死にものぐるいで、命がけで、サッカーをやります。サッカー以外に生きていく道がないのですから。ブラジルのサッカーが強いのは、サッカー選手になる以外の豊かになる道が少ないことがやはり大きな理由なのですから、このようにすれば日本代表がブラジル代表より強くなる可能性だってあるでしょう。
そうそう、忘れていました。この作戦の効果を増すためには、今のままの裕福な日本ではだめでした。裕福なままでは、いくらサッカーのみを立身出世の道具と定めようと、それを求めるハングリーさを欠いてしまっているのですから、効果は半減です。ですから、現在の日本の冨は全て貧困国に寄付するなりして一度貧乏になることがより一層、この作戦の効果を高めます。

③まとめ
 どちらの案も、確実に日本代表が強くなること、間違いなしです。もしこの通りに実行して日本代表が強くならなかったら、僕が責任を全て負います。サッカー協会のみなさん、早い者勝ちですよ。
 といっても、このような提案は、サッカー協会の枠を越えているのでしょうね。しかし、①に示したように、それが何の代表であれ、日本代表をよくするには、日本をよくするより他にありません。日本代表は私達の姿を映す鏡です。私達がこの小さな島国にこもって他の人達を排除した上で排他的な特権を受けている以上、日本代表だってその中からの代表に過ぎないのですから。それをせずに、小手先の手段で何かを変えうるなどと思うことが問題です。
 また、②に示したように何を「良い」とするのか、という問題もあります。サッカー日本代表を強くするのに、②の策までやろうと思うサッカーファンはいないでしょう。そんなにサッカーが人生の主要な目的ではないのでしたら、関わらないで黙って自分の取り組むべきことをやっていればよいのです。
 目立ちたがる人間を身の周りでは徹底的にいじめ抜きながら、「日本のフォワードは決定力がない」などと言うその自己矛盾に気づけるのであれば、このようなことを話し合うのも決して無駄ではないのですが、このように自らの本質とは何らかかわりのないことについての議論はむしろ、自らの自己矛盾をひたすらに避け、自らのちっぽけな自己主張をどこまでも押し通そうとする形にしか成りません。
 
 ①のように考えを進めるとき、私達は「サッカー日本代表を強くする」というテーマを通じて、自分たちが今、何を損ない、どのような狭い価値観の中で生きているのかを反省することができます。このようにして、「サッカー」に取り組むのであれば、サッカーもまた自分たちにとっての外界を開く窓となり得ます。それは即ち、真理の探究を通じて、自分たちが今それに拠っている慣習や制度の恣意性へと思いをめぐらす、ソシュールやルソーの歩いた道です。
 また、②のように考えを進めるとき、私達の内で、「果たしてサッカーはそんなに私達にとって大切なものなのか。」という疑問が生じてきます。それはまた、現在私達がサッカーの代わりに採用している「勉強」もまた、果たしてこれによって人間を判断することが妥当なのかどうか、疑問を生じさせる場合もあるでしょう。人間の評価を何らかの基準で一元的に決めるときに、その基準をサッカーに取るのに違和感を感じるのであれば、今我々の用いている「勉強」に取ることは本当に正しいと言えるのか、そのような問いかけを、この探究は喚び起こします。

 問題は、「サッカー日本代表を強くする方法」という些末なことを議論するその日本人の暇さにのみあるのではありません。どんな些末なことであろうと、それをつきつめていけば、必ずや我々の今抱えている問題を照らし出す光となるはずであるのです。サッカーや野球や囲碁や将棋が、それが余暇をつぶすために生まれたものであろうと、その探究から人は、この世界を感じることができます。逆に、どんなに政治や教育や経済や福祉や平和を語ろうと、そのようにつきつめていく姿勢がなければ、それは一つのイデオロギー、即ち、議論の余地のない硬直的な押しつけによるちっぽけな自己主張にしかなりません。その突き詰めていく姿勢が、日本人にはほぼ絶望的にできていない。(それは、政治家や学者の議論を見れば一目瞭然ではありますが、別に政治家や学者だけではありません。)それこそが本当に根の深い問題であるのだと思います。
 
 そのような突き詰めていく姿勢のために必要なのは、知性ではなく、「孤立を恐れぬ心」です。正しいことよりも目の前の人とのつきあいを優先することで、一体私達がどれほどの失敗を繰り返してしまっているのか、今もまた、日々の業務や人間関係の中で繰り返しつつあるのか。
 
 どのようなテーマもまた、「部屋」の中にいる今の私達を自覚し、反省するための「窓」になりうるのです。「窓」は、常に私達に開かれています。しかしそれに気づくだけでは不十分です。マグリットが批判したように、「窓」から見える景色を「美しい虜(The fair captive)」として、自分の部屋の内に写し取るのではなく、窓から見える景色のその美しさのために、自分の部屋を出ていく、その一歩こそが、議論のためにも、そしてひどい過ちを繰り返さないためにも、大切であるのだと思います。美しさを自分のために用いるのではなく、美しさのために自分を用いると言えばよいのでしょうか。そのような姿勢こそが、突き詰めていく、ということであるのだと思います。
                               2006年8月26日
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