嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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教育再生実行会議の「人物本位の選抜」案に関して①

このような妄言であっても、反論をしていかないとそれが通ってしまうのが悲しいところですので、このような制度にしたときに考えられる問題点を挙げて批判していきたいと思います。

①問題その一。面接に手間がかかりすぎる。
たとえば、わかりやすいので東京大学を例にとりますが、東京大学では第一段階選抜で約一万人を残し、その受験生達に2次試験を課しています。たとえば一万人に面接試験をするとなると、どれくらい時間がかかるのでしょうか。一人10分で10万分、1666時間に当たるわけで、これは面接官のチームを10チーム(30人)くらい作るとして、166時間、一日8時間やるとして17日かかります。半月ですね。さらにはそこでの面接の結果を考慮して、合否判定までを考えれば、ほぼ一ヶ月を入試に費やすことになります。学部生や院生の指導も含めて、大学教員にそのような時間があるのでしょうか。ましてや明治大学や早稲田大学のような受験者数であれば、最低でも入試を受験してから合否が出るまで二ヶ月かそこらがかかるのではないでしょうか。

受験生の側から見れば、大学の併願がしにくくなります。なぜって、試験を受けて早くても一ヶ月後に合否が分かる大学ばかりなのですから。合否が分かってから普通は、入学手続きの期間は2週間くらいです。ここは、経営戦略上、入学者数の確定を急ぎたい大学側は長く待つということが難しいでしょう。現在でも早く合格のわかった大学に押さえとして、捨てるお金になることを覚悟して入学金を振り込む、という自体がありますが、これが長期にわたり、様々な大学をおさえるために入学金をあちこちに振り込む、ということになれば、経済的な格差が学歴格差にさらにつながり、貧富の差の再生産につながるでしょう。

②問題その二。さらに学力重視になるという矛盾が生じる。
上に書いたように、面接をこの人数に対して、どこの大学でも行うことはほぼ不可能だと思います。だとしたら、「面接による人物本位の選抜」という建前を守るためにはどうしたらよいか。簡単です。面接を受けられる人数を減らせばよいわけです。具体的には先の東大の例で行けば、現在の第一段階選抜のラインは大体例年センター試験で80%の得点率ですが、これを90%にあげれば人数も減りますし、面接をすることも現実味を帯びてきます。もちろん、センター試験は廃止にする意向でしょうから、大学入試の新テストにて、それだけのランクをとっていなければ、東大は受けられない、とすればよいのです。これで「面接の膨大な手間」は防げます!

しかし、これは「人物本位の選抜」になっていると言えるのでしょうか。また、「1点を争う競争をやめよう!」というからには大学入試の新テストはおそらく現行のセンター試験よりもおおざっぱなランク分けになるはずで、そのおおざっぱなランク分けで現在のセンター試験90%の得点率以上のランクを作るって可能なのでしょうか。それって受験生人口の何%になるのでしょう。

このように、面接試験が(それを通じて大学の教授が受験生の人物評価が出来る能力があるかどうか、という根本的な問題はひとまず棚に上げたとしても)手間と時間が膨大にかかることを考えれば、一人一人の受験生に現在のような受験の自由を確保することは出来ないからこそ、併願の禁止、あるいは要件とされる学力の厳格化によって、ようやく可能になる以上、「人物本位の選抜」は難しくなります。受験資格を得る学力的な要件を今よりもはるかに厳しくしておいて、その上で面接試験を行うことにより、「(建前上は)人物本位の選抜をしております。」という事態になってしまうのではないでしょうか。

③問題その三。最悪の道。「滑り台社会」の早期化。
実は②のように、現行のセンター試験以上の細かいランク分けと大学入試の新テストにおける高い学力要件を課さないでも、大学入試の面接人数を減らすことができる道があります。そしてそれこそが最悪の道だと僕は思っています。それは、現在の案では大学の一般入試に関わらないとされる導入予定の「高校での基礎学力テスト」もまた、大学入試の新テスト以外の要件としていく、ということです。即ち、新テストで最高ランクであるだけでなく、高2時点での基礎学力テストも最高ランクであることを要件にする、あるいは高1にもその基礎学力テストを導入して、それも最高ランクであることを要件にする、というように前倒しに受験資格審査を増やせば、当然全て最高ランクである人数は絞られるわけで、その人数に関しては面接試験は可能であるでしょう。

しかし、それを許容すれば、そもそもどこかの時点で勉強から離れればその取り返しが一生つかない、という社会にこの社会を変えてしまうことになります。日本の社会は一度レールから外れるとなかなか社会復帰の出来ない「滑り台社会」であるということが批判されるわけです。大卒かどうかでいわれなき多くの差別を受ける、それですらも理不尽なわけですが、そもそもそのように前倒しによい成績をキープできなければ、15才、あるいは16才時点で一生のレールが決まってしまうことになります。そこまでの自分の努力の足り無さに後悔を覚え、やり直したいと思っても、そのように大学入試の要件が前倒しになればなるほどに、努力によっては覆せない烙印が一人一人の若者に押されてしまうわけです。

もちろん、再チャレンジの可能性が若い内に摘まれてしまう社会は、犯罪率もあがるでしょうし、不安定な社会となるでしょう。しかし、「やり直し」を応援する嚮心塾としてはそれ以上のことを声を大にして言いたいのです。挫折を知らないエリートなど、何の役にも立たないのだということを。学び直す必要を感じている人間から、その機会(当然これはその後の職業人としてのキャリア形成と結びついていなければ無意味です。裕福な人間の教養主義しか満たせないものは、教育機関ではない。)を奪うことほどに愚かしいことはありません。

まあまあ、冷静になって考えてみても、高2や高1のときから成績の良い奴って、だいたい嫌な奴が多くなかったですか?「一点を争う競争は無意味だ」と言いますが、「部活もボランティアも生徒会もやって成績もいい」程度の成績でよい、という考えは非常に残酷だと思います。塾では高2まで、あるいは高3の夏まで部活やその他の活動に打ち込み、そこから慌てて勉強をするという受験生が山ほどいます。現行の入試は、そのような子達も残りの時間の頑張り次第で何とか逆転が可能なものです。それを選抜のための要件を早期化すればするほどに、「中高一貫の私立で中一から大学入試目指して予備校に通ってます。」という生徒ほどに有利になってしまいます。それは果たして、「人物本位の選抜を促す」ことになっているのでしょうか。逆に勉強ばかりの子が多くなるのではないかと思います。

批判ばかりでは仕方がないので「では僕が教育制度を改革するとしたらどうするか」もいずれ書きたいとは思うのですが、まあしかし、ざっと考えてみても、これだけのつっこみどころがあるものがさらりと政府の諮問会議の結論として出てきてしまう辺りに、危機感を感じてしまいます。経過を注視していきたいと思います。

(補足1)反論として、「あらゆることを頑張りながら、早い時期から勉強も出来る子もいる。」という意見もあるかもしれません。しかし、それはあくまできわめて優秀な層です。僕自身もそうでしたが、それはどんな制度になろうと合格できる子達です。しかし、そのような子は(我が子や教え子にそうであってほしいという親御さんや高校教師の願望に反して)きわめて少ないという事実はふまえた上で制度設計をしていかねばなりません。

(補足2)「そのような学力に頼らない判断をするために面接をするのだ。」という批判に対しては、学力試験をせずに面接だけで合格者を決めねばならない大学教員の不安を考えてもらいたいと思います。やはり一定のレベルの学力がなければ、そもそも大学の講義が成り立たないわけです。ある程度その学生の学力レベルがそろっていれば、それが高かろうと低かろうと、それに合わせて対策を練ることが出来ます。しかし、もしそれがバラバラであれば、そもそも大学教員の個人的な努力だけではそのバラバラなレベルの学生に教育効果を発揮することは出来ないでしょう。だとすれば、面接をするとしても「一定の学力水準」を受験生に求めるのは当然でしょうし、それが大学入試の新テスト、あるいは高校での基礎学力テストというおおざっぱな判断基準に頼らざるを得ないのだとしたら、ますますそれを厳格に適用するしかなくなるでしょう。ある意味で、「面接重視型」の入試をしろ、というのは「どんなレベルの学生がきても鍛えろ!」ということであり、それは今までの大学教員には求められていなかったスキルです(まあ、嚮心塾ではそんな仕事ばかりですが)。当然、少しでも学生の学力の幅を限定したいが為に、新テストの基準に過度に依存することが起きるでしょう。
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