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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第5号

この文章を書いた後に、僕の家庭では無洗米を買ってこないと、僕が奥さんに叱られる、という状況になりました。家庭生活の難しさ、ですね。それでも、このように表現することは単なる負け惜しみなのか、それとも、魂だけは殺させはしないという決意の表れであるのか。どちらにするかは、僕次第であるようです。


第5回お米は洗わない方がよいのか。

 無洗米、というお米が今や大分普及しています。袋から出したらすぐに水を張り、炊くことができるというスグレモノです。あのわずらわしい、それでいてなかなか楽しくもある「米を研ぐ」という作業をなくすことができるので、忙しい家庭では大助かりだそうです。僕は以前にこの無洗米というものを知ったときには、「ああ、また一人一人のめんどくさがる心のせいでよけいなエネルギーを使うようになっちゃって。自分で食べる米を自分で洗うのを面倒くさがるなんて、人間として最低だ。」と冷たい目で見ていました。
 ところが、そのように見てもいられなくなってきたようです。無洗米は実は「環境によい」と言われていることを僕は最近知りました。それは次のような理由からです。
 私達は大部分が米の研ぎ汁を排水口に流してしまいますが、そのように下水に流してしまえば、下水の中に研ぎ汁に含まれる多量の栄養分が混ざり、それはやがて川から海へと流れます(下水を処理すると言っても汚れを取るだけであり、水に含まれる栄養分は取り出すのが難しいのでしょう)。そして、海の水に栄養をたくさん含んだ下水が流れ込み、富栄養化(海水中の栄養分が異常に増加すること)が起きて、プランクトンの異常発生などが起き、海の生態系が崩れてしまうのです。私達がパンを食べるようになったと言っても、一日に一回もお米を研がない家庭が何軒あるか、と考えれば、やはりこれは大きな問題です。
さらに、無洗米は精米した後にまだ米にくっついている養分を機械で分離して作るのですが、その栄養のあるゴミをためて有機肥料として農家で用いるそうです。そうすれば、人間が食べる米の部分以外を確実に土に返すことができるようになり、栄養分を海中に捨てるというもったいなくしかも海が汚れることをしなくて済むのです。このように米の栄養分を水に溶かす前に集めて土に返す方が、水に溶かしてから処理するよりも圧倒的に処理のコストは少なくなります。よく、三つのRとかいいますが一般にreuse(再利用))はreduce(ゴミを減らす)よりもコストが圧倒的に少なく、reduce(ゴミを減らす)はrecycle(リサイクル)よりもコストが圧倒的に少ないことを考えれば、このように無洗米を使うことがどれだけ環境によいかわかるでしょう。
 このいいことずくめの無洗米を前にして、「無洗米なんて、どうせ米を洗うのをさぼりたいというわがままさの産物でしかなく、使っちゃいけない。」という僕の判断を改めねばならないようです。(もちろん、家庭で鉢植えの植物に米の研ぎ汁を与えるというのも自分で米を洗うことと環境に良いことを両立しうる一つの方法ですが、しかしこの場合、鉢植えの植物に栄養を与えるよりも耕地に栄養を与える方が、より必要なところに栄養を与えていると言えるのではないでしょうか。)
それに対して、無洗米を使うべきではない理由を挙げていきましょう。まずは、手で洗っていた労力を機械で行うために、その機械を動かすエネルギー(電力、ひいてはそれを生み出すための石油など)が余分に必要であるということです。これはやはり無視してはならない問題だと思います。なぜなら、人間の活動のあらゆる部分を機械で代替させようとすることこそがエネルギーの消費を増大させ、その結果としての地球温暖化につながっているからです。問題は、ある問題を解決するために機械を発明することには人間の意識と努力が向きやすいものの、その機械を動かすためのエネルギーをどうするかについては、無頓着であるという人間の態度が結果としてエネルギーや二酸化炭素の問題へとしわよせをしているということです。
 次に考えられるのは、人々が米を研ぐことをもはや面倒くさがってしなくなってしまうことで、何でも用意されているのが当たり前だと思い、用意されていないことに対して文句を言うようになる、という事態です。たとえば、米を研がないことに慣れてしまった人々はもっと研究が進み、実は無洗米を使うより使わない方が環境に優しいことがわかったとか、そのような技術ができたとしても、そちらを選び直すことはできないでしょう。便利さに慣れることで生まれた怠惰さは、その今の自分が前提としているものに対する疑いを自分の人生全体への攻撃であると敵視する性質を産み出します。人間はそのとき無洗米なしには生きられない存在となってしまっているでしょう。

 さて、ここまでを踏まえてみて、私達はどちらを使うべきなのでしょうか。僕はやはり、無洗米ではなくふつうの米を使いたいと思います。なぜなら、無洗米を使うべき理由が明確でわかりやすいのに対して、無洗米を使うべきではない理由はわかりにくく、その効果がはっきりしない分、切り捨ててはならないことを感じるからです。僕にはどうも、「ほら、無洗米の方がいいじゃないか」という主張の裏には「メンドクサイ」とか「モウカルゼ」とかいうエゴイズムがプンプン臭います。初めは、考えてそちらを選んだ人たちですら、それが続く内にそれを疑えなくなる麻薬のような力があるように思います。
 経済学では我々の見ている範囲で効率が最もうまくいっているとしてもその効率の良さは我々の見ている部分の外に何かを押しつけ、しわ寄せをしているが故にそれが成り立つということを「外部不経済」といいます。しかし、なぜ「外部」が生まれてしまうのかについて考えてみると、「人間の認識には限界がある」という当たり前の事実のせいだけとは言えない気がします。どうも、人間には一度判断を下した理由にたてまえと本音とがあるときには、その本音の部分に引きずられて、たてまえとして採用した合理性や判断を疑わないという姿勢があり、その姿勢こそがこの「外部不経済」を生んでいるようです。もちろん、そもそも経済というものが外部不経済を作ることによってしか受益者をつくれないものであるのかもしれない、という疑いについても考えて行かねばなりません。それは帝国主義やケインズ理論や従属理論を引くまでもなく、正しいように僕には思えます。ただそのような一つ一つの経済の考え方自体への批判の前に、批判を加えたくないという心の弱さを私達が見つめ、反省をして行かねば何も変わらないと思います。
 問題を解決するための機械を作るけれども、その動力としてのエネルギーを心配しないという外部不経済から、それらがすべてうまくいったとしてそのように自分が生きていくための取り組みから切り離されていく人間自身の精神の荒廃という外部不経済まで、結局問題のツケを「目に見える部分」から「目に見えない部分」にまわしちゃえ、という態度があります。この無洗米というものも、一見すごくうまくいくように聞こえるものの、結局また新たにエネルギーを必要とせざるを得ないという事態と、また新たに人間が生きるに値するだけの人間ではなくなるという事態を引き起こしてしまいます。水の汚れは目に見え、人間の精神の荒廃や何もかもにエネルギーを必要とすることは目に見えにくいために、これが「地球に優しい」と言われてしまうのでしょう。そのようにして「目に見えない部分」によせられていく「シワ」は、やはり取り返しの付かないものであると思います。僕は別に人間至上主義者ではありませんが、しかし何なら海を米の研ぎ汁で生き物が住めないようにしてしまったとしても、それでも人間が怠惰ですべてを何かに頼らねば生きていけなくなるよりはそちらの方が圧倒的にましであると思います。無洗米を疑えない人間は新たな問題に対処する意志を失うでしょうが、米を自分で洗う人間にはその米の研ぎ汁の問題も、他の新たに生じる問題にも何とか対処していこうとする意志が残っていくように思うからです。今私達が抱えている問題に対処するために、私達が心を失わざるを得ないのであれば、やはりそれは決して解決にはならない。それどころか、それは大きな暴力ですらある。このことを伝えていきたいと思います。
どんな目的にも無条件に肯定すべき理由はありません。それは現代の人類にとって究極的な大義へとなりつつある「環境への配慮」という点においてもまた、そうであるのです。もちろん、経済発展よりは環境保護を、という意見には僕も大枠としては大賛成ですが、人間の精神よりも環境保護を、というのには大枠としては同意できません。私達の意志がどれほど弱く、どれほど情けないのかについて、もっと冷徹に見つめた上で、何を為すべきかを考えていかなければならないと思います。               2006年4月1日




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