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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

掲示物について。

と書いて、結局またしばらく放置するんだろ…と思った皆さん!その予測を裏切って、すぐに書いちゃいます。と書いてみたものの、このブログは更新順に上に来るので、このネタがあまり効果的ではない…

という前置きはいいとして、僕は学校が嫌いです。子どもの頃からずっと嫌いだったのですが、自分の娘が学校に通うなんて羽目にあっているので、自分の娘の授業参観などに行かざるを得なくて仕方なく行くと、一人一人の生徒に注意したいは、担任の先生にも注意したいは、後ろで見ているお母様方にも注意したいはで、もう自分を抑えることがつらくってつらくって拷問のようです。しかし、何より嫌いなものはあの掲示物ってやつです。描いた絵であれ、習字であれ、一人一人の名前とともに貼られているあれをまた、お母さんもお父さんもほほえましそうに見て回るわけですが、僕はあれが大嫌いなのです。

なぜ嫌いなのかを考えてみると、あれは何だか同じテーマに沿って、書きたい子もそうでない子も書かされては貼られるというのがどうにも暴力的な気がします。上手か下手かが一目瞭然に比べられるものの、そもそも書いている本人としては誰かに見せたいだの、あるいはそもそも見せるという前提だのも知らされないままに、とりあえず授業の一環として書かされたものを無理矢理貼られてさらし者扱いを受けるだなんて、なんたる暴力か、と思ってしまいます。僕が絵が下手だからひがみで言っているのではありませんよ。たとえば僕は小学校の時の作文や読書感想文などは書けば必ずみんなからほめられまくっていましたが、しかしそれがたまらなく嫌でした。課題をこなすことは一つのトレーニングにすぎないのに、それをいちいち読み比べられなければならないのか。たとえば絵や習字に関しては僕は劣等生でしたが、作文に関しては優等生で、でもそれらは少しも僕という人格を表現していないわけです。あるいは絵や習字や作文に限らず、もっとほかのものですばらしい子達にとって、あの掲示物によって自分が劣等感をもたされる、というのは果たして教育的効果があるものなのでしょうか。

僕があのとき、感じた違和感は、もちろん現在娘が習っている教室に入っていってもやはり感じるわけですが、それはやはりあの掲示物が基本的に子どものためではないことに由来するように思います。僕も親の立場になってみると、やはり子どもの描いた絵はかわいくて、少しでも特徴を捉えていると天才ではないかと思ってしまう。そういう親バカな気持ちを満たすための掲示物なのではないかな、と思いますし、子ども達は親が驚くほどに他の人の書いた掲示物に無関心なのもそういうところを感知してではないか、と思います。同じ空間に詰め込まれ、同じ内容を習うだけでなく、その中のいくつかの項目を抜き出してはそれを「成果」として壁や廊下に貼られ、そこでまた新たな評価の目にさらされる。僕はそのような自分を、毛並みのつやや脂肪の付き方、歩き方などで評価される、せり市にさらされる「子牛」であるかのように、おそらく感じていたのでしょう(僕は「お前ら程度の大人に、僕の作文の価値がわかるか」というかなり生意気な「子牛」でしたが)。だからこそ、僕は娘の教室に貼ってある絵も書も自分の娘のしか見ないようにしています。そこで誰かと比べて自分の娘の作品を評価しないように、という理由からです。それにしたって、さらし者にされ評価を受けるというのは、絵や書や作文に命を懸けていない人間にとっては耐え難いものであると思うのです。僕にとって、あの掲示物は北朝鮮のマスゲームと何ら変わらない全体主義的なものにしかみえません。

一方で、現在嚮心塾には美大を目指してデッサンを練習している子のデッサンが貼られ、塾生がそのデッサンについて好き勝手にコメントを述べる、ということを継続してやっています。塾の壁には自分が覚えるための暗記用の英文や日本史年表など、何でも貼って良いことになっています。教室が、異なる個性を磨き合う「広場」であり、「公園」であるのなら、そこでデッサンをしようが、太極拳をしようが何でもいいはずです。しかもできれば、それが各々が勝手にやっているだけでとどまらず、お互いからのフィードバックがあればより良い教育の場であると思います。そのような場に少しでも近づけていけるように、これからも努力していきたいと思います。

それとともに。ある年齢まではどの子にとっても共通のトレーニングを積ませること自体には僕は賛成です。ですから、小学校でさまざまな内容のトレーニングをすること自体はよいと思います。ただ、そうであればこそ、あのように皆にとってのさらし者にするのではなく、一人一人のその課題に対する修正点を積み上げていくような教育ができればよいと思います。掲示をしてさらしものにして放ったらかしにするのではなく、お互いに絵を交換して児童同士で品評会をするとかすれば、その中で鑑賞能力も表現能力も鍛えられるのではないかと思います。
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コメント


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復活おめでとうございます。

先生のブログのファンとしては、復活されて嬉しい限りです。

今回の内容について一つご質問です。

世間の教育論者は口を揃えて「学校は人間関係を築かせたり、子どもに社会感覚を身に付けさせる場として重要な役割を担っている」などと主張していますが、もし学校に行かせないとすると、子どもにはどうやって社会経験をさせるべきだとお考えですか?

| URL | 2012-10-02(Tue)14:16 [編集]


Re: 復活おめでとうございます。

コメント有り難うございます。「子どもにとって社会性を涵養するために学校が必要」というよくなされる議論は僕は全く無意味であると思っています。平日の日中朝8時から夕方、部活動も含めれば夜までを強制的に学校で過ごす時間へと徴用されているわけですから、そこでの時間をもっと自由に使えるのであれば、ほかに社会性を涵養するための団体やサークル、あるいは学習スペースなど山ほど参加できるでしょうし、ある意味平日の昼間にそのような場所が機能していないのは学校のせいです。つまり、子ども達にとって一番有用に使うことの出来る時間帯をそもそも学校へと拉致しておいて、大して勉強面で鍛えることも出来ず、社会性を涵養するといっても積極的に行うこともなく、その「社会性の涵養」のための考え抜かれた戦略もなく(いじめは当たり前に存在してますよね)、ただ同年代の子達を強制的に一つの場に閉じこめれば自然と起きる交流をとってきて、「学校は社会性の涵養に役立っている!」というのはあまりにもばかげています。学校が子ども達に強制するのと同じだけの時間とコストと人員を、もっと考え抜いた戦略を持って機能させることが出来たら、そもそも社会性の涵養どころか何でも出来ると思います。「学校がなければ社会性…」云々は、莫大な時間とコストと人員というresourceを浪費しておきながら、それを自然な社会性の発達くらいにしか用いられていない自己を正当化しつつも、「そのような限界だらけの制度ですら、なかったら困るんでしょ?どうせ、学校がなかったらひきこもりになるんでしょ?」という個々人をバカにした考え方だと思います。

このように、現在ある制度を正当化するために為される擁護の議論というのは、人々の、現状の踏襲をできれば破りたくない、という心の弱さとあいまって、一定程度信じられてしまいます。政治学にもそのような理論とそうでない理論とがあります。大切なのは、そもそも根本から考え直すという姿勢です。社会変革が何もかもをひっくりかえすべきであるかどうかは別として(それは時に大惨事を招きます)、時代を超えて学ぶ価値のある理論とは常に根本から考える理論、既にあるものを前提として作り上げるのではない理論です。是非しっかりと勉強を続けてください。

柳原浩紀 | URL | 2012-10-03(Wed)13:26 [編集]


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| | 2012-10-04(Thu)17:32 [編集]


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| | 2013-01-20(Sun)12:59 [編集]