嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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理解をしていく、という苦しみ。philosophyの絶えざる悲劇性について。

今日、お弁当を買いに行ったとき、スーパーの出口の横で若い20代ぐらいのお母さんが3歳くらいの息子さんを厳しく叱っていました。「てめえ、何で、お店の中で騒ぐんだよ!迷惑だろ!もう二度とつれてこねえぞ!」というかなり激しい言葉で叱り、その息子さんは泣くどころか、恐怖に固まっていました。

という事実から若い親の叱り方を批判することも出来るでしょうし、「そもそも私たちの時代は自分の人生を子どもに捧げることが当たり前だった」と家父長制社会を虐げられていた側の主婦が往時を逆に懐かしがる事もあるでしょう。さらには、「そのように若い親に子育てを任せっきりになり、近所の人がそれをサポートするような地縁が失われてしまったが故に、このように孤立した親はやがて児童虐待などに追い込まれる。」という見方もできるかもしれません。こうしたどのような解釈もある面においては正しいし、そのある面における正しさにとどまっているということ以上には罪がありません。しかし、それらの解釈は社会を改善していくことに繋がり得ない。その若い親と、解釈者とは(最後の好意的な解釈においてすら)断絶をしてしまっているわけです。

それを、「冷たい」と言って批判していてはなりません。私たちがある対象を理解する、ということはその対象から距離を置かねば出来ないことであるからです。基本的に、寄り添うことと理解することとは矛盾します。であるが故に、最終的に寄り添うために理解をしようとするどのような試みも、ただ寄り添うことほどには全く役に立たないままであるわけです。

では、対象から距離を取り、理解をしようとすることは苦しんでいる人々に対して全くの無意味であるのか。もちろん、そうではありません。そのように理解をすることは、「寄り添い方」を洗練していくことに役に立つわけです。たとえば、先の例をとれば、親の叱り方を批判するのは叱られている子に寄り添い、「そもそも私たちの頃は…」というのは同世代の人々に寄り添い、最後の解釈のように「この親子を孤立させないように…」というのは、その親子というまとまりに対して寄り添っています。「誰に対して」「どのように」寄り添うのか、という戦略を(この場合はそのような悲劇的な状況を減らしていくために)より的確な方向へと向けていくために、理解をしていくことが必要となります。

この「理解」と「寄り添い」はたとえば、理想的な機能分担ができている社会であれば、大学などの研究期間が「理解」を、行政府や企業などの実務機関が「寄り添い」をやっていけるはずです。(もちろん、そのようになっていればよいのですが、現状はなかなかそうはなっていないかもしれません。)医療であれば、研究が理解、臨床が寄り添いでしょうか。

まあ、ここまでは常識的な話として、一人の人間の生きる姿勢として「理解」と「寄り添い」とのどちらをとるかを判断に迫られるとき、私たちは絶えず「寄り添い」の方へと向かざるを得ない圧力を日々感じながら生きています。なぜなら、「寄り添い」は一人一人の人間との愛着を生み出すことが出来るからです。逆に距離を置いて相手を理解をしようとする試みは絶えず、その観察される人々に対して、「冷たい」印象を与え、やがて村八分にされていきます。戦前の「非国民」という言葉などはまさにその空気を表したわかりやすい言葉であるのでしょう。対象が人であろうと、社会であろうと、国家であろうと、地球であろうと、宇宙であろうと、それらを理解しようとするとき、その理解を試みる人は、少なくとも意識の上ではそれらから距離を置かねばならなくなります。そして、そのような観察者、理解者を少なくとも他の人間達は許しません。徹底的に迫害を与えようとするでしょう。なぜなら、その理解しようとする人は彼らと同じ感情を共有できていないという点で、他者(非国民)であるからです。(僕はこのことに思い至るとき、ゴッホの一枚の絵を思い出します(タイトルは忘れました。すみません)。様々な職業を懸命にやりすぎて失敗した彼が、最後に「これしかない!」と思って絵筆をもち、ミレーのように農民の苦しい生活を絵にして伝えていこうと書き始めたときの一枚です。そこには、絵を描くゴッホを反感と冷淡な気持ちを込めてじっと見つめる農夫の直視する視線がありありと描かれています。彼らの苦しさに共感し、それを伝えるために絵を描くゴッホもまた、農民にとっては観察者、理解者であり、彼らとは明らかに距離のあるもの、おかしな「よそもの」であるわけです。共感し、何とかしたいと思うその相手の不信の視線をごまかすことなく描いたゴッホの苦しみ。後に述べるphilosophyの苦しみを苦しみ抜く、ということの苛烈さを僕に思い知らせてくれた一枚です。)

理解を深めていくことが寄り添うことをより的確なものにしていくために必要だとしても、そのあらゆるものに対して理解を深めていく、ということ自体は、自分を誰からも寄り添われなくしていく、というこの矛盾。このことが、ここまで明確に意識の中になくとも、それをどこかでわかっているからこそ、ほとんどの人はどこかで理解をしようとすることをやめる訳です。そして、社会の中でより洗練された寄り添い方は、生まれにくくなっていく。知識人が知識人としての自覚を持ち、どのように孤立しても理解を深めていく自覚をもつ社会は幸福です。しかし、それはきわめて難しい。この世の全てを敵にする覚悟を持ち、全てを観察して理解しようとする姿勢を、文章を売って生きていく人々に期待できるでしょうか。そのためには自分が共感できる文章を、ではなく、自分に違和感や不快感を与えてくれる文章をお金を出して買う人々が多数派であるという社会でなければならないわけです。

おわりに。「哲学(philosophy)」という言葉は「知sophia」を「愛するphi」ことだと、よく言われるわけですが、僕はこの「知を愛する」ことを何かかっこよいことと宣伝するのはもうやめてほしいと願っています。今まで書いてきたように、理解をすること、即ち「知」を得ていくことというのは、基本的に自分にとって苦痛であり、不快であり、圧倒的大多数の人間達を敵に回すことであるわけです。それでも、「知」を「愛する」というのは英雄的、自己犠牲的な決意であるわけです。自分自身の個人的な幸福は諦めてでも、「知」を増やしていくことを通じて人々の「寄り添い」方を洗練していかねばならない、という決意表明であり、その努力の行き着く先に、自分は誰からも寄り添われなくなっていくことを覚悟した言葉であると思います(現にソクラテスは自らを鼻先で飛んで人々の惰眠を邪魔しては、うるさがってつぶされてしまうアブにたとえました。また、ルソーは「本当に自分の国を思う人間は自分の国に住むことが出来ない」と言っていました。彼らの思想が足りないことはあるとしても、その姿勢を笑うことは僕は誰にも出来ないと思いますし、そもそもそれと同じだけの苛烈な決意をもって生きている人間が現在どれほどいるというのでしょうか)。その言葉を、たかが勉強好き、考えるのが好きという人間達が使わないでほしい、というのが僕の切なる願いです。

そのうえで。理解をしていくことに、終わりはありません。僕が日々感じる「もうここら辺で人間に対する理解をやめたい」という弱音を自ら叱咤激励して、人間の可能性と愚かさについて、更に理解を深めていきながら、それを教育に活かしていきたいと思っています。
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