fc2ブログ

嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ある日の進路相談から。

「良い文章というのは誰か宛名が明確な(doesn't mean 「個人名を含む」)手紙でしかない!」というのは常々思うところなのですが、受験が差し迫ってくると目の前で必死に取り組む受験生一人一人に届けなければならない「手紙」が多すぎて、なかなかブログの方まで手がまわりません。と、そんなことを言っていると受験が終わるまで何もかけなくなってしまう可能性があるので、思い出したようにぽつりぽつりとまた書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾で一番自慢なのは何か、といえば進路相談なのではないかな、と思っています。それとともに、これはまた一番自信のない部分でもあります。そのことについて今回は書いていきたいと思います。

東大か医学部か、で進路に迷っている子の相談に先日乗りました。そのときに「東大か医学部か」という選択肢自体がそもそも与えられた環境の中で「飯が食える」選択肢を親に敷かれたレールの上で選択しているに過ぎないのではないか、そもそもそれは卑怯な二択であり、自分が信じる道に進むこと(彼の場合は音楽)に人生を懸けることから逃げているだけではないのか、という話になりました。

こちらの話したこととして、まず人生を賭けて一つの道を選んでいる人間には、小器用に東大とか医学部に行ったとして音楽もプロでやっていますという人はかなわない、というのは多々ある、という話を具体例を挙げて(ここでは語弊があるのでバンド名は挙げませんが)話しました。それがなぜなのかは難しいところです。ただ、僕自身も器用な方で、勉強だけでなくあれこれやってきたので自分なりに分析してみると、「なんでもできる」ということは「何もできない」とほぼ同義である、ということなのではないか、という話をしました。結局人生は短く、ポテンシャルとしては何でもできるとしても、何かに人生の全てを懸けなければ、一流にはなれません。そのときに「何でもできる」ことを自らのアイデンティティとしてきた人間というのは逃げ道がある分だけどうしても弱いものです。逆に何かに「魂を売る」ことのできる人間は、人生を懸けてそれに取り組むしかないわけです。だからこそ、「自分にはこれしかない!」と決めた上で「さて、これをどのように良いものにしていくか」という方向に退路を断てることのできる人間だけが、一流になれるのだと思う、という話をしました。

ただ、難しいのは「自分が素晴らしいと思うものを作ろう!」とそれだけに専心して退路を断って人生を懸けて取り組んだとして、さてそれで生計が立てられるのか、という問題です。我々がその一部である市場があらゆる分野において結局は質が高いものに正当な評価と報酬を与えられているのであれば、その市場の合理性を信じて、クオリティだけに全振りして人生を懸ける、ということも可能だとは思います。ただ、そこまで見る目がない愚かな我々は、素晴らしいものを評価したり支援したり、というだけの見る目も気概もなく、音楽や芸術をその場しのぎのものとして消費していることの方が圧倒的に多いのでしょう。そのような市場の中では、「クオリティに全振り!」という戦略は食べていけなくなることになります。あるいは「食べていくための音楽」と「自分がやりたい音楽」とを分け、前者で生計を立てつつ後者をやっていく、という手もあることにはあるわけです。たとえばテレビドラマに出ている有名な役者さんが、自分の所属していた劇団の公演を有名になった今も継続して出続ける、とかはそのパターンだと思っています(たとえば八嶋智人さんや山崎樹範さんとカムカムミニキーナとかはそういうパターンですよね)。このような頑張り方も当然あるだろう、という話も例を挙げてしました。あるいはお笑い芸人さんだって、ゴールデンタイムのバラエティ番組や昼の帯番組でニコニコ笑って毒にも薬にもならない事を「お笑い風」に言っては相槌打つだけの仕事でお金を稼ぎながら、ラジオや深夜番組やライブでは自分のやりたいお笑いを目指す、という働き方の方も多いと思います。これはどの業界でも直面する問題ですよね。(もちろんここには「誰も求めていないものでなければ、大多数が共有できないという仕組み」が果たして持続可能なのか、という問題もまた存在しています。これは民主主義の限界にも関わる話ですが、これは長くなるのでまた別の記事として書きたいと思います。)

さて、そのように市場の不完全性の中で行きていく道を探していかねばならないという事実を前提とすると、この「生計のための仕事」と「自分が追究すべき仕事」とのグラデーション、というのは実は音楽や芸能の道を専業として選んだとしてもついてまわる選択であるようです。だととすると、たとえば大学に行って、あるいは医学部に行って就職や医師になったとしてそれと並行して音楽の創作や発表を続けることとそれはどう違うのか、という話になりました。もちろんこの選択をすることは、自分が音楽をやがて捨てることになる可能性もあります。しかし、そうなるならば、音楽は自分にとって必要のなかったことである、とも言えるでしょう。人は自分が避けられないものからは逃れられません。仕事が忙しく、それがそれなりに金銭的に成功を収めたら辞められる程度のものであるのなら、辞めた方がいい。そうでなければどんなに忙しくても呼吸のように創作は続けるだろうし(藤井風さんのyoutubeとか見たら、本当にそうですよね。まあ、あのような大天才と比べるのもどうか、と思いますが本当に呼吸のように音楽に取り組み続けておられると思います。)、それを両立していく中で音楽専業の方でやっていけるのなら、そのようにシフトしていけばよい、という話をしました。

そしてさらに、ヒット曲がメジャーレーベルにスカウトされてからではなく、YoutubeやTikTokから生まれる現状なら、そのような個人の作り手にもかなりチャンスがあると思う、という話もしました。もちろんそれを狙う若い人ばかりの過当競争に今はなってしまっているわけですが、それでもオーディションを受け、メジャーレーベルからデビューしないと、という時代よりははるかに戦い方があるよ、とも。

というように相談に乗ったわけですが、これが彼の悩みを解決することになっているのか、それともやはり学習塾としては常識的な結論である「まず大学受験を頑張ろう!」的なごまかしにしかなっていないのか、については僕自身も正直わからないところがあります。たとえばそれぞれの具体例を挙げながらいろんな可能性について考えていくこと自体はできる限り結論を決めてやらないように一緒にやっていき、そのための具体例も色々と出していくわけですが、結論としてこうなってしまうのには、「先生、わかりました!僕はもう大学受験なんか辞めて音楽一本でいきます!!」とならないように誘導している、と見られても仕方のないところもあります。

ただ、一方で、何かを専業としてそれに人生を懸けようと、複数の軸を作ってはそれぞれのことをやろうと、「食っていくためのこと」と「やるべきこと」とは常に分離していくのでしょう。その中でどのように継続して戦い抜く方法や戦略を考えていくか、ということは実は受験生に限らず、我々大人も日々直面し、試され続けているテーマであるのだと思います。嚮心塾もお陰様で最近は入塾希望の方が多く、生活はできているのですが、一方でこれが「食っていくため」だけの仕事になるのであれば、わざわざ教育のようなしんどいことに取り組もうと選んだ意味などまるでないわけです。「最初に様々な儲かる職業を捨てて儲からなさそうな個人塾を開業した!」という昔の決意に甘んじては、食っていくことだけを目標にして生きている現実をその過去の決断で糊塗してごまかそうと僕がしているのであれば、それこそたちの悪い「専業」者であると思います。「昔の理想を撒き餌にして、飯を食っては、自分の身の回りや家族のことしか考えていない矮小な人生を正当化している」という批判を避けられないでしょう。

心置きなく生きて死ぬためには、勇気を持って決断をし、努力しただけではダメで、勇気を持って決断をし続け、努力し続けなければなりません。少なくとも僕にとってのそれは、こうした生徒の進路相談のときに、どれくらい自分が(自分が食っていくためではない)本当の言葉を吐けるのか、それをどこまで自身が本気で悩み、模索し、調べ、考えているか、というただこの一点にて、絶えず試され続けます。

逆に言えば、このような若い世代の悩みに対して自身も必死に悩んだり考えたりするのではなく、「うーん。でも大学は出といた方がいいと思うけどなー。(またこの相談か。こいつなら大卒と高卒の生涯賃金の格差とかくらいの話しといたら納得するだろ。)」とテンプレートの、自身で疑いもしていない結論へと誘導する「説得」を繰り返すようになったときにこそ、嚮心塾は死ぬのだ、と思っています。どちらが良いのかは僕程度の能力や努力や経験では、本当にわからないことであるのです。本当にわからないからこそ、必死に考え、悩み続けるしかありません。

自身の内臓や脳みその裏側、もし心というものがどこかに存在するのであれば、その心の底までさらけ出すような進路相談をできるように、今日も必死に底の浅い自分を何とか掘り下げようともがき続けていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop