嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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通信第4号

古い文章です。朝日新聞の広告もライブドアの粉飾決算事件も、今や記憶が風化してしまっているかもしれませんね。


第4回 言葉にチカラはあるのか。

第3号から大分時間があいてしまって申し訳ありません。「これでわけのわからない文章も終わりだ」、と思ったみなさん、ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、まだ続けちゃいます。

朝日新聞の最近の広告に「言葉は、感情的で、残酷で、時に無力だ。それでも私達は信じている。言葉のチカラを。」というのがあります。僕は、基本的にその広告の方向性自体は良いと思うのですが、その「言葉の可能性を信じている。」という言葉が、どうにも軽くていやらしくて、我慢がなりません。「そんなに絶望的でも『言葉の可能性』を信じている僕達ってかっこいいでしょ」という臭いがプンプンする気がするのです。目の前で死にかけている人がいても「私達は言葉のチカラを信じている。」といってワープロに向かってそうなイメージが湧いてしまいます。それはただ自分の取り組み方以外の取り組み方がないのかどうかを考えないようにしてしまっているだけなのでは、と思ってしまいます。

言葉のチカラということでいえば、たとえば僕も以前、

「絶望の虚妄なることは、希望がそう(虚妄)であるのと同じである」

という魯迅(中国の作家)の言葉に、感銘を受けたことがあります。もちろん「希望がそうであるのと」という部分は魯迅のシニシズムを表しており、手放しに肯定しうるものでも軽々しく否定できるものでもありませんが、それでも自分の絶望にこもりがちである僕は、この言葉にとても勇気づけられました。ただ、ちょっと表現としては甘く、現実をとらえ損ねていると思ったので、僕はこれを次のように言い換えたことがあります。

「この世界の現実は、私達の想像以上に絶望的ではあるが、私達の絶望ほどには絶望的ではない。」

僕は、このように言い直すことで、より正確な表現になったとは思いました。しかし、正確な表現になったことに心が充足する自分を、嘘くさいとも思いました。

 なぜなら、このように現実を表す象徴をいくら練り上げようとも、ある象徴をどちらの方向に用いるかは、すでにその象徴を「知覚」する主体の心の内に用意されている、ということがおそらく冷酷な現実であると思うからです。たとえば、「この言葉や音楽を聞いて、元気が出た。」という誰にでもある経験も、あくまで元気を出したいと願っている自分がいるからこそ、そうなるのでしかないと思います。そのきっかけにしうるものを自分の意志から「きっかけ」に選んでいるだけでしょう。魯迅の言葉を「きっかけ」に元気の出た僕は、その前から「元気を取り戻したい」と思っていただけだ、というのがおそらく正しいのです。それはまた、僕がどのように言葉を工夫しようとも、そのように触媒として援用される以外に何かの役に立つことはないということを意味します。そこに物質がなければ、いくら酸素があろうと光も熱も起きません。それと同じように、どんなに深く真理を貫いた言葉でも、それを理解する準備のない人間には何も働きかけないのです。

 さらに問題はあります。それが理解されたとして、そもそもその言葉は役に立っていると言えるのでしょうか。たとえば僕は魯迅の言葉と出会っていなければ、また他の似たような言葉と「出会って」(即ち無意識のうちに探し出して)いたでしょうし、1つも出会わなければ、自分自身で元気を出そうと決意していたかもしれません。僕が魯迅の言葉から受け取ったこの「感銘」は、もはやそこから逃れることができないまでに完結した自己をあえて外へと照射してからそれを受け取ることで、あたかも「外から何かを受け取った」という事実をでっちあげたいという願望によって作り出された物であるのかもしれません。(自分たちの会社の中にある株式の売却益を外から得た売上であるかのように粉飾したライブドアのように。まさにあのようなことを、僕達は認識のレベルにおいてしているのかもしれません。外から何かが伝わりうる、あるいは自分も他の人へと何かを伝えうるという希望を信じるために、です。ラッセルも「人間はどうして自分の脳の中のことしか見れないのか」と言っていました。僕はそこに「どうして人間は自分の脳の中のことしか見ていないのに自分の脳の外を見ている振りをするのか。」と付け加えた方が良いとも思います。)

それを思えば、先の僕の言葉は言葉としてもまだまだ甘すぎました。僕は、自分の言葉にこのように訂正をしなければならないと思います。

「この世界の現実は、私達の想像以上に絶望的ではあるが、私達の絶望ほどには絶望的でないのかもしれない。」

 魯迅の言葉も、それを翻案した僕の最初の言葉も、それがこの世界の現実を描こうとするつもりでありながら、やはりある種のプロパガンダとしての役割を帯びてしまう甘さがありました。この世界の汚さに絶望して死を選ぶ人間をこの世につなぎ止め、もう少し生き延びさせるための説得の言葉として利用される隙があります。もちろんそのように悩む人々に頑張って生きてほしいという思いを、僕もまた同じく持っています。しかし、現実を偽って自分の願望を相手に押しつける言葉はプロパガンダでしかありません。そのような嘘くさい言葉では、心を痛めるがゆえに生きることに苦しんでいる人々の心には、やはり届かないのです。
 そして、結局大切なのは、この(下線を引いた)「かもしれない。」ということです。「言葉のチカラを信じ」れば、それに向かって頑張ることはまだやりやすいことです。しかし、それはやはり、自分に都合のいい幻想を抱くことで頑張れているだけであり、「言葉にチカラはあるのだ」という思いこみの中で生きる人間を産み出してしまうと思います。言葉にチカラはあるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、そこにチカラがあると思いこむことなく、その「かもしれない」ことに、自分のすべてをつぎ込んで生きていけるか。それだけが、あらゆる局面において、僕達に問われ続けていることであると思います。

 言葉にチカラはあるのか。それはそのように生きていった末に初めて、一人一人にとってわかるかもしれない問いです。自分に何かが伝わっているのかどうかを悩むことも、自分が何かを伝えうるのかどうかを悩むことも、無駄なことです。チカラがあるのかどうかを気にせずに、「これを伝えたい」と思う気持ちという、ほんの小さな芽をのびゆくままに、天井も大気圏も気にせず伸びゆかせ、また地面へと深く深く根を下ろしていくしかないと思います。それはまた、真実へと迫る言葉を産み出すかもしれません。自らの願望を押しつけずに真実に迫ろうとする言葉のみが、言葉と行動との間の壁を壊すチカラとなりうる言葉であると思うのです。
                                           2006年3月5日
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