
今年7月に出版された、向坂くじら第一詩集『とても小さな理解のための』が卒塾生の詩集であるという贔屓目を差し引いてもなお、とても素晴らしいのです!ということでその詩集のレビューをいつもどおりの長文で書こうと思います。
まずはこの話から。(当分書評に入りません。申し訳ないです)
ベルクソンは我々が現実だと思っている現実というのは、あくまで現実の中のごく一部でしかないことを指摘します。そして我々はあまりにも多様な現実の中でごくごくわずかなその一部分のみを取り出して、それを現実と呼ぶことで何とか情報処理をパンクさせないようにして暮らしている、ということを指摘しています。
ベルクソンによるとそうした多様で膨大な現実の中で、我々が自分にとって現実を絞り込む基準となっているのは「有用性」である、ということです。我々は自分の生存にとってそれが道具として、材料として、その他のものとして、それが役に立つかどうかだけを考え、その役に立つかどうかという側面しか見ないことで、何とかこの多様で膨大な現実の中で情報を取捨選択して生きている、ということですね。
これは物に対してだけでなく、人に対してもそのような見方でついつい見てしまっているのが我々なのかもしれません。どのように自分にとって役に立つかだけを考えてはそれだけでついつい見てしまう、というのは私達が人を物扱いしているというだけでなく、物をもまた物そのものとして扱えているのではなく、有用性という見地から物の様々な側面を捨てて認識してしまっている、ということなのでしょう。
さて、「しまっている」と否定的ニュアンスを込めて書きましたが、「そうしなきゃ行動も生活もできないんだから、仕方ないじゃないか!!」「むしろそのように有用性だけを絞り込めることにこそ人間の賢さがあるのではないか!!」という主張もあるとは思います。ただ、このように自分の周りを自分にとっての有用性のみで意義付けし、そしてそれを「うまいこと」使って生きていこうとする、というのは人間に特有の能力ではなく、むしろ人間以外の全ての動物に見られる共通の特徴でもあります。つまり、この「うまいこと利用する」は人間を人間たらしめるものではない、ということです。
ならば、人間を人間たらしめるものはなにか、といえば知性の発達とそれ故の意識の発達により、我々が周囲の世界を有用性以外の観点から見られるようになったということであると思います。この「短期的有用性の奴隷」状態からの人間の脱却と、無駄に見えること、意味がないように見えることにも意義を見出し、それについても考えたり試行錯誤をしたり、その一見無駄に見えたことがのちのち大きな有用性を持つことに気づいた結果として、人間の文明はそもそも直接的な有用性へと敏感な本能をはるかに発達させている他の動物や昆虫よりも、より遠くへと行くことができたのでしょう。その点で、無駄なものなど何もなく、我々がとりあえず役に立たないとしているものについても、本当に役に立たないかどうかはわかりません。だからこそ、私達が自らをその短絡的な有用性の奴隷へと自らを貶めることは、単に世界観の貧しさという点で劣っているだけではなく、実は有用性の新たなる発掘という点においてもなお、人間の可能性をどぶに捨てている、と言えるのだと思います。
さて、そのように整理してみると、自らが日常の有用性に基づいて世界を狭く狭く切り取っているときに、その狭さに気付かさせてもらえる媒介になるようなものとは何なのか。その一つが芸術であり、詩であるのでしょう(ようやく詩の話になってきました!)。何かしら大事なものを日々を生きていく中では必要ないものとして切り捨てないと、私達は生活を送ることができない。しかし、それが片手落ちどころかほぼほぼ全て落としており、決してそのまま生活できていればいいや!とは思えないほどに人間の精神には自らが現実のほんの一側面しか切り取らないで生きている自分に違和感を覚える機能がある。そしてそれはまさに人間固有の「喪失感」として人間を人間たらしめてくれるものである。でも私達は自分では何を捨てているのかについてなかなか気づくこともできないし、現代社会の忙しさと高度に発達した魔法のような文明は、むしろ私達に「すべてのことをわかっている必要も考える必要もないんだよ。ただ、それが便利に使えていればいいじゃない。」という方向へと私達を飼い慣らしていきます。
こうしてみると、人間の知性から生まれたはずの「直接的有用性の奴隷状態からの離脱」が生み出したはずの我々の高度な文明は、我々自身に「直接的有用性の奴隷状態」になることを、以前とははるかに比べ物にもならないペースと圧力で要求してくるようです。有用性を最大限に利用するためには無駄なことをしている暇などないわけです(中学に入学したらすぐに大学受験のための予備校に行くように。)こうして人類の黄昏はやがてくるのでしょう。考えないで良いことは考えないようにしよう。少なくとも我々は何を考えるべきかについてはもう十分に知っているはずだ。だから、考えるべきことだけを考えれば良く、それ以外のことを考えることは無駄に過ぎない、という合理性の名の下に。
このようにして、私達は考えることに無駄すら許されなくなります。学問ですら、「競争的資金」という有用性競争によってそのような「有益な」研究を生み出せという圧力を受け続けます(そして、日本の研究機関はその圧力で壊滅的になっています)。
このような中で唯一無駄に考えることを許されているのは芸術家です(といっても芸術に国家の補助金も入ってしまっていますが)。さらにはその中でも何の役にも立たない詩人なんかはまさにその最たるものでしょう。そもそも何の役にも立たない存在として見捨てられているからこそ、無駄に考えることを許されている。それは、人間にとっての唯一の抵抗の根拠となりうるものかもしれません。
さて、ようやく書評に入れるわけですが、向坂くじらさんのこの詩集は、私達が「考えても仕方のないこと」「それはそういうものとして受け入れていること」「生きていくこととはそういうこと」に徹底的に引っかかり、違和感を述べ続けます。それはまさに、有用性を求めて生きられる生活の中で光を当てられていない世界の別の側面に光を当てるものが詩である、という詩の真っ当な定義に沿ったものであると思います。
ただ、それだけではないのがこの詩集の恐ろしいところです。この詩集は「こんなふうにも考えられるよね?」と私達の日常への狭い見方を解きほぐしてくれるだけではありません。「こんなふうにも考えられるよね?(って言わないと私は生きていけないのだ。)」というその言葉を発せねばならない詩人の必然性に満ち満ちているように感じられます。私達が有用性のもとに踏みにじっている現実の別の側面に対して、踏みにじられる側の痛みと苦しみとやるせなさとに満ち満ちているのです。それはあるいはフェミニズムという言葉で見えてくるものであったり、あるいはLGBTQという言葉で見えてくるものであったり、あるいは…。と様々です。このように行間から立ち上がる何かが、向坂さんが踏みにじられている当事者だからなのか、踏みにじられている人にどこまでも共感してしまうからなのか、またはその両方なのか、という内実はわかりません。ただ、これを可能にしているのが文学的想像力だと言えるのであれば、そして人は自らの体験からしか語り得ないとする実存主義的立場が振りかざされるのにはくっきりと抵抗している、と言えるのではないかと思います。
もちろん、我々はある点でふみにじられるminorityでありながら、別のある点ではふみにじるmajorityでもあります。どの点でもminorityである人は存在しません。それを志すこともまた、ある意味で属性によって自身の特権的言論を確保しようとするいやらしい試みでもあるわけです。むしろ私達はどんなにminorityとして踏みにじられる部分を様々な面で感じ続けようとも、自らのmajorityとしての特権性へと耐えず目を向け続けていかねば、容易に道を踏み外していきます。
向坂さんの詩を発するその必然性に、嘘がないとは言いません。想像力とは、嘘の別名であるからです。しかし、閉じる膜のような家庭に、恋愛と結婚へと結び付けられてしか語られない愛に、社会的役割によってしか定義されない自己に、生活へと取り込まれた動物の死体の摂取(食事)に、その他様々な有用性ゆえに要求される一面的解釈という暴力に踏みにじられるその痛みにこの詩人が抗議するとき、それは自分のために怒りつつ、他人のために怒っていて、そこではもはや自他の区別はないように読み取れます。
もちろん、このように読者に感じ取れるこの詩人の「切実さ」もまた、想像力の産物なのかもしれません。そこにこの詩人の実存を読み込もうとする読み方も、実存主義をひそかに導入しているという点では卑怯な論考であるようにも思います。しかし、その切実さへの想像力がもし可能であるのなら、単に作品を生み出す、詩を書く、ということよりももっと大切ななにかに繋がるものであるとも思います。その「嘘」への懸命な、祈りのようでさえあるチャレンジを、一行一行に感じることができるのではないか、と思います。
私達が有用性のために見る暇がないと思っていたものに対してただ気づかせてくれるだけではなく、それらに目を向けなければいけない切迫性にも、「そんなことに目を向けてなんかいられない!」という余裕の無さにも、どちらにも寄り添ってくれるような詩の数々です。人間は「余計なこと」ばかりを考えると同時に、人間は「余計なこと」を考えてちゃいけないと自分を追い詰めて生きざるを得ません。先に長々と書いたように、現実を有用性という側面だけで評価せずに「余計なこと」を考えられるのが人間のアイデンティティだとしても、そのアイデンティティが生み出した文明によって人間はさらに「余計なこと」を考える余裕を失うところに追い詰められてもいるわけです。その中で詩のもつ可能性は、実はとても大きなものではないか。そのことを教えてくれるような詩集だと思います。
私はあなたではない。それは絶望なのか。それとも希望であるのか。
この事実を絶望にしないためにこそ、人間の想像力はあると思います。決して届きえない手を何とか届けようと手を伸ばし続けるために。そのようにもがくすべての人にとって、この詩集は大切な本になるのでは、と思います。
まずはこの話から。(当分書評に入りません。申し訳ないです)
ベルクソンは我々が現実だと思っている現実というのは、あくまで現実の中のごく一部でしかないことを指摘します。そして我々はあまりにも多様な現実の中でごくごくわずかなその一部分のみを取り出して、それを現実と呼ぶことで何とか情報処理をパンクさせないようにして暮らしている、ということを指摘しています。
ベルクソンによるとそうした多様で膨大な現実の中で、我々が自分にとって現実を絞り込む基準となっているのは「有用性」である、ということです。我々は自分の生存にとってそれが道具として、材料として、その他のものとして、それが役に立つかどうかだけを考え、その役に立つかどうかという側面しか見ないことで、何とかこの多様で膨大な現実の中で情報を取捨選択して生きている、ということですね。
これは物に対してだけでなく、人に対してもそのような見方でついつい見てしまっているのが我々なのかもしれません。どのように自分にとって役に立つかだけを考えてはそれだけでついつい見てしまう、というのは私達が人を物扱いしているというだけでなく、物をもまた物そのものとして扱えているのではなく、有用性という見地から物の様々な側面を捨てて認識してしまっている、ということなのでしょう。
さて、「しまっている」と否定的ニュアンスを込めて書きましたが、「そうしなきゃ行動も生活もできないんだから、仕方ないじゃないか!!」「むしろそのように有用性だけを絞り込めることにこそ人間の賢さがあるのではないか!!」という主張もあるとは思います。ただ、このように自分の周りを自分にとっての有用性のみで意義付けし、そしてそれを「うまいこと」使って生きていこうとする、というのは人間に特有の能力ではなく、むしろ人間以外の全ての動物に見られる共通の特徴でもあります。つまり、この「うまいこと利用する」は人間を人間たらしめるものではない、ということです。
ならば、人間を人間たらしめるものはなにか、といえば知性の発達とそれ故の意識の発達により、我々が周囲の世界を有用性以外の観点から見られるようになったということであると思います。この「短期的有用性の奴隷」状態からの人間の脱却と、無駄に見えること、意味がないように見えることにも意義を見出し、それについても考えたり試行錯誤をしたり、その一見無駄に見えたことがのちのち大きな有用性を持つことに気づいた結果として、人間の文明はそもそも直接的な有用性へと敏感な本能をはるかに発達させている他の動物や昆虫よりも、より遠くへと行くことができたのでしょう。その点で、無駄なものなど何もなく、我々がとりあえず役に立たないとしているものについても、本当に役に立たないかどうかはわかりません。だからこそ、私達が自らをその短絡的な有用性の奴隷へと自らを貶めることは、単に世界観の貧しさという点で劣っているだけではなく、実は有用性の新たなる発掘という点においてもなお、人間の可能性をどぶに捨てている、と言えるのだと思います。
さて、そのように整理してみると、自らが日常の有用性に基づいて世界を狭く狭く切り取っているときに、その狭さに気付かさせてもらえる媒介になるようなものとは何なのか。その一つが芸術であり、詩であるのでしょう(ようやく詩の話になってきました!)。何かしら大事なものを日々を生きていく中では必要ないものとして切り捨てないと、私達は生活を送ることができない。しかし、それが片手落ちどころかほぼほぼ全て落としており、決してそのまま生活できていればいいや!とは思えないほどに人間の精神には自らが現実のほんの一側面しか切り取らないで生きている自分に違和感を覚える機能がある。そしてそれはまさに人間固有の「喪失感」として人間を人間たらしめてくれるものである。でも私達は自分では何を捨てているのかについてなかなか気づくこともできないし、現代社会の忙しさと高度に発達した魔法のような文明は、むしろ私達に「すべてのことをわかっている必要も考える必要もないんだよ。ただ、それが便利に使えていればいいじゃない。」という方向へと私達を飼い慣らしていきます。
こうしてみると、人間の知性から生まれたはずの「直接的有用性の奴隷状態からの離脱」が生み出したはずの我々の高度な文明は、我々自身に「直接的有用性の奴隷状態」になることを、以前とははるかに比べ物にもならないペースと圧力で要求してくるようです。有用性を最大限に利用するためには無駄なことをしている暇などないわけです(中学に入学したらすぐに大学受験のための予備校に行くように。)こうして人類の黄昏はやがてくるのでしょう。考えないで良いことは考えないようにしよう。少なくとも我々は何を考えるべきかについてはもう十分に知っているはずだ。だから、考えるべきことだけを考えれば良く、それ以外のことを考えることは無駄に過ぎない、という合理性の名の下に。
このようにして、私達は考えることに無駄すら許されなくなります。学問ですら、「競争的資金」という有用性競争によってそのような「有益な」研究を生み出せという圧力を受け続けます(そして、日本の研究機関はその圧力で壊滅的になっています)。
このような中で唯一無駄に考えることを許されているのは芸術家です(といっても芸術に国家の補助金も入ってしまっていますが)。さらにはその中でも何の役にも立たない詩人なんかはまさにその最たるものでしょう。そもそも何の役にも立たない存在として見捨てられているからこそ、無駄に考えることを許されている。それは、人間にとっての唯一の抵抗の根拠となりうるものかもしれません。
さて、ようやく書評に入れるわけですが、向坂くじらさんのこの詩集は、私達が「考えても仕方のないこと」「それはそういうものとして受け入れていること」「生きていくこととはそういうこと」に徹底的に引っかかり、違和感を述べ続けます。それはまさに、有用性を求めて生きられる生活の中で光を当てられていない世界の別の側面に光を当てるものが詩である、という詩の真っ当な定義に沿ったものであると思います。
ただ、それだけではないのがこの詩集の恐ろしいところです。この詩集は「こんなふうにも考えられるよね?」と私達の日常への狭い見方を解きほぐしてくれるだけではありません。「こんなふうにも考えられるよね?(って言わないと私は生きていけないのだ。)」というその言葉を発せねばならない詩人の必然性に満ち満ちているように感じられます。私達が有用性のもとに踏みにじっている現実の別の側面に対して、踏みにじられる側の痛みと苦しみとやるせなさとに満ち満ちているのです。それはあるいはフェミニズムという言葉で見えてくるものであったり、あるいはLGBTQという言葉で見えてくるものであったり、あるいは…。と様々です。このように行間から立ち上がる何かが、向坂さんが踏みにじられている当事者だからなのか、踏みにじられている人にどこまでも共感してしまうからなのか、またはその両方なのか、という内実はわかりません。ただ、これを可能にしているのが文学的想像力だと言えるのであれば、そして人は自らの体験からしか語り得ないとする実存主義的立場が振りかざされるのにはくっきりと抵抗している、と言えるのではないかと思います。
もちろん、我々はある点でふみにじられるminorityでありながら、別のある点ではふみにじるmajorityでもあります。どの点でもminorityである人は存在しません。それを志すこともまた、ある意味で属性によって自身の特権的言論を確保しようとするいやらしい試みでもあるわけです。むしろ私達はどんなにminorityとして踏みにじられる部分を様々な面で感じ続けようとも、自らのmajorityとしての特権性へと耐えず目を向け続けていかねば、容易に道を踏み外していきます。
向坂さんの詩を発するその必然性に、嘘がないとは言いません。想像力とは、嘘の別名であるからです。しかし、閉じる膜のような家庭に、恋愛と結婚へと結び付けられてしか語られない愛に、社会的役割によってしか定義されない自己に、生活へと取り込まれた動物の死体の摂取(食事)に、その他様々な有用性ゆえに要求される一面的解釈という暴力に踏みにじられるその痛みにこの詩人が抗議するとき、それは自分のために怒りつつ、他人のために怒っていて、そこではもはや自他の区別はないように読み取れます。
もちろん、このように読者に感じ取れるこの詩人の「切実さ」もまた、想像力の産物なのかもしれません。そこにこの詩人の実存を読み込もうとする読み方も、実存主義をひそかに導入しているという点では卑怯な論考であるようにも思います。しかし、その切実さへの想像力がもし可能であるのなら、単に作品を生み出す、詩を書く、ということよりももっと大切ななにかに繋がるものであるとも思います。その「嘘」への懸命な、祈りのようでさえあるチャレンジを、一行一行に感じることができるのではないか、と思います。
私達が有用性のために見る暇がないと思っていたものに対してただ気づかせてくれるだけではなく、それらに目を向けなければいけない切迫性にも、「そんなことに目を向けてなんかいられない!」という余裕の無さにも、どちらにも寄り添ってくれるような詩の数々です。人間は「余計なこと」ばかりを考えると同時に、人間は「余計なこと」を考えてちゃいけないと自分を追い詰めて生きざるを得ません。先に長々と書いたように、現実を有用性という側面だけで評価せずに「余計なこと」を考えられるのが人間のアイデンティティだとしても、そのアイデンティティが生み出した文明によって人間はさらに「余計なこと」を考える余裕を失うところに追い詰められてもいるわけです。その中で詩のもつ可能性は、実はとても大きなものではないか。そのことを教えてくれるような詩集だと思います。
私はあなたではない。それは絶望なのか。それとも希望であるのか。
この事実を絶望にしないためにこそ、人間の想像力はあると思います。決して届きえない手を何とか届けようと手を伸ばし続けるために。そのようにもがくすべての人にとって、この詩集は大切な本になるのでは、と思います。



