嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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その2。エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」

大分、間が空いてしまったこのシリーズですが、続きを書きたいと思います(前の方から読みたい方は「「教育」という行為の存在する意味」のエントリを順に読んでいただければ有り難いです。といっても、これが実質二つ目の記事なのですが)。

さて、話題は大分変わるのですが、僕が高校生の頃、生物がとても好きでかなり熱心に勉強していた中で、一番感心させられたのは、このエルンスト・ヘッケルの反復説(「個体発生は系統発生を繰り返す。」という仮説)です。どういうことかと言いますと、各生物の個体(一匹一匹ですね)の発生の過程というのはどのように違った生物であってももとはきわめて類似した形をたどって発生していく、ということから、これはたとえば系統樹のような進化過程を私たち生物が経てきたとして、その種としての進化過程を個体の発生過程の上でなぞらえるように発生して来るからこそ、成体になると全く違う特徴を持つ動物同士が、胎児であるときにはきわめて似た特徴をもっている、という仮説です。

実際に発生途中の様々な動物の胎児の写真を見ると、きわめて説得力のある説であるように僕はその当時感じました。生物のなりたちなど我々卑小な人類にその個々の小さなプロセスは分かったとしても、長い時間での大きな変化には何の洞察も見いだし得ない、とどこか諦めていた僕にとって、このヘッケルの言葉は人間の想像力がここまで生命現象全体に対して深い洞察をなしうるのか、という感動を与えてくれたものでした。何をもって「深い洞察」と感じたかと言えば、その言葉はきわめて示唆的で、大きな全体の中での自分が生きる意味が少しはあるのではないか、と感じさせてくれたからです。もちろん、科学上の仮説に何かしら示唆的な「意味」を求めてしまう、という態度が科学的であるかといえば、それはかなり怪しいわけです。私たちの卑小な現実、卑小な社会にとって示唆的である豊かな内容を目指して、何も示唆しない単調な現実を叙述する仮説を排除してしまうことは、ありのままの現実、人間の理解と想像を超えた現実を少しでも理論化しようとする意欲的な取り組みを絶えず足を引っ張ることになります(つまり、「葦(よし)の髄(ずい)から世界を見ているという自覚を失わせ、「葦の髄」の広さを世界の広さと勘違いさせてしまいます)。ただ、世界の成り立ちというものに人間が意識を向けるその初めには、宗教や哲学があったように、自分たちに分かる小さな内容から始めていかなければ、世界や宇宙という大きなものへと意識を向けようという動機自体を維持し続けることは難しいものです。僕自身、普通に勉強をしていたとはいえ、絶えず意味を感じる前に小さな内容の積み重ねを続けざるを得ないことにdiscourageされていたことが多かった分、この言葉は衝撃的だったのを今でも覚えています。

もちろん、この「個体発生は系統発生を繰り返す」という言明自体、そもそも検証しようのないという意味では、ポパーの言うように反証可能性をもたない、という意味で非科学的なのでしょう。声高に「それが正しい」と叫ぶのも、あるいは「そんなのいくらでも反例が見つかる」と反論するのも、あまり無意味で、現在では放置されているというところなのでしょう。ただ、この考え方を生物の進化ということではなく、人間の教育・文化・社会の歴史的発達と個人におけるそれらの発達との関係において考えるヒントにしてみると、有益なのではないかと思っています(といっても、社会優生学的ではないですよ!)。

というところで、また次回に続きます(今度は間を空けませんので、ご心配なく)。

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