嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

教育再生実行会議の「人物本意の選抜案」に関して②

前回は、教育再生実行会議の「人物本位の選抜案」が、いかに実行不可能か、あるいはそれを実行可能にするためには結局さらなる厳しい学力の選抜か、機会の剥奪によって再チャレンジを許さない社会になっていくことを書きました。今回は、そのような実現可能性の話ではなく、そもそも面接試験で「人物本位の選抜」をするとどうなるのか。それは本当に「受験エリートではない、多様な人材」を選抜することにつながるのか、についての僕の考えを書きたいと思います。

まずは話題になった秋田大学医学部での面接入試で0点になった例についての記事をご紹介しましょう。この記事です。
この記事にあるように、現在ほぼどこでも面接を課している医学部入試では、面接によって高卒認定試験を受けた受験生や再受験生が面接によって差別をされるということはよくあるようです。実際に塾でもそのような受験生には志望校を慎重に選ぶように、というのも具体的には、面接というむこうのさじ加減でいくらでも合否を調節出来てしまう制度に配点を高くしている大学を受験させないようにそのような受験生には指導しています。

年齢による差別はまだ「国立大学では税金を使って医者を養成するのだから、実働年数が明らかに低くなる学生を取るのはよくない。」などというそれなりの大義名分が立ちそうです。(もちろんこれもおかしな話で、そもそもこれだけ異常に難しくなっている国公立大学医学部入試に現役で合格するなど、一部のきわめて賢い子を除けば、中1から塾や予備校漬けの「受験サイボーグ」しかいないと思うのですが。その子達は医師になることに何らかのやりがいや使命感を感じているからではなく、ただ単に「食っていける(と思われる)職業であるから」そこを選ぶわけです。そのような子と、紆余曲折を経て再受験で医師を目指す子とどちらが社会にとって有り難いかは年齢だけでは一概に判断できるものではないと思いますが。)しかし、この秋田大学の医学部での面接で前期後期とも0点になった子は高卒認定試験を受けているとはいえ、現役生と同じ年齢であったため、そのような年齢による差別ですらありません。推測するに、単純に「高卒認定試験」というだけで、「社会性がない」と判断されたのでしょう(もちろん面接での受け答えもこの記事だけからは全容がわかるわけではありません。しかし、医学部の面接はどこの大学でも基本的にこのようなあまり大した内容でない質疑応答が多いです。それだけで200点の面接点を0点にするだけの大きなエラーを受験生がおかしたとは考えにくいと思います。)。

まあしかし、こうした事例は氷山の一角です。実際に医学部受験生を抱えていると様々な理不尽な話があります。
そのたびに、結局思うことは「面接試験」というのが一種の思想統制、あるいは同質性の確保のために使われているという現状の恐ろしさです。

これはしかし、考えてみれば当たり前のことで、人間という者は自分の価値観に近い者に当然共感を覚えます。
逆に、自分の価値観から遠い者については、よほど明白にその人のすごさが伝わらない限りは、あるいは伝わったとしても、拒絶する対象となるのではないでしょうか。たとえば大学入試で言えば、若くても40代の、しかもそこまでに研究なりなんなりで(最低限は)研鑽を積んできた大学の先生を、その先生の価値観とは違うとしても、しかし明白に素晴らしいものを持っているので、合格させてもらえる20才前後の受験生など、一体何%いるというのでしょうか。面接試験というのは、簡単に言えば、既にestablishmentである層が、自分と同じタイプの若者しか認めないためのシステムであり、有害でしかないと僕は思っています。

「有害」と言いました。これは言葉を換えれば、「入学者の多様性を阻害する」ということです。教育再生実行会議の提言として、「面接による人物評価は受験エリートだけでなく(ボランティアや部活動に積極的であるなど)多様な入学者を認めることになる。」ということらしいですが、所詮は面接官によって自らが共感しうるタイプだけが入学を認められるという点では、入学者の多様性はどんどん先細っていきます。逆に学力試験のみであれば、
もちろんその学力試験を通る学力は必要となるわけですが、それ以外の面では「面接」という思想統制がない以上、きわめて多様な入学者がいます。勉強だけをやってきた人、勉強以外にも様々なことをやってきた人などさまざまです。そこでお互いが互いの価値観の相違を認め、自分にはない価値観を持つ同級生から学ぶということができると思います。点数だけで決まるのであれば、もちろん再受験生や高卒認定試験を経て合格する同級生もいます。何も考えずにとりあえず勉強してきた自分に引き比べて、自分の目的をかなえるために学費から自分で働いて捻出してきた再受験生と机を並べて勉強してくる子、あるいは自分が何も疑いなく過ごしてきた高校生活に疑問を感じたり違和感を感じて、それはやめたものの、しかし将来のキャリア形成のために自分で勉強して大学に入ってきた高卒認定試験生など、様々な道を歩んできた同級生から学ぶことができるのは、自らの価値観を揺らされ、見つめ直すことの出来る、かけがえがない学生生活でしょう。そのような貴重な機会をアホな教授による面接試験によって奪われている時点で、僕は秋田大学の医学部の学生を本当に可哀想だと思います(もちろん、不合格にされた受験生本人が一番可哀想です。しかし、その子は勉強も出来るでしょうから、そんなアホ医学部など行かなければいいだけです。入ってしまったらむしろ苦しんだことでしょう)。

まあしかし、秋田大学の医学部の教授が特にアホだというわけではないのです。他の大学の医学部の教授もまあ似たような者でしょうし、別にそれは医学部に限らず、他の学部の教授もそうでしょう。あるいは大学教授といわず、高校の先生であればなんであれ、やはりそうでしょう。もちろん、僕も例外ではありません。
人間というのは愚かであるが故に、自分が共感を持てるような人物を高く評価しがちであり、他のありよう、他の生き方、他の価値観については実際に突きつけられ、そのようなものと共存しなければならないという極限状況に置かれて初めて、真剣に考えるわけで、「自由に選んで良いですよ。」と言われれば、自分と似ているだけのものを「これがベストだ!」と意気揚々と選ぶものです。面接試験なんて僕は本質的にはそういうものだと思いますし、もちろんそのような人間の愚かしさに警戒心を持ち続けられるようなきわめて賢い人がたまたま大学教授にはたくさんいて、その人達だけで入試業務をやってもらえる、というようなことがあるとしたら最高なのですが、そんな期待をするのは夢物語であると思います。
だから、学生の多様性を確保するためには、面接で選ぶくらいならむしろまだくじ引きの方がましだと思います。一定の学力基準を超えた人の中で抽選で選ぶとかはどうでしょう。

もちろん、就職の際にはやはり面接があるというか、面接ばかりなわけで、「大学だけ面接をしないのはおかしい!」という主張も一理あります。しかし、現在の日本社会に於いて、どこの大学を出たかは、一生履歴書に書き続けねばならないものです。簡単に言えば、ある会社でのキャリアが終わり、別の会社に行くときも絶えずつきまとってくる者であるわけです。そのような一生を通じた資格証明である大卒の学歴が、面接官の教授の価値観に類似したものかどうかで左右されてしまう、ということでもう、多様な人材を社会が活用できるかどうかが大きく変わってしまうのではないでしょうか。能力や熱意があっても、ある場所に於いては人間関係や周りとの理念の違いによって活躍できなかった人が、再チャレンジを許されるかどうかのその資格証明としての大卒の資格が、そのように審査する側の価値観によって狭く限定されてしまっているとしたら、今以上に人材のミスマッチが起きざるを得ないのではないでしょうか。僕は、そのような社会を許したくはありません。

面接によって「多様な人物を評価できる」という考え自体が妄想です。それは、自らが拠り所にし、人生を懸けてきた価値観を「これもまた真理への漸近の一つの道に過ぎない」と客観的に判断できる、人間離れした知性の持ち主が面接官であって初めて可能なことだと思います。

もちろん、学力にとらわれずに我々が神のごとく、そのような的確な判断ができれば、それに越したことはありません。しかし、それが全くできていないことぐらいは、いい加減気づきませんか。少なくとも、大学関係者の皆さんには、氷山の一角にすぎない去年の秋田大の記事を見るにつけて、そう言いたくもなります。
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