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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

生き永らえることとは。

僕自身に生きる意味や目的などは、もうとうに摩りきれてなくなってしまっているわけですが、
それでも「生きねば」と思う瞬間とはやはり、この世界に僕に出来ることがまだまだたくさんあると
感じる瞬間です。僕でなければ出来ないことを感じる瞬間、と言い換えてもよいでしょう。

僕には人生を謳歌することは無理だし、自分のしていることに誇りをもつことも難しい。
そもそも好きなことなど、生まれてこの方ありません。それを幸福と取るか、不幸ととるかは別として
僕には没頭できる何かはありませんでした。これからもないでしょう。それは様々なものを深くくみ取らないのとは別なのです。何かをどんなに深く汲み取ろうとも、それは目的にはならない。
その深みを目的にするのは、実存を前提としているという意味で欺瞞でしかないからです。
ベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』は、人類に向けてのこの上ない贈り物であり、また厳しい提言であるのでしょうが、あの提言の厳しさに、人類は耐えられない。あるいは、耐えるためには、何かしらの欺瞞を導入しなければなりません。そして、僕にはその欺瞞は耐え難いのです。

というように、僕の人生はもう既に終わっているも同然なのです。あるいは、より的確に(そして森有正風に)表現すれば22,3の時に僕の人生を終わり始めさせることを決意してから、この13,4年間の間でさらに終わっていったのです。

ただ、それでもなお、やらねばならないことは残っています。それも、大量に。
塾に通ってくれる一人一人の塾生、あるいは通うことは出来ないけれども僕を頼りにしてくれる
元塾生達に、少しでも力にならねばなりません。その意味では、誰に対しても力になりたいと思いながらも、
それと同時に、僕自身が彼ら、彼女らに生かされているというところがあるのだと思います。
そのことに対して、どんなに厄介に思うことがあろうとも、深く感謝もしていかねばなりません。

世界中の誰にも肯定されなくても、誰か一人の力になることができる以上は、生きねばならない。

その厳しすぎる要請に日々押しつぶされそうになりながら、それでもなお生きる全ての人に、心からのエールを送りたいと思います。
人生は、即ち生命に課せられた運命とは、あまりにも残酷であるが故に、美しいのですから。

まあ、お互いに、できるとこまで頑張りましょう。
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