嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ある日の塾の風景から

先日、塾で教えていて、うれしいやり取りがありました。それは、このような会話から始まりました。

Y君:先生、問題集で数学の復習が終わったんですけど、次は大学の過去問に入ればいいですか?
僕:(やる気なさそうに)うん。そうだね。
Y君:どこの大学の過去問をやったらいいですか?
僕:(いいかげんに)どこでもいいよ~
Y君:え!?どこでも、ですか?
僕:うん。どこでもいいよ~
Y君:(渋々と)わかりました…

という(僕のいいかげんな返答に彼が不服そうに下がった)やりとりの後、しばらくして、またY君が
僕のところに来て、もう一度聞いてくれました。

Y君:先生、さっきの「どこでもいいよ」というのは、「今の僕の力が総合的にどうであるかは実際に過去問を解いてみなければわからないから、どこか実際に解いてみて、そのでき具合、あるいはできなさ具合を判断してその大学の過去問を解き続けるかどうかをまた考えていくべきだ、ということですか?」

僕:すばらしい!さっきの「どこでもいい」がその意味だってよく気づいたね!そうなんだよ。そういう意味でどこでもいいって言ったんだよ。だからこそ、まず東大とか京大とかを除いてどこかの大学をやってみたらいい。勝負はそこからだ。そこでできたもの、できてないものを徹底的に分析していくことが大切だよ!

というやりとりになりました。

一見、迂遠なやりとりであり、無駄な時間を受験生に使わせているように思えるかもしれませんが、僕の「どこでもいい」がどういう意味を持つのかを考える力をY君が備えたことは、今までの(本当に真面目であるがしかし、自分で考えるのが苦手なゆえに、つい判断を指導者に委ねがちである)彼からすれば、本当に大きな成長でした。

嚮心塾では、このような指導をしております。というと、語弊がありますね。このようなたくらみを誰に対しても、いつでもしているわけではありません。たとえば僕との信頼関係ができる前にこれをやってしまうと、
「この先生、いいかげんでたよりない!」と生徒に思われて、僕の言葉の意味をよく考えることなく、ただ塾をやめるだけになってしまいます(実際、僕は(ここまであからさまではないものの)塾の体験入塾期間でもけっこうこれをやってしまいます。そのせいで入塾しない子も実に多いです。しかし、それは一種の「入塾テスト」だと思っています。相手の対応の意味を考えられる子か、相手の対応を紋切り型に拒絶することしかできないかの、その子の精神の余白をみている、といえばいいでしょうか。その意味で、きょう心塾の「体験入塾」は親御さんが塾をお金を払って我が子を預けるに足るかを見るテスト期間であるだけでなく、僕がその子に自分自身のだらしなさや情けなさを変える心の準備があるかどうかを見るための入塾試験でもあるのです。自分のattitudeを変えるつもりはなく、成績だけあげてくれ、あるいは大学だけ入れてくれ、という子には、当然その教育にも限界があります。)。

また、そもそもそこを自分で考えに考え抜く姿勢がある子が、それでも他の人の判断も欲しいと思ってそのように聞いてきた場合にこのように突き放すことは、指導者として無責任です。その意味でも一人一人に対して違う対応が求められるだけでなく、その子の発達段階に応じて、つまり同じ受験生であっても月単位、細かいときには週単位で必要な対応の仕方が違います。塾での僕は、ボーッとしているように見えるかもしれませんが、ひたすらにそういうことばかりを考えていて、どういう対応が一人一人の塾生を鍛えるのに今必要とされているかを考えています。もちろん、志望校に合格させるために。さらにはそれにとどまらず、そのあとも自分の頭で考えて勉強できるように。

こういうと、非常にかっこよく終われるのですが、ただ教えるのではなく、このように一人一人の勉強するattitude(態度・姿勢・生き方)からを問い、鍛えていく、ということは非常に難しいことです。おとといのY君とのやりとりはうれしい驚きになり、本当によかったのですが、失敗も本当に多いのです。というより、毎日一人一人に対してとてもたくさんの失敗をしては、それを次にどう取り返していくか、という試行錯誤の毎日です。

勉強だけ教えている方が実は圧倒的に楽ではあるのですが、それをしない理由の一つとしては、そこまでやらねば受からないレベルがある、ということがあります。知識や理解だけ増やせば難関大学に合格できる人間、というのは実はもう既に何らかの選抜を受けているか、あるいはそうでなくても、もともとそれなりに賢い子であると思います。もし、嚮心塾が他の塾よりも塾生の可能性を伸ばせた、という事例があるとしたら(そしてそれはそこそこあると自負しているのですが)、この一人一人のattitudeまで、踏み込んでいく、というところにあると思います。

ただ、これは同時に非常に難しい取り組みになるわけです。小手先の技術や知識を「受験で合格するために」変えることは、ある意味簡単ですし、誰もが進んでやることでしょう。しかし、ここで書いているattitudeは言ってみれば、その子達が18年間、あるいはそれ以上の時間の中で身に付けた思考習慣です。それを疑い、変えるというのは
ある意味で今までの自分の人生を全面的に見直すことになります。それは(大人にとって極めて難しいことはもちろんとして)若い子達にとってもまた極めて難しいことであるようです。

さらに難しいのは、そのように一人一人の生徒のattitudeの傾向を見抜き、限界を指摘するのは指導者としてできるとしても、本当にそれが変わるためにはそのことに本人が自分自身で気づかねばならない、ということです。
こちらからできる指摘も、その本人の気付きを促すものであれば有益ですが、誰でも今までの自分のやり方、考え方の根本を見直すということはしたくないからこそ、そのように的確に指摘することが、逆に今までのその子のattitudeに固執することにつながってしまうこともまた多いのです(この辺は童話の「北風と太陽」を思い出すとわかりやすいかと思います)。これは、ほとんどの人間は、自分自身のattitudeを客観的には評価できず、自分に近しいattitudeの人を肯定的に評価し、自分に遠いattitudeの人を否定的に評価する、という傾向ゆえに、どうしても警戒心をもってしまうことが多いようです。すなわち、自分自身の拠って立つattitudeを指摘されるだけで、たとえその限界、たとえば(近い目標としても)それでは受験に受からないことを説明されても、自分自身の人格の否定のように感じざるを得ないのです。実際に世の中では、異なるattitudeの集団同士は、互いに互いをバカにし、排斥しています。それゆえに警戒心でいっぱいになり、反省を加えることなどできなくなってしまうわけです。だからこそ、その警戒心を解き、僕自身のattitudeを彼ら、彼女らに押し付けようとしているのではないということを深く理解してもらい、信用してもらえた上で、「でも、君はそのattitudeを一生貫いて、本当に後悔しないのかい?」と問いかけていかねばなりません。

ですから、指導者の役割は「一人一人の受験生のattitudeのよいところと悪いところを的確に見抜き、よいところを伸ばす一方で、悪いところに関しては、なんとか直していこうと思い続けながらも、その悪いところを本人に自分で気づかせる契機を何とかして作っていこうとしなければならない。」ということだと思います。「見る」ということに関しては、僕はこの指導歴の20年弱でだいぶ鍛えられた自信がありますが、「自分のattitudeの限界に自分で気づいてもらえるような教育をする」ということに関しては、道半ば、といったら言い過ぎなくらい、先の見えない非常に難しいことであると日々感じています。

しかし、それでもその目標を下ろすわけにはいきません。それは、やはり僕にとって「教育」というものが知識や理解だけを与えても仕方がない、という思いがあるからだと思います。そんなものはそれこそ、インターネットの普及(Sugata MitraのHOLE IN THE WALLのようなです)や、これからまだ起きるであろう、その他の大きな変化によって、いくらでも時代遅れのものになると思っています。しかし、この、「人に今までのattitudeの限界を気づいてもらうために、寄り添い、励まし、批判し、そして気づく契機を提供できるように手をさしのべながらも、本人が気づくそのときまで待ち続ける」というattitudeに働きかけるための教育は、やはり人対人でなければ絶対にできないことであると僕は思っています。そのような意味での教育には、人生をかける価値がある。僕自身が、小手先の相対的優越感では自分自身のこの世界に対する絶望を振り払えずにいた少年時代に、「君の見る世界から可能性を奪っているものは、君のattitude自身なのではないか。」という深い問いかけをもらったことが、その後の指針となり、財産となっているからこそ、僕はそのような教育をやっていかねばならないと思っています。

ということで、Y君とのやりとりは本当にうれしい出来事でした。このように一歩先へと一人一人の認識を深めて自らのattitudeを疑い、さらに鍛えていくことのために、また毎日塾を頑張りたいと思います。
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