嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

入試の前に。

国公立大学の入試が今日、2月25日から始まります。塾では東京近辺の学校を受ける子達は昨日まで、移動しなければならない子達は一昨日まで必死に切磋琢磨して、勉強していました。塾を出るときには、皆、不安を抱えながらもとても良い顔をして帰って行きました。

「良い顔」とは何か。今年の受験生は、そもそも去年に東大に受かる実力が十分にあった受験生、難関大の医学部を受験するにもかかわらず、どの教科もかなり余裕を持って合格できる力を持つ受験生、何もかもハイパーな受験生など多士済々です。しかし、その誰もが、自らのちっぽけな優位性にとどまることなく、足りないものを探しては徹底的に鍛えるという日々を重ねてきたからこそ、「入試を受ける中でまだまだ自分の予期せぬ困難に直面するかもしれないが、しかしそこをたとえ乗り越えられないとしても、そのことから目をそらしたりはしない!」という決意のある、本当に「良い顔」をして受験に望むことができると思います。

逆に「悪い顔」とはなんでしょうか。自分の弱さから目をそらし、自分の強さばかりを恃(たの)むとき、人間は優越感に浸ることで現実をごまかしているわけですが、そのときの顔が「悪い顔」ですね。そのとき人は、見たくない現実に心のどこかでは気付いているわけですが、しかしそれを何とか他の部分の強さから打ち消そうと必死であるわけです。空しい全能感と分かっていながらも、そこに浸らなければ現実の怖さから目を背けられない、そのように感じているとき、人は焦点の合わない、うつろな目をします。これが「悪い顔」であるわけです。

塾生がそのように現実から目をそらさない「良い顔」をして、この日を迎えられることを、僕は何よりも意味があることであると思っています。

願わくは、彼ら彼女らが受験を終えてもなお、その心を忘れないでいてほしい。まあ、と言ってもすぐ忘れることは確かなのですが、少なくとも一度はそこまで徹底的に自己を鍛えた経験は彼ら彼女らがどのように幸福感に浸り、必死に歩み続けることを忘れたときであろうと、そのような自分に対して本来的ではない感覚をどこかに残してもらえるものだとは信じています。

ここで終わると美しく終われるのですが、もう少し本音を書きましょう。僕はもはやそれを信じてはいない。いや、少なくとも信じる理由を持つことはもうできません。たとえ、人生のある一時期に必死に自己を研鑽したことがあろうと、それがその人の一生を照らし得るほどには人間は賢くはない。恥辱と失敗を繰り返し、そしてそれを必死にごまかしては自己正当化を繰り返すのがほとんどの大人の末路です。自分さえもなしえなかった一生を通じての克己を、若い世代に期待しているかのようにして教育へと心血を捧げるのは、たいていは教師の側の自己欺瞞と自己正当化ゆえでしかないでしょう。(ちょうど宮沢賢治が『サキノハカという黒い花といっしょに』で詠んだように。)僕は、ほとんどの学校教育と学校の教師(大学教授も含め)、さらにはほとんどの塾や予備校の教師に絶望していますが、それは結局この事実に自覚的である人間はあきらめ、自覚的でない人間は底の浅い使命感に駆られているからです。

若い世代に期待するためには、彼らの未来を祝福するためには、既に恥辱と失敗を繰り返し、それを必死にごまかしては自己正当化を繰り返し続ける存在としての、教師としての自己を徹底的に憎み続けねばならない。その上で、自身が少しでもまともな人間になれるように必死に努力しなければならない。

それだけでなく、教える人間は何故教えるのかを考えていかねばなりません。僕はその1つは、「火」を絶やさない、ということなのかな、とは思っています。たとえば、今年の受験で受験生が必死に自己を研鑽していったその姿勢が彼らの中でやがて消える日があったとしても、それが残っている期間の中で、他の誰かに伝わるかもしれません。灯した一人一人の中に、その「火」が消えてしまうかもしれないことにがっかりして、「火」をともすことを僕がやめてしまえば、本当にその「火」が存在しなくなってしまうかもしれません。個々の「火」が消えてしまうことを覚悟しながらも、それでもなお「火」を死ぬまで灯し続ける、というのが、教育に関わるものに要求される心構えであるように思っています。それがどのように大きなものを犠牲にしていようとも、です。
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