嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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『風立ちぬ』を見ての感想

みんなが書きたいトピックについて語るというのは、どのような発言をしようとも注目され、そしてそもそも注目されることだけで一定のメリットを得られるわけで、僕はそのようなことにかまけてはいられないと普段は思っています。

しかし、ジブリの新作『風立ちぬ』については、僕が見たジブリ作品の中では一番素晴らしかったので、是非それについては書きたいなあ、と思いつつ、他の人の書いたので共感できるものがあったら紹介するぐらいかなあ、と思ってチェックすること、はや1ヶ月強、全くそれが見つからずに時間を空費し、「もう自分で書いた方が早いかな。」と思っていたのですが、とうとう見つけました。ということでご紹介したいです。このブログの記事です。

ここに書かれていることに関しては、全く同感です。しかし、このブログでは「ほら、やっぱりクリエーターの上から目線なんだよ。」という批判に対しては答えられていません(もちろん、この筆者の方は、それでよいと考えているでしょう。それは一つの肯定しうる立場です)。

しかし、僕はこの映画に関して、クリエーター/クリエーターでない人という差別や、前者の特権的意識が
見えるというよりはむしろ、人類全体の残酷だがいとおしい運命を描こうとしたように思っています。知性をもって生まれ、本能のままには生きられないが故に、かえって様々な迷いを持ち、よかれと思って必死にやったことの結果、もっとひどい結果を引き起こしては絶望する、というこの悲しみ。「男性/女性」や「クリエーター/クリエーターでない人」という対立を超えて、僕はこの映画の主人公の抱える悲しみに、人類全体が本来的に抱える悲しみを感じました。

私たちは、どんなに真剣に悩み苦しみ、考え抜いたとしても最善の行動を選ぶことが出来ない。それは昆虫のように種の存続のために個体が機能するようにプログラムされているのであれば、ある意味で幸せであるのです。なぜなら、考えることなく最善の行動をとれるからです。そのような生き物には選択も自由意志もない、という意味では人間には耐え難いように思えるかも知れませんが、しかし、そうなればそうなったで暴力も大惨事も起きなくなるわけです(というより、種の存続のために行われるあらゆる暴力を「暴力」として認識しうる主体がいなくなる、ということになります。これはSF小説でも伊藤計画(本来は旧字体です)さんの『ハーモニー』などはそのような着想ですよね)。

このこと自体はそれこそ、聖書の「エデンの園」から禁断の知恵の実を食べて追放された人間、というたとえ話からこのかた、人間を悩ませ続けた問題です。知性や意志などというものが中途半端に存在することで、確かに人間は一つの種としてはあり得ないほどの様々な成功を収めてきました。もちろん、それがもたらす人間の解決能力を超えた大きな問題にも次々と直面せざるを得ないのが人間の歴史であり、生物種というものの中に「人種」、さらにはより人工的な「国家」というものを発明することで大きな問題を引き起こしたのもまた人間の歴史です。それらは全て、中途半端な知性や意志が、その中途半端な意志が拠り所を必要とするために、その拠り所として機能する新たなしくみを知性によって作り出していく、という欺瞞の歴史であるわけです。果たして、知性や意志を持ったが故に、人間は幸せになれたのか、それとも不幸せになったのか、と暗澹たる気分で考えなければならないのは、ルソーの『学問芸術論』を引くまでもなく、誰でも(特に福島の原子力発電所の事故以降は)思い当たる経験ではないでしょうか。

人間は愚かだ。人間は大切なものと、大切ではないものを簡単に見誤る。そして、人類に善かれと思って、懸命に人生をかけた取り組みが、結局人類に善かったのか悪かったのかわからないままに死んでいく。善いものを志し、探し、そしてそれに何もかも、本当に愛する人の幸せすら、うち捨てて取り組み続けたとしても、結果としてそれが本当に善いものを生み出したのか、それとも悪いものを生み出したのか、よくわからないが、

「それだからこそ、人間はいとおしい。様々な間違いは起きざるを得ないとしても、それでも僕は人間を愛そう!」というメッセージを僕はあの映画を見て感じました。

それは、その愚かしい迷走も、迷走から始まる努力も、全ては無駄であり、逆に悪いものを生み出すだけであるのだとしても、それが人間であるのだ、という覚悟です。もちろん、それは、間違いを正さなくてよい、ということでは毛頭ありません。しかし、我々が人間である以上、正しいものをめざそうと、常に誤りばかりであることは
避けられない。そして、私たちに課せられたその宿命を、少なくとも私はもう呪ったりはしない。自らが誤り続けることに耐えかねる自分の心の弱さから、絶対的な正しさを求めては、神や国家にすがったりもしない、という姿勢を感じました。

「私たちは、正しいものを求めては、誤り続ける。しかし、それがいくら辛いからといって、決して呪ったり、あるいはたやすく「正しさ」を与えてくれるものにすがりはしない。かといって、正しいものを求めることを諦めもしない。」という、姿勢が一貫して主人公に対してあったのがあの映画だと思います。もちろん、あの映画を見て癒されるクリエーターや企業戦士も、それに対して「結局男はあの主人公のように都合よく女を使い捨てる。」という見方も、まあ合っています。しかし、僕はあの映画の主人公のような人生とは、つまり人類そのものの成功と過ちを必ず伴う歩みを表しているように感じました。

もちろん、映画などは話の種です。僕はあの映画にそのような意図が込められていなくても、善いものを求めては、過ちを繰り返す(もちろん僕を含めた)この愚かな人類が少しでもマシになるように、全力を尽くし続けていきたいと思います。森有正がリルケの末期の言葉を引いて書いていたことがありました。リルケの「絶望して死ねる。これほど幸せなことはない。」という言葉は人類の未来に希望を懸け、そのために死ぬ最後の瞬間まで尽力していたからこそ、出てくる言葉だ、というやつです。「失敗」がチャレンジし続けなければできないのと同じように、「絶望」は希望を持ち続けなければ、やがてできなくなります。

私たちの思考など、生物的本能の単なるvariationでしかないと強調してみても、思考は私たちに罪の概念を与えたことは事実だと思います。その「罪」の概念は、私たちを時に深く反省させ、時に私たちをしばりつけるあまりに暴虐な行動へと駆り立てるという意味で、少なくともその恩恵以上には害悪の源となってきたことは確かでしょう(パレスチナ、エジプト、シリア)。しかし、僕は少なくとも人間が自らの罪を感じるということには可能性があると思っています。たとえ、それが新たな暴虐の種となろうとも。ドストエフスキーの描いたように、「罪」の自覚がChristianityのもっとも深い部分だ、ということに僕も深く同意しますが、「罪」はChristianityなど軽々と超えて、より人間性の根幹を規定するものであると僕は思っています。

そして、その「罪」の概念を決して外側から他人が伝えることなど出来ないのだ、ということもまた伝えたいことです。「罪」という言葉が仰々しければ、「責任」でもよいです。「責任」という概念を他の人が外からいくらなじろうと、説き聞かせようと、それを誰かに伝えることはできません。それは、人間に本来的に内在するものであるにもかかわらず、決して外からは育てることの出来ないものです。まあ、しかし、そこを何とか悪戦苦闘はし続けていこうと思っています。そのためにはドストエフスキーの『悪霊』で、スタヴローギンが陵辱する相手である「少女」に僕はならねばならないわけです。今日も、塾生に対して、徹底的な善意と思いやりを、踏みにじられ続けては、頑張っていきたいと思います(と書きましたが、『悪霊』とか今の子は読まないですよね。。僕はドストエフスキーの小説の中では一番好きで、お薦めです(注))。彼ら、彼女らがさまざまな人の善意を、自分の弱さ故に踏みにじっていることに自分で気がつく、その日まで。

(注)ちなみに、塾生にはいつも言っているのですが、「ドストエフスキーの代表作は『罪と罰』だ」的な言明を僕は許しません。あれは(彼の作品の中では)駄作中の駄作です。大体筋書きだって、何かメロドラマっぽいじゃないですか。最後に中途半端な救いがあるし。大体「ドストエフスキー=罪と罰」的なことを言う人は、一冊も読んだことがないか、あるいは有名な『罪と罰』一冊を読んで、分かった気になっている人です。皆さん、注意しましょう!

彼の作品には、それもいわゆる長編には、ほぼ、中途半端な救いがない。『悪霊』などはその極みですが、『白痴』にしていも、『未成年』にしても、もちろん『カラマーゾフの兄弟』にしても、ほぼ救いがない。ほとんどの人間にとっては救いなどないという事実を描こうとしたのが、ゾラを代表とする自然主義文学の作家なのだとしたら、ドストエフスキーはほとんどの人間の人生には救いなどない、ということは我々一人一人にとってどういう意味をもつのか、ということを描こうとした作家だと僕は思っています。正義も思いやりも朽ちる。しかも、それが正義や思いやりであるがゆえに。その中で私たちはどのように生きるべきなのか。それを考えさせようとした作家だと思います。もちろん、彼の問題意識の根本にはキリストとキリスト教との乖離があるわけですが、それは単にキリスト教、あるいは西洋世界にとどまらない普遍的な問題を提示してくれていると思います。

では、なぜ「ドストエフスキー=『罪と罰』」という紹介のされ方をするのかといえば、単にそれが分かりやすい、もうちょっと精密に言えば「受容しやすい」からであるでしょう。多くの人が読んで、あまり抵抗感を感じずに読めるという意味では入門編です。しかし、それを読んで分かった気になられても、という内容です。もちろん、クロポトキンのようにドストエフスキーを「狂人のことばかり書いた小説ばかり書く」というのが普通の人の感想でしょう。しかし、真理が狂人の裡にあることを普通の人は認められないものです。

全く同じことが「太宰治=『走れメロス』」という紹介のされ方にも言えます(もっともこれは日本の作家の分だけ、さすがにこんな紋切り型はドストエフスキーに比べると少ないですが)。あれは、子供向けの入門編です。せめて、「家庭の幸福は諸悪の本」という結論に達するしかなかった彼がああいう話を書いた意味を考えようよ。と言いたいところです。

前にも「文学の残酷さについて」というエントリーで書きましたが、読んでも理解できないのなら、語らなければいいわけです。でも数学や物理については理解できなければ語り得ないということは驚くほどのコンプレックスを持って皆の共通理解としてあるのに(これはこれで問題です。むしろここに関してはわかってなくても分かってる人に聞きながら、積極的に意味を考えた方が良いと僕は思います)、こと小説に関しては一読したくらいで何かを語れると思ってしまうのは恐ろしいことです。小説の中に物理や数学、あるいはもっと近いものとして、哲学や思想があるということを感じ取れないのであれば、それはもう「読めていない」のですが。あるいは、そういう「読めていない」読者が多ければ多いほどに、そういう読むに値する小説も評価されなくなっていきます。

加藤周一さんが「芸術とは個別性を通じて普遍性を伝えるものだ」とどこかで書いていたように思いますが、
「個別性を媒介とする」というのは一つの共感を伴います。いわゆる「あるある感」ですね。しかし、そこから
普遍性を伝えるためには、「あるある感」の背後にある、我々がまだ意識できていないものを描かねばなりません。しかし、残念ながら、それはまだ明確に意識できていないとしてもその存在を識閾下で何となく感じ取れている人にとってはその普遍性は伝わりますが、そもそもその存在すら感じ取れていない人にとっては何のことか分かりません。これが、たとえば、「厳しく自己を鍛えてきた人間以外は美術館を見るな。」というロダンの言葉とも通じていると思います。つまり、ある普遍的な問題に直面してきていない人間には、見ても分からないだろ、ということです。小説にもそのように読んでも分からない、ということがあります。

個別性をなぞるだけの小説は、単純に言えば快楽の道具でしかありません。もちろん、ある人にとって、それが必要な時期もあるでしょう。しかし、(僕は2歳くらいから一人で読書をしていたらしいですが)少なくとも物心ついてから僕はそれを読書に求めたことは一度もありません。もちろん、僕もまた、読んでも分からない本というのはまだまだたくさんあります。筆者が感じている普遍的な問題を僕が鈍くて生きている中で感じ取れていないのなら、そうなってしまいます。しかし、少なくともそれは僕にとって、「僕にはまだわからない。」というものであって、「この本の価値がない」というものではありません。せめて、その姿勢は崩さないように読んではまた紹介していきたいと思います。(もちろん、個別性しかないだけの本は価値がないと僕は強く思っています。しかし、それが本当に個別性しかないかどうかは僕の判断であり、それは当然間違えている事があるものです。年を取ればとるほどに、死が近づくことへの焦りから、つい「これは価値がない」と断言したくなってしまいますが、そこは気をつけていきたいと思います。そういう意味で、最初のドストエフスキーの『罪と罰』への評価も、かなり確信があるとはいえ、現在の暫定的な結論であることは確かです。)

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