
マタヒバチ東京公演が大盛況のうちに無事終わり、塾も防衛医大を皮切りに入試シーズンに突入しつつ、とバタバタしていて気がついたらもう10月が終わろうとしています!!総選挙前に政治のことも書いておきたかったのですが、日々に追われて投票日二日前にこれを書くという。。手遅れかもしれませんが、書かないよりはマシなので書いていきたいと思います。
さて、今度の10月31日は衆議院議員総選挙です。ここまでの与党の説明責任をひたすらごまかした政権運営によってさんざん虐げられ、蔑ろにされてきた人のほうがはるかに多いのにもかかわらず、「やっぱり野党は責任能力がないから自民党か、お灸をすえるために維新…?」のような投票行動をする有権者も多いのでしょう。選挙情勢は与党にとって厳しいものの決定的ではまだないようです。
なんかでも、この「野党は無責任!」という主張(そもそも野党は何でも反対しているわけではなく、立憲民主党で約8割、共産党でも約5割の法案には賛成しています。当たり前で明らかに変えるべき法律の改正案に関しては、与野党一致することのほうが多いのです。この事実もあまり踏まえていない有権者は多いのでしょう。)を自民党や公明党、維新はことあるたびに言うわけですが、野党というのは日本の議会政治史上責任能力などをもったことがなく(そもそも持てる仕組みではなかった(後述します))、むしろ政権運営に対して批判を続けることでその政権運営がフリーハンドにならないようにブレーキを掛ける、という役割を担ってきました。これはたとえば2009年からの民主党政権のときにもまさに自民党が野党としてそれを徹底してきました。なので、「野党は無責任!」は当たり前であり、「政権運営能力がない」→「だから与党に投票する」という投票行動自体がこのような日本なりの議会政治の歴史を踏まえていないままに導入された「小選挙区制→二大政党制」という幻想に基づいた建前論でしかありません。実際に小選挙区制は野党が分立してしまえば勝ち目がなくなるわけで、今回のような選挙協力を野党はせざるをえません。非常に欠陥が大きい制度であるとともに、野党が不当にも受けている「政権運営能力がない」「無責任だ」という声高な批判はこのような小選挙区制→二大政党制という幻想を疑えていない、非常に浅はかな態度であると思っています。
と書くと「いやいや。55年体制のいわゆる『1.5大政党(一つの強い与党とその半分くらいの弱い野党)』をそもそも『日本の議会政治の原型』と見ている時点でそれは議会史の中のある部分を固有のものと見なしてしまっているだけだ!」という反論も来るとは思うのですが、このような「政府を批判することで政権運営に緊張感をもたせるが政権運営はできない(そもそも情報量が違う)」という自体は明治憲法下からそうだったみたいだ、ということを坂野潤治先生の『日本近代史』を読んでいたら最近学びました。まあ、そもそも明治憲法だと議院内閣制ではないですしね、とざっくりそうであろうとは思っていたのですが桂園時代とか、立憲政友会と立憲民政党とか、なんか二大政党っぽさがあるのかな、という雰囲気だと高校の教科書とか読んでるとついつい錯覚してしまっていました。しかし、明治以降日本に「どちらも政権を担える二大政党制」などというものは議会史上成立したことはないようです。
だからこそ、野党には55年体制下での「反対野党」のような戦い方で政権運営に緊張感をもたせる、というやり方以上のものが存在しない文脈の中にむりやり小選挙区制を導入して二大政党制を目指す!と「無理ゲー」な目標をいきなり導入したことのつけとして野党がひたすら「責任能力がない」などとアタリマエのことを口実にさんざん叩かれては、有権者もそれに踊らされて与党に入れる、その結果として緊張感のない政権運営が続き、ネポティズムや露骨な利益誘導、情報開示を徹底的に避ける、という不透明な政権運営が野放しになってしまっているのが現状であると思っています。(そもそも野党に責任能力がないのはあたりまえで、官僚組織をフルに使える与党と、国会議員やその事務員が必死に手弁当で調べる野党で情報格差がありすぎるのは当たり前なのです。それをもって「責任能力がない」批判をするなら中国共産党のように一党独裁をしたほうがより良いことになってしまいます。「野党に責任能力がない」という批判の浅はかさがこの一点をとっても気付けないのは不幸なことです。)
政治学用語で言うviscosity(粘着性)というのはこのような「制限選挙によらない自発的一党独裁」という世界的にも類を見ない日本の自民党一強体制の中で、議会政治がどのように機能しうるのかを模索してきた与野党議員による国会運営の中で注目されてきた概念なわけですが、今の日本の議会政治というのはこのviscosityを失ったものの、二大政党制とは程遠い状態(そもそもそれが日本の議会政治史で存在したことないわけなの)で、1.5大政党制のメリットを失い、2大政党制のメリットを享受できていないままに、政権運営の恣意性を野党はもちろん与党内ですらチェックできなくなってしまった、というのが現状です。(もちろん二大政党制が理想でないのと同様に、1.5大政党制が理想であるわけではありません。それが成立していたのは日米安保体制に守られているがゆえ…など、これも複雑です。ただ、現状としてはそのように議会政治自体がどちらのメリットも享受できないままに危機に瀕している、というのが日本の現状であると思います。)
この現状を分析してみれば、「野党は責任能力ないからやっぱり与党に投票!」という投票行動がいかに愚かか、がわかります。
と書いてみるのは簡単なのですが、これをすべての有権者がしっかり勉強して分析して、正しく投票行動をする、ということ自体が本当に難しいですよね(ということであれこれリンクを貼りましたが、これでもなかなか高校生だと読むのが難しいでしょう)。。だから「勉強」(というと主に受験勉強になってしまいますよね)ができる人が偉い!とか言いたいわけではなくて、東大や京大出身の大人やその学生も、全くこういうレベルでは教養不足、勉強不足な人ばかりです。だから彼らは自身の勉強不足を隠しては知ったかぶりをできるように、容易に現状維持のシニシズムに加担します。それはたとえば、twitterでの医師クラスタや元官僚クラスタ、あるいは理系学者達が彼らのその意見を維持し続けるのにどんなマイナス材料があっても基本的には与党支持の姿勢を崩さずに自らのそうした意見の客観性を主張するところを見ればわかりやすいと思います。
そしてこのような政治史を教える教育機関、というものが日本にはほとんど存在しません。唯一、外山恒一さんが手弁当でやっておられるくらいしか僕は寡聞にして知りません。
投票一つとってもこれだけ色々考えて勉強して投票しなければならない、となるとほとんどの人には荷が勝るものであり、そうなると「政治についてしっかり勉強した人だけが投票できる制限選挙が一番良い!」という主張に傾きがちです。ただこれはこれで難点もあり、その「しっかり勉強」する内容の公平性や中立性をどう担保するか、というのはこれまた難しい問題であり、これが手弁当の私塾の域を超えて公的な制度になればなるほどに、勉強内容自体への干渉が(たとえば竹島問題についての駿台予備校への干渉のように)入ってくることになってしまいます。そうなれば結局はドグマティックになってしまいます。(たとえば財務省在籍者・出身者の均衡財政への執着は、僕はもはや「宗教的」としか思えないのですが、あれはやはり「それを目標とする組織でそのような教育を徹底的に施せばどんなに優秀な学生たちもそれしか見えなくなる」ということの好例(悪例?)だと思っています。「有権者教育」やそれに基づく「制限選挙」も気持ちはよくわかるのですが、しかしそのようにならない理由がないとも思っています。)
本当に難しい問題です。それでも教育にはこうしたことにも批判力や判断力を養っていく責任があると信じて、やれることをやっていきたいと思います。
さて、今度の10月31日は衆議院議員総選挙です。ここまでの与党の説明責任をひたすらごまかした政権運営によってさんざん虐げられ、蔑ろにされてきた人のほうがはるかに多いのにもかかわらず、「やっぱり野党は責任能力がないから自民党か、お灸をすえるために維新…?」のような投票行動をする有権者も多いのでしょう。選挙情勢は与党にとって厳しいものの決定的ではまだないようです。
なんかでも、この「野党は無責任!」という主張(そもそも野党は何でも反対しているわけではなく、立憲民主党で約8割、共産党でも約5割の法案には賛成しています。当たり前で明らかに変えるべき法律の改正案に関しては、与野党一致することのほうが多いのです。この事実もあまり踏まえていない有権者は多いのでしょう。)を自民党や公明党、維新はことあるたびに言うわけですが、野党というのは日本の議会政治史上責任能力などをもったことがなく(そもそも持てる仕組みではなかった(後述します))、むしろ政権運営に対して批判を続けることでその政権運営がフリーハンドにならないようにブレーキを掛ける、という役割を担ってきました。これはたとえば2009年からの民主党政権のときにもまさに自民党が野党としてそれを徹底してきました。なので、「野党は無責任!」は当たり前であり、「政権運営能力がない」→「だから与党に投票する」という投票行動自体がこのような日本なりの議会政治の歴史を踏まえていないままに導入された「小選挙区制→二大政党制」という幻想に基づいた建前論でしかありません。実際に小選挙区制は野党が分立してしまえば勝ち目がなくなるわけで、今回のような選挙協力を野党はせざるをえません。非常に欠陥が大きい制度であるとともに、野党が不当にも受けている「政権運営能力がない」「無責任だ」という声高な批判はこのような小選挙区制→二大政党制という幻想を疑えていない、非常に浅はかな態度であると思っています。
と書くと「いやいや。55年体制のいわゆる『1.5大政党(一つの強い与党とその半分くらいの弱い野党)』をそもそも『日本の議会政治の原型』と見ている時点でそれは議会史の中のある部分を固有のものと見なしてしまっているだけだ!」という反論も来るとは思うのですが、このような「政府を批判することで政権運営に緊張感をもたせるが政権運営はできない(そもそも情報量が違う)」という自体は明治憲法下からそうだったみたいだ、ということを坂野潤治先生の『日本近代史』を読んでいたら最近学びました。まあ、そもそも明治憲法だと議院内閣制ではないですしね、とざっくりそうであろうとは思っていたのですが桂園時代とか、立憲政友会と立憲民政党とか、なんか二大政党っぽさがあるのかな、という雰囲気だと高校の教科書とか読んでるとついつい錯覚してしまっていました。しかし、明治以降日本に「どちらも政権を担える二大政党制」などというものは議会史上成立したことはないようです。
だからこそ、野党には55年体制下での「反対野党」のような戦い方で政権運営に緊張感をもたせる、というやり方以上のものが存在しない文脈の中にむりやり小選挙区制を導入して二大政党制を目指す!と「無理ゲー」な目標をいきなり導入したことのつけとして野党がひたすら「責任能力がない」などとアタリマエのことを口実にさんざん叩かれては、有権者もそれに踊らされて与党に入れる、その結果として緊張感のない政権運営が続き、ネポティズムや露骨な利益誘導、情報開示を徹底的に避ける、という不透明な政権運営が野放しになってしまっているのが現状であると思っています。(そもそも野党に責任能力がないのはあたりまえで、官僚組織をフルに使える与党と、国会議員やその事務員が必死に手弁当で調べる野党で情報格差がありすぎるのは当たり前なのです。それをもって「責任能力がない」批判をするなら中国共産党のように一党独裁をしたほうがより良いことになってしまいます。「野党に責任能力がない」という批判の浅はかさがこの一点をとっても気付けないのは不幸なことです。)
政治学用語で言うviscosity(粘着性)というのはこのような「制限選挙によらない自発的一党独裁」という世界的にも類を見ない日本の自民党一強体制の中で、議会政治がどのように機能しうるのかを模索してきた与野党議員による国会運営の中で注目されてきた概念なわけですが、今の日本の議会政治というのはこのviscosityを失ったものの、二大政党制とは程遠い状態(そもそもそれが日本の議会政治史で存在したことないわけなの)で、1.5大政党制のメリットを失い、2大政党制のメリットを享受できていないままに、政権運営の恣意性を野党はもちろん与党内ですらチェックできなくなってしまった、というのが現状です。(もちろん二大政党制が理想でないのと同様に、1.5大政党制が理想であるわけではありません。それが成立していたのは日米安保体制に守られているがゆえ…など、これも複雑です。ただ、現状としてはそのように議会政治自体がどちらのメリットも享受できないままに危機に瀕している、というのが日本の現状であると思います。)
この現状を分析してみれば、「野党は責任能力ないからやっぱり与党に投票!」という投票行動がいかに愚かか、がわかります。
と書いてみるのは簡単なのですが、これをすべての有権者がしっかり勉強して分析して、正しく投票行動をする、ということ自体が本当に難しいですよね(ということであれこれリンクを貼りましたが、これでもなかなか高校生だと読むのが難しいでしょう)。。だから「勉強」(というと主に受験勉強になってしまいますよね)ができる人が偉い!とか言いたいわけではなくて、東大や京大出身の大人やその学生も、全くこういうレベルでは教養不足、勉強不足な人ばかりです。だから彼らは自身の勉強不足を隠しては知ったかぶりをできるように、容易に現状維持のシニシズムに加担します。それはたとえば、twitterでの医師クラスタや元官僚クラスタ、あるいは理系学者達が彼らのその意見を維持し続けるのにどんなマイナス材料があっても基本的には与党支持の姿勢を崩さずに自らのそうした意見の客観性を主張するところを見ればわかりやすいと思います。
そしてこのような政治史を教える教育機関、というものが日本にはほとんど存在しません。唯一、外山恒一さんが手弁当でやっておられるくらいしか僕は寡聞にして知りません。
投票一つとってもこれだけ色々考えて勉強して投票しなければならない、となるとほとんどの人には荷が勝るものであり、そうなると「政治についてしっかり勉強した人だけが投票できる制限選挙が一番良い!」という主張に傾きがちです。ただこれはこれで難点もあり、その「しっかり勉強」する内容の公平性や中立性をどう担保するか、というのはこれまた難しい問題であり、これが手弁当の私塾の域を超えて公的な制度になればなるほどに、勉強内容自体への干渉が(たとえば竹島問題についての駿台予備校への干渉のように)入ってくることになってしまいます。そうなれば結局はドグマティックになってしまいます。(たとえば財務省在籍者・出身者の均衡財政への執着は、僕はもはや「宗教的」としか思えないのですが、あれはやはり「それを目標とする組織でそのような教育を徹底的に施せばどんなに優秀な学生たちもそれしか見えなくなる」ということの好例(悪例?)だと思っています。「有権者教育」やそれに基づく「制限選挙」も気持ちはよくわかるのですが、しかしそのようにならない理由がないとも思っています。)
本当に難しい問題です。それでも教育にはこうしたことにも批判力や判断力を養っていく責任があると信じて、やれることをやっていきたいと思います。



