嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

つなぐ。

ご無沙汰しております。今、少し長い記事を書いていて、そのつなぎとして短い記事を書きたいと思います。

ゲーム理論において、応報戦略(しっぺ返し戦略)が全員の利益を最大化するとしても、それは利益しか見えていないわけです。少なくとも相手のした通りにしっぺ返しをしようという心のさもしさ、「冷たく当たられれば冷たく返す」という壁を作り、それが何らかの理由でひどいことを繰り返ししている人には、出口を無くしていきます。「そういう人は冷たく当たられることで、学習していくから良いのだ。」と人ごとなら言えますが、自分が精神的にどん底まで落ち込んでいるときに、それが故に人に対して冷たく接してしまい、しかし、そこで「これは自分の態度が悪かったのだな。」と学習する姿勢を発揮することを一人一人に求めてしまうのは、僕はあまりにも要求水準が高すぎることであると思います。人間は、この僕も含め、そんなに賢くはありません。

そういった「どうしようもない(と他人に見られるまでに虐げられ、屈折せざるを得ない)人」を描き、共感のきっかけにするのが文学であったわけですが、それも最近はどうなのでしょう。クロポトキンがドストエフスキーを「精神異常者ばかりの登場する小説を書く。」と批判していましたが、僕は文学とはそうあるべきであると思うので、それ故にドストエフスキーの小説には価値があると思っています。天才や狂人と凡人との間の橋渡しをするのが文学です。言い方を変えれば、天才や狂人は凡人を理解しているからこそ、凡人が天才や狂人を理解するための補助線となるのが文学です。彼らが何故孤立し、何故一見ひどい振る舞いをするのかには理由がある。いわば、彼らは鋭敏であるが故に、社会の「毒」の影響を真っ先に感受し、それでおかしくなってしまうわけです。炭坑のカナリヤです(カナリヤが人間より有毒なガスに鋭敏かはわかりませんが)。彼らの苦しみと屈折とそれ故の暴力への道筋を理解することで、僕たちは自分たちの人間性を奪っていくものについて前もって理解をできるわけです。
しかし、最近の小説は、狂人を描かない。あるいは狂人を描いたとしても、その狂人が狂人になる必然性を描かない。(もちろん、これは批判ではなく、自戒を込めてです。僕はこんな風に文学を語りながらも小説家になることは捨てて、教育に取り組んでいるので、僕自身にも責任があると思っています。)

「しっぺ返し戦略」以外の取り組みがきわめて細く狭くなってきていることを強く感じています。それは最近の小説にも見出し得ないし、昔の小説にたどりつくまでには、長いハードルがある。そもそもそれは周りの人が誰も読んでいないからこそ、そこにたどり着くまでにはある程度の教養をもってそれを指し示す大人や先輩、同級生が近くにいるか、本人の懸命な努力によってそこまで自力で到達するかのどちらかです。しかし、それはどちらにせよ、きわめて確率の低いことであるでしょう(ドストエーフスキーの小説を読んだことがある大人は結構いたとしても、その小説の意義を苦しんでいる若い世代に語れる人が、どのくらいいるでしょうか。)。かといって、人間関係においては、「しっぺ返し」以外の戦略は見る陰もありません。メールだけでなくFacebookやtwitterやLineなどコミュニケーションの頻度が高くなればなるほどに、広範囲に「共感」可能な言葉以外はしゃべれなくなっていくという傾向があると思います。たとえば、一対一でその人に向けてしか話せないような言葉、話しても意味が通じなく曲解されるであろう言葉を話し、そういった言葉を鍛える場自体はむしろかなり減ってしまっているのではないでしょうか。誰にも傷つけられず、誰をも傷つけない言葉以外を話す場を持ち得ないがゆえに、誰かを傷つけるものの、ものの本質に迫る言葉を鍛える場や人間関係をもちえていません。そのような中では自分からは破綻的な攻撃性を示さないものの、誰かに攻撃されればとたんに攻撃的になる、という戦略を採らざるを得ないでしょう。しかし、それでうまくやって行っているつもりでも、言葉や思考は力を失っていくわけです。

「自分が傷つけられたから、相手を傷つける。」という行為の連鎖からは何も生まれません。もちろん人間の心は弱いので、そのような反射的な行動をしてしまうこともあるでしょう。そして、そのような行為をした自分を正当化する何百もの理由も見出すことが出来るでしょう。それはもしかして、しっぺ返し戦略の説くように「全体の利益を最大化する」ことに資するかもしれません。しかし、その負の連鎖を続けることをどこかで断ち切る自己がいてもいいとは思うのです。しかも、「それが全体の利益に資するかどうかなんてしゃらくせえ!俺は自分が傷つけられた腹いせを他人にしたって気が晴れねえんだ!」という態度こそが、実は意志の力を必要としない応報戦略(相手からよいことをされたら、相手によいことをする。相手から悪いことをされたら、相手に悪いことをする。)よりも、意志の総量を地球上に増やしている、という意味では実は正しい戦略なのかも知れません。生存効率だけを考えるのなら、昆虫のように本能だけで全てを管理できることこそが一番良いはずなのですから。しかし、本能に抗うノイズのようなものである意志を発達させた人間が、このように発展してきたということこそが、意志を必要としない「もっともらしい戦略」が、その戦略によって最大化される利益だけによってそれを正当化できるかどうかを疑う一つの根拠なのかな、とも思います。全体の利益の最大化にとって、無駄なものだけをhumanityと呼ぶのだとも思います。

人類史上最高の天才の一人とされるフォン・ノイマンの大成させたゲーム理論も、結局は人類史上最高の天才程度の作ったものにすぎません。それが人間の認識の限界の最先端であるとしても、人間の認識自体が外界に対してきわめて小さいもの、小指の爪の先ほどのものでしかないものであることを忘れてはなりません。精緻(せいち)にくみ上げられた人間の知の体系もまた、一つのお題目にすぎない。つまり、それは一面の真理にすぎないじゃないか、そんなものを俺たちに押しつけるな!という心の叫びの表明がロックンロールです。つまり、「俺たちはバカだ!でも、バカだからってだまっちゃいねえんだ!」という叫びです。

ということで、嚮心塾ではしっぺ返しをいたしません。生徒達よ、何度でも僕を裏切ればよい。何度でも僕をごまかせばよい。君たちがとっているその脆弱な「最適化」戦略が、いかに子供だましか、いかに真理づらした自己正当化かを、君たちが思い知るその日まで、僕は諦めません。たとえ、新聞紙上の人生相談で美輪明宏さんですら、「バカは自分で懲りるまでほっとけ」とアドバイスするという絶望しきった時代であったとしても。
あるいは、たとえ、君たちの周りの大人達が、今の君たちと同じように「世の中ひどい奴だらけなんだから、ごく少数の家族や親友以外は、良くしてくれた相手にはよくして、冷たい相手には冷たくしていればいいの。」という戦略を採用している人ばかりだったとしても。君たちをそんなくだらない大人にはさせません。

そして、僕自身も暴力の連鎖を自分の意志で止められる人間に、今以上になっていかねばなりません。
この決意を固めてから、早15年くらいはたっているのですが、あの頃想像していた以上に、この道が
やればやるほどさらに逃げ場がなくなっていくだけでなく、誰からも理解されないということがしんどいところですが、まあ、それはさぼる理由にはなりませんね。頑張っていきたいと思います。
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