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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

今秋の東京公演に向けて劇団マタヒバチ紹介!!

去年、今年とどくんごツアーはないわけですが、しかし、このコロナ禍であっても各地で公演をしているテント芝居は多いのです。その中でも京都に本拠地を置く劇団マタヒバチを今年の秋に東京に呼べることに決まりました!!

10月9日(土)、10日(日)、11日(月)19時開演(開場は30分前)です。

場所はJR中央線東小金井駅徒歩2分コミュニティステーション東小金井という線路高架下のイベントスペースに特設テント劇場が立ちます!アクセスが抜群に良いので、ぜひぜひお越しください!!!

さて、そこで、マタヒバチって何?となりがちな東京の皆さんに雑駁ながらご紹介をできれば、と思います。
もちろん芝居なんて見るに限るわけで、言葉で紹介するなんてのがもう野暮でしかありません。ただ一方で、僕自身去年はマタヒバチの芝居を複数回観ているのにもかかわらず、このブログで紹介したのはこの記事ぐらいなので、僕自身のまとめとしても、ですね。是非お付き合いいただけたら。

①とにかくしゃべくる!!そしてめちゃくちゃ緻密なアホらしさ!!
めちゃくちゃ喋ります。っていうと、小難しく聞こえてしまうかもしれませんが、基本ひたすらアホらしいです。
しかし、この「ひたすらアホらしい」セリフの応酬を、どんだけ練り込んでるんだ!!!と思うくらいに緻密に構成しては徹底的に演じる、というこの姿勢。このアホらしさへの常軌を逸したこだわり、作り込みがなんというか、素晴らしいのです!!

これはどくんごの劇評とかでも書いたと思うのですが(これです)、坂口安吾の『茶番に寄せて』で描かれるような「茶番をどこまでも徹底的に真剣に演じようというその合理精神の凄み」というものをマタヒバチのこのしゃべくりからは感じます。もちろんこんな時代に舞台、ましてやテント芝居するなんて、メタ構造で見たってそういった「茶番をどこまでも徹底的に、という合理精神」であるわけですが、それが芝居の作りにおいても「アホやるぞ!!」というその徹底度合いがかなり肚が据わっています。そのような追求の仕方があるからこそ、それが「破れるとき」に大きなドラマが生まれるわけです。その道化を徹底するという覚悟をマタヒバチの芝居からは強く感じます。

②筋があるのに筋から離れる。だがしかし、それがいい。
筋があるのに筋から離れてよくわからないところがクローズアップされ、異常に盛り上がっていきます。しかし、それがとても良いのです。筋があって結びに向かっていくということは、個々のシーンがそれ自体独立した意味よりも結びのためのパーツや伏線としての役割をもたねばならなくなります。もちろんその構築や伏線の巧みさに唸らされる、というのも芝居の醍醐味であるのかもしれませんが、一方でそれは「リアルタイムで目の前で演じられる」という情報量過多の中では、「それやったらこういう芝居やるとオモロイから筋とか関係なくもっとゴリゴリやったらええんちゃう?(エセ関西弁ですが。。)」と言わんばかりに入って来る「やりたいシーン」がとても素晴らしいです!!

結局こうしたシーンが芝居全体の中でどのような位置づけであるのか、ということもまた深く考えさせられます。もちろん
ここに深い意図があるのかないのか、というのはどちらでもよいことです。「作り手としてはその一見逸脱したシーンが全体のテーマに接続する深い意図がなければならない!」というのは作り手としての倫理観としてはとてもよくわかる話ではあるのですが、一方でその意図を設定することはどうしても「説教臭く」なりがちです。マタヒバチは(あくまで僕の観た感想ですが)芝居を作っていく中で、「こっちの方がオモロイ!」という直観に対しての根本的な信頼感があるように思っています。むしろその直観を何とか筋と接続するようにもっと修正しなくてもいいんじゃない、とまで僕は思います。(まあ、このあたりは個人の好みもあるでしょうが。)

③そして「オモロイ!」だけではない!
「なるほど。オモロイのね。」というところで油断してはいけません。マタヒバチの芝居はそれだけしゃべくりながら、時に幻想的であり、ときに風刺的であり、ときに詩的であり、と現実との境目をいったりきたりします。何かの既存の大きな物語にイメージを借りることなく、物語を語ろうとするその姿勢は、真正面から「物語」とぶつかり合おう、という心意気を感じます。時を超えた古典にすべてが語られ尽くしている中で人はそもそも新しい物語を紡ぐことができるのか、という難問に対して向き合い、本歌取りやモチーフを作ることなく、新たな物語を語ろうという覚悟と決意に満ち満ちています(これは野らぼう、ベビー・ピーといった劇団もすべてそうです。本当に素晴らしい覚悟で物語を紡ぐことに取り組んでいる、と思っています)。そのような困難に取り組むということは、もちろんうまくいくときもあれば、大きく失敗する、というときもあるでしょう。しかし、「このハイパーリンクでこういった有名作品のコンテクストを追っておいてくれると、ほら、うちの芝居もわかってくるでしょ?」という('Augmented Reality 'ならぬ'Augmented Play'のようには)言い訳を一切許さないその姿勢は、あらゆるものが語り尽くされてしまったかのような現代においてなお、どう創作に関わるか、という難問に対する一つの確固たる態度であり、またそれが成功する瞬間も確かに立ち上がっている気もします。

自分たちが「オモロイ!」と思ったことへの直観を信じて作り込みながら、しかし、物語を紡ごうとすることもまた諦めない、というこのマタヒバチの芝居を、是非多くの方に観ていただきたい!そのように思います。

ご予約はこちらのマタヒバチ予約フォームまたは嚮心塾までご連絡ください。ご予約お待ちしております!!

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夏休みの宿題はやらない方がいい。

ご無沙汰しております。あまりにも忙しくバタバタと教えていたら、気がつけばもう8月も半ばです。この間10月のマタヒバチ東京公演とかの準備もあり、あまりに忙しくて本すらちょこちょこしか読めていないという。。しっかり立て直したいと思います。

さて、学校の宿題のひどさについて、facebookの方に投稿しました(公開設定なので、どなたでも見れると思います)。

まあしかし、これでも書ききれていないくらいヒドイ宿題!!!に悪戦苦闘する塾生たちと日々直面し、何とか彼ら彼女らがせっかくの勉強時間を少しでも実力をつけていくことに費やしていけるようにあれこれ作戦を練っています。

まず、多くの親御さんにご理解いただきたいのは「学校の宿題はやらないほうがいい」というのが現在の実状である、ということです。特に私立中高、都立一貫校といった「うちは大学進学に力を入れています!」というところの宿題は本当に質も量も酷いものです。

これらの大量の、かなり難しい宿題をこなさなくてはならない中高生は、結局「よくわからないままにとりあえず埋める」ことで彼らの夏休みの勉強時間の大半を潰すことになります。一学期の中でわかっていなかったところを復習する時間も、二学期の予習をする時間も全てこの「大量の宿題を何とか終わらせる」ことに費やされてしまい、勉強はしているものの力もつかず、さらには勉強自体へのモチベーションも下がってしまいます。

それを親御さんが「まずは学校の宿題でしょ!」「宿題は終わったの?」ばかりプレッシャーをかければ、当然中高生は「宿題を終わらせる」=「勉強する」としか思いません。しかし、いくらこのようなレベルも量もおかしい宿題を終わらせても、全く力はつきません。結果として「真面目に宿題をやる(やらせる)」ことが、その子の学習の遅れをどんどんひどくしてしまうことにつながってしまっています。

この現実をまずは多くの親御さんに知っていただきたい。そしてどうしてこんなことが起きているかといえば、学校の先生の出す宿題が極めてテキトーであるからです。「たくさん出しときゃいいんだろ!」「難しい問題出しときゃいいんだろ!」「青チャートとかフォーカスゴールドやらせとけばいいんだろ!」という思考停止に陥った宿題ばかりです。しかし、中高生に難しい問題を大量に宿題で出したとして、それをこなした上で一つ一つわからないところを教科書から復習して理解できるだけの学習時間を彼らがとれるわけがないのです(それは中高生がサボっている!ということではなく、物理的に無理なレベルの分量を出されています)。

むしろ問題の数を厳選してできるだけ最小限に抑え、内容もessentialなものに限定し、そしてそれを繰り返す、ということの方がはるかに学力がつくはずです。しかしこのような宿題の出され方をこれだけ多様な学校の子が通う塾で一人一人各科目の宿題を見せてもらってもほぼ一つもない、というこの恐ろしさですよね。。どれだけテキトーな宿題を出してるのか、中高生の学習時間をどれだけムダにしてしまっているのか、中高の先生方には猛省していただきたいです。

それとともに、親御さんに是非ご理解いただきたいのは、「学校の宿題をする」ということがこの大量かつハイレベル宿題虐待地獄の中高に通う上では、お子さんを鍛える戦略として大きく間違っている、という認識をもっていただくことが大切です。「宿題をしなさい!!」というその一言が、お子さんが勉強ができなくなる原因となってしまいます。

じゃあ、何やったらいいの?というときに「ぜひ嚮心塾へ!」と言うと広告としてはよいのでしょうが、そんなのいりません。教科書をやってください。教科書の説明をしっかり何回も読んでください。数学に関してはこれで中高どちらでも大丈夫です。英語に関しては英文法書を中学のであれ、高校のであれ、繰り返ししっかり読むだけで大丈夫です。

これも「問題を解く」必要はありません。ひたすら繰り返し読んでいただけたら。そのうえで「だいぶ理解できてきた!」「説明できる!」となってきたら教科書にある問題だけで良いので解いてみるとよいでしょう。

宿題の話に限らず、一般に中高生は問題を解かされすぎています。しかし、問題というのは自分の理解を確かめるために使うべきものです。説明ができるかもあやふやな状態で問題だけ解いて大量に実力をつけることは、しっかりと説明を繰り返し読んではそれのチェックとして問題を解いて力をつけることよりもはるかに難しいことであると思っています。前者のような勉強法では、帰納的に抽象化する能力の高いとてつもなく優秀な子(東大や医学部に合格するレベルではなく、もっと上です)でないと力がつかないと思います。

だからこそ、教科書の説明もあやふやな状態で大量の難しい問題を解かせる、は何から何まで間違っています。ぜひ「宿題なんかやらなくていいから、教科書を読みなさい!」というお声がけをお願いしたいです!!(まあ、本当は中高の先生方にそれを徹底していただきたいのですが。。)

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