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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

中高生の教育でタブレットを有効に活用するただ一つの方法。

教育のことばかり、書きたくないのです。。もっと書きたいことが山程あり、「こんなアホな大法螺吹いてら!」というのがこのブログの存在意義でもあると、せめて自分だけは思っています。ただ、普段から教育のことばかりに携わり、あまりにもひどい教育現場の様子(つまり学校の様子ですね)を見せられ続けていると、言いたいことだらけになってしまい、一度書き始めると止まりません!!ということで今日も教育ネタですみません。

さて、ICT教育のスローガンのもとに、都内の私立はどの中学でも高校でもタブレットを導入しています。しかし、このタブレットの使い方がひどい、というか、「こんなの、絶対勉強できなくなるだろ!」というような使い方ばかりを見せられるために、ビビります。必然性のない使われ方のためにタブレット端末代という高い経済的負担を親御さんに強いることも大問題ではあるのですが、もっとひどいところになると、「こんな使い方してたら、そもそも勉強ますますできなくなるんじゃない?」という使い方になってしまっています。
いくつか実際に目にしたケースを挙げていきたいと思います。

①問題集がタブレットの中に入ってる。
「何冊も重い問題集を持ち歩かなくていい!」以外に何のメリットがあるのかわかりません。。見にくいし、使いづらくて高校生たちが苦労しています。ただ、この場合、ノートに解くのでまだ使いづらいこと以外はデメリットが少なめです。

②問題集がタブレットの中で完結している。
解答するところまでタブレットでの操作でおしまいのものです。選択問題を選んだり、といったものですね。これはかなりひどい影響が出ていて、中高生が勉強するのに紙とノートを使わなくなってしまっています。いわゆる「手を動かす」ということがとても減ってきてしまっている分、さらっと読んでおしまい、とかになってしまっています。

③教科書をタブレットで見る。
これは立体図形の表示とかではイメージしやすいものとかもあってそこは優れているのですが、全般的に手を動かさなくなる、わからないところを読み返す、ということができなくなりがちです。

これは僕自身もタブレットで電子書籍で勉強するときとかにも感じるのですが、紙の書籍と比べてわからないところを読み返す頻度が電子書籍の場合どうしても落ちるように体感しています。スクロールは紙をめくるよりも容易な操作であるのに読み返す頻度が減る、というのは面白いものです(おそらくスマホで大量の薄い情報を流し読みするのと同じモードになってしまうのでしょう。もうちょっと内容を丹念に追わなければならない本でもそう振る舞ってしまっては、結局habitの方を優先して理解の速度が追いついていないことを犠牲にしてしまいがちであると思います)。

こうした効果は教科書や問題集でもやはり出てしまうのではないか、と思っています。つまり読んでいるけれども理解していない、読むのが「速すぎる」ことで、むしろ理解できていないことがあるままに先に進んでしまうということが増えているように感じています。

さらに言えば、ノートと鉛筆を使わないタブレット学習なんか、最悪も最悪です。これも、たとえば大学生がタブレット端末で勉強するのにはそれなりの利点があって、大学の教科書は分厚い本が多い、とか、高校生までに大学受験で手を動かして勉強する習慣がついている、とかそういったことによって初めて効果的で効率の良い学習をタブレットを使って行うことが可能になっていると思います(逆に言えば、そのような習慣がついていな子は大学生でも厳しいです)。

しかし、中高生で既にその基本ができている子の方が圧倒的に少ないわけですから、そのような子たちがタブレットの導入によってますます「手を動かさないで勉強した気になる」という状況になってしまっています。これは特に中学入試で比較的入学しやすい私立中などでは進学実績以外の何らかのアピールとして「ICT教育の充実」なんかを売り文句にしているせいで、思考のプロセスを丁寧に書くことのできない層の子たちが中学入学後に「書かない」勉強を与えられ、しかもそれが奨励されるので悲惨なことになっている、というケースも目にしています。

たとえば大学入試は少なくとも当面は「紙の文章を読み、答案用紙に書く」というスタイルから変わるわけがないのですから、むしろこのご時世に「うちの学校はタブレットとか使いません!全部紙です!!だって入試はそうじゃないですか!!」とかいう姿勢を保護者の方に主張する学校とかは僕はとても好感が持てますし、実際にそちらのほうが勉強の力もついていくと思います。またよけいなお金もかかりません。しかし、同調圧力の強い日本では「流行り物には乗っておけ!」「むしろタブレット端末使わなくて、『おたくの学校はタブレット使わないなんて遅れてるんじゃないですか?』という父母からのクレームが怖い。。」といった事情で導入してしまい、本当に学習効果が上がるのかどうかよくわからないものの、辞めるのも怖くて辞められない、という状況なのでは、と見ています。非常に大きな問題ですよね。。


と、ここまでを踏まえてタブレット端末は全くいらないかといえば、中高でも意味のある使い方ができる方法が唯一つだけあると思っています。それは、「授業を動画に収録して全て動画で授業を聞く」です。登校の必要もなくし、教室に来る必要もなくす。授業動画は何回でも繰り返し再生できるようにし、もちろんわからないところを聞く時間を週に一回は作り、そこで先生がそこまでの授業動画についての質問受けをする(そこだけ必ず登校する)、という方式です。

もちろんそうすると、「じゃあスタディサプリでいいじゃん!」という話になります。また、実際にスタディサプリの予備校の先生の講義を超えるレベルの授業動画を作れる中高の先生方が何人いるのか、という問題もあります。しかし、一方で多くの人が見る授業動画とその学校の子達の学力レベルが把握できている先生の授業動画とを比べれば、ターゲットが絞りこめる分だけ、後者も意味のある授業動画が作れるはずです。そのようにシフトすれば今よりははるかに有効に活用できると思います。

即ち、現在の中高でのタブレット端末の使い方というのは、「授業」という受動的に情報を吸収する時間であるが故にタブレットを使うのに一番適切な時間でタブレットを使わないままに、「自主学習」という実際に手を動かすことで初めて意味のある部分にタブレットを用いている、という倒錯した仕組みで運営されている結果として、「より手を動かさない勉強」へと中高生を追いやってしまっているのだと思います。そうではなく、「授業を動画でタブレットで見て、問題集は実際に紙とノートで勉強する」というようにするだけで、だいぶ改善するのではないでしょうか。

こうした悲惨な現状を見るに、やはり私立中高の勉強についても戦略的に全体をデザインできる先生がいるかどうかが大きな分かれ目なのだな、ということを痛感します。そういう仕事もやっぱりしていかないと、ですね。。これもまた、考え、実行に移せるように何とか頑張ります。

(追記)
と書いた後に友人から、日本の教育学の泰斗である佐藤学先生が「ICT教育によって学力が上がるという研究結果はほとんどない」と仰っている記事を紹介されました。有料記事ですが、リンクを貼っておきます。「さすが佐藤学先生!僕と同じ問題意識とは!」といういつものボケは、大切な(別の)友人の師匠にはなかなか言いにくいのですが、そこを頑張って言っておきます!

https://www.asahi.com/articles/ASP5T3FC0P5TULBJ003.html

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いわゆる「勉強法を教える」塾について。その2

さて、間が空いてしまいましたが、前回の続きを書いていきたいと思います。

②はじめに選んだ教材でよいかどうかはよくわからない。

いわゆる「参考書ルート」というのを受験生に呈示して、それを進めていってもらう、というタイプの学習塾が増えていて、嚮心塾も分類するとそのタイプなわけですが、これがしかし、難しいです。。
たとえば嚮心塾の場合、今の実力とかを踏まえて「最初はまずこれくらいから」という見立てをして提案します。それを進めていく中でわからないところを質問してもらったり、手応えや違和感というのを聞きながら、どういう違和感はスルーしてその教材を進めていくべきか、逆にどういう違和感はその教材を一旦止めてでも他の復習をしていくべきなのか、というのを判断していきます。

これもまた、最初に決めた「今これくらいの実力の子が一年後にはこの学校を受けたいから」という逆算でやってしまうとたいてい失敗をします。なぜならたとえば同じようにある科目について「偏差値60」であるとしても、その内実は多様であるからです。理解もしていないままに無理やり詰め込んでの偏差値60もあれば、覚えるべきことを全然覚えてないままになんとなく文脈を読む力があっての偏差値60もあります。同じ「レベル」であったとしても、その結果が何に依存して生じているかが一人一人全く違うため、その子の今の実力の「内実」がどのようなものであるのかをこちらが把握しながら参考書計画も常に変わっていきます。

たとえば英語に話を絞れば、短文での英文解釈の前に単語や文法を初めにやるのは当たり前として、単語と文法の比重、さらにはほとんどの高校生は「文法学習」は「ただ4択問題をたくさん解いてきました」というだけしかしてきていないので、全く理解しないままにただ覚えています。また、単語も覚えることではあるのですが、それも接頭辞や接尾辞、語幹の意味というのを踏まえては組み合わせていく中で「覚えた」子と、そうではなく力技で覚えている子とで、同じ単語帳を同じレベルまで覚えていたとしても、そこからの勉強方針が変わってきてしまいます。前者はそこからさらに新たな単語を増やしていく、という戦略が有効ですが、後者は単語のパーツの分解ができない以上、単語量を増やせば増やすほどに飽和状態になり、全く入らなくなっていってしまうので、むしろ接頭辞、接尾辞、語幹を丁寧にマスターしていくことの方が大切ですし、入試で知らない単語でも類推が効くようになります。さらに英熟語も一般的には「覚える」ものだと考えられますが、これも熟語を成り立たせている単語と単語の意味から熟語の意味を引き出してこれる受験生とただ機械的に覚えている受験生とで全く違うので後者は飽和状態になってしまい、知らない組み合わせの類推もきかないのでそれも単語と単語の意味から熟語の意味を引き出せるように…。

と、科目を絞って英語だけの話をして、さらに「最初は単語と文法やろうね!じゃあまずはこの教材から!」というところだけで、これだけ千差万別な受験生の状態を把握しては、何がその子に必要な勉強なのかを考え、教材もそれに合わせて優先順位を考えていかねばならないわけです。。また、単語や熟語は一般に「覚える」ものとされています。勉強において、「理解すること」を「覚えること」よりもできる限り優先する、という大原則は大切です。しかし、個々の「覚えること」の中にも「理解すること」はたくさんあり、逆もまた然りで、そんなこと言ってくととてつもなく大変です。最初は英語のことだけでも教材選別にあたって必要な考慮を全部書こうとしたのですが、ちょっとキリが無くなってやめました。これを各科目全部やる、とかマジ誰ができるんですか、というか、とてつもなくめんどくさい仕事なわけです。

それを「これやっておくといいよ!それを何周もしてできるようになったら次はこれだぞ!」と単純化するのは、
もちろん何にも手をつけていない受験生を勉強へとmotivateするという意味では最初にあっても良いプロセスではあるとは思うのですが、それで成績が上がるのは最初だけです。何もしていない状態は未開の荒野で方向性なんか関係なく、やればやるほど力が伸びる、という話は前回もしましたね。それ以上にはあまり望めないと思います。特に難しい大学を受けるときはキツイと思います。

さらに難しいことがあります。先に書いたような「僕は英単語、語源としか知らないでムリヤリ覚えてるんですよね。それで大丈夫でしょうか?」とか「私は英文法、文法問題はたくさん解いてよく出る問題は答えられるのですが、正しい形覚えてるだけでいまいち他の選択肢がなぜ違うのか説明できないんですよね。これで大丈夫でしょうか?」のように受験生が聞いてくれるのならば、参考書の見直しもしやすいのです(まあそれでも見直ししてくれる塾は少ないとは思うのですが)。しかし、このような質問ができる受験生、というのは既に相当ハイレベルな受験生です。ほとんどの受験生はそんな勉強法に疑いも持たずに(だって学校でそんなこと教えてもらえないですから)、そのやり方でやっては伸び悩みます。

受験生がどのような状態の学習を続けているかを把握するためにこそ、先に書いた勉強計画や今回の教材選定においても「質問」がとても重要であるのです。生徒のなにげない質問から、「なるほどこんなことがわかっていないのか。。」ということを愕然とした先生方は山ほどおられると思います。生徒から質問を受けるからこそ、その生徒が今何をやるべきか、優先順位が明確になるのです。だからこそ、質問を受けないまま、あるいは質問を受ける人と計画や教材を決める人が別のままの学習計画設定や参考書選び、というものが基本的にはナンセンスであると思っています。それはまあ「勉強やらないよりはやるほうがマシ」レベルのものであり、いずれ必ず天井にぶつかります。もちろん、「天井」にぶつかってから自分で悩んだり試行錯誤できる受験生であればそれでも合格できるでしょうが、それは最初からその塾をそんなに必要としない受験生でもあると思いますし、教えている実感としてはそのような賢い受験生、というのはかなり割合が低いかな、と思います。東大や早慶の受験生の中ですら、ですね。

だからこそ、信用できる「勉強ルート塾」を判断するための一番大切な基準は、「質問を受ける人が勉強計画も策定する」というまあプロの家庭教師の先生とかなら当たり前にやっていることをやってくれる「勉強ルート塾」です。ただ、これが大学受験においてはおそらく構造的に難しいのだと思います。その理由としては科目を教えるのは大学生に任せ、参考書選びや勉強計画は社員に任せる、という仕組みがおそらく多いことによるのかな、と。各科目を社員が勉強してできるようにして質問に答えられるようにする、はおそらく社員さんの学力の限界上難しいでしょうし(それができるならその社員さんは予備校で教えます。)、一方で大学生の作る「計画」や「参考書ルート」は彼らの主観からは逃れられない、という問題点があります(まあ、「俺はこれやってうまくいったから!」ですよね)。例外的にそのバイトを長くやり、様々な子を教えてきて経験値の高く自分の勉強の仕方をある程度客観視でき、何ならそのバイトのために自分の使ったことのない参考書まで研究するぐらい熱心な大学生に運良く当たる、または社員さんがたまたまよんどころない事情でそういった塾で働かざるを得ないけれども受験勉強に関してはマニアで社会人になってからもずっと勉強を続けていて、どの科目でも現役有名大学生以上には答えられる、などといった幸運に幸運が重ならないと難しいのかな、とは思います。

というように参考書を選ぶこともまた極めて難しく、特にそれを伝える受験生から直接質問を受けられない場合には「一般的にはこれやっといたらいいよ〜」以上のことがほぼ言えない、というのがこの指導方式の限界であるようにも思います。

もちろん嚮心塾はそうはならないように諸々日々勉強し、考えながらやっています。たとえば10年前の嚮心塾、あるいは5年前の嚮心塾と比べても、指導方法や教材の選定の多様さ、というのは日々の教材研究でだいぶ増えてきていると思っています。まあ、そんな風に非力ながらも色々必死に努力していたとしても、それでも本当に難しいのです。その難しさについて楽観せずにしっかりと対応し続けようとする塾を、親御さんや受験生が選ぶことが大切かな、と思います。「この教材を繰り返しやれば大丈夫!!」という楽観論には、何も先が見えないときにはつい縋(すが)りたくなってしまうものですが、そこでしっかりと考え続けてくれる指導者かどうかが大切かと(気がついたらこんな分量に…)。

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読書メーター始めました。

読書メーターを始めました。

https://bookmeter.com/users/1257540

自分が読んだ本を他人に晒す目的なんて相手にペダンティックにマウントをとるためでしかないと今までは思っていたので、「年間1000冊本を読みます!」的なことからは距離を置きたいな、と思っていました。(ああいうこと言われると、ディオ様でなくても「お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」と言いたくなりますよね。読んだ本の冊数を数えてる時間ほど人生で無駄な時間ってないように思うのですが…。本によっても1冊読むのにかかる時間なんてまるで違うわけですし。。)

また、ラーメン屋とかでも「うちのスープは大山鶏を使ってます!!」とかことさらに喧伝するところってだいたい美味しくないです。どんな高級食材を使おうと、それが最初の形なんかなくなって隠し味の隠し味のそのまた隠し味になっていて、それを食べたお客さんが「あれ?これってもしかして○○使ってる?」というところにこそ、心からの出会いがあるわけです。僕が生徒にあやふやなことを言わないように、一つ一つに考えを鍛えていくために様々な本を読まざるを得ないとして、それがどんな「食材」を使っているかなんてどうでもよく、ただ美味しいかまずいかだけが勝負すべきところです。(もちろん教育の場合は「苦いがしかし有意義な言葉」もありますが、それも含めて「美味しい」と定義するとしてです。)そこで「俺はこんなに難しい本orいい本読んでるんだから!」とかいうのはさっきの「スープを大山鶏からとってます」と同じで、不味いことの言い訳にしかなりません。

という理由から、読んだ本の中で素晴らしい本を対面で生徒にお薦めする以外には、自分がどんな本を読んだか、というのはあまり書き留めて来ませんでした。また、一冊一冊レビューする、なんてことになったら、それこそ一冊で何万字になるかわからないからこそ、塾業務が完全にストップしてしまうため、それも記録を残さない理由でした(このブログでも一回やり始めたのですが、「これは塾業務止まりすぎやろ!」ということでやめました。)。

ただ、僕もあと何年同じように活動できるかがわからないような年齢になってきて、卒塾生が「本を読みたい!」というときに手がかりを残していく作業も大切なのかな、と思い始めました。僕自身も親が読むような本とか、学校の先生が薦めてくれるような本、というのはあらかた読んでしまった後に、自分がどのような本を読むべきか、ということでとても苦労しました。そのささやかな手がかりになればいいのかな、と思っています。

今までに読んだ本を全て書いていけるかはかなり難しいとは思う(それこそ塾業務ができなくなります)のですが、リアルタイムで読んだ本、その上で過去に読んだ本でもこれは紹介したいな、という本はときどき掘り起こしながら書いていこうと思います。また、読書メーターは紹介の字数がめっちゃ短くてそれなら続けやすいかな、と。もちろん「長く書かないと気が済まない病」は年々強くなっていっていまして、あんな短い字数では不完全燃焼どころかまだ酸素まだ開始反応も起きていないくらいなわけですが、長く書きたいものはこちらのブログで書くというきっかけにもなるかな、と思います。

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いわゆる「勉強法を教える」塾について。その1

嚮心塾は2005年5月の創業です。当初から「講義ではなく勉強法を作っていく」塾として始めたわけですが、その頃にはほぼ他に見ることのなかった「講義はなく、勉強法を教える」という形の塾も今はだいぶ広まり、様々な塾が乱立しています。それらの塾にあまり興味はなく、指導がどのようなクオリティかもまあ推して知るべし、とは思うのですが、それでも「2(5)ちゃんねるしか受験情報がない」という状況に対して一つの選択肢を示した、という点ではプラスだったのかもしれません(まあ、それらの「勉強法」が「2(5)ちゃんねるの受験情報の切り貼り」以上の価値を提供できているのかはあやしいところですが)。特に大都市圏とそれ以外の地域での受験情報の格差、受験のための塾や予備校の格差というのは、東京に住んでいる人間には計り知れないほどに大きく、この点に関しては嚮心塾も何も貢献をできてこれていない、というのが恥ずかしながらの現状です。これについては目の前の生徒を教えていればよい、という思考停止に陥っていてはだめで、やはり東京以外の受験生にも良質な情報や指導を提供していく道を考えて準備していかねばならない、と今色々と具体的なプランを考えているところです(と公言しておかないと日々の忙しさにかまけてこれも進めていけなくなるので、ここで退路を絶っておきます!)。

さて、こちらの決意表明はさておき、こうした「勉強を教える」塾にとっては何がネックになるのか、ということを備忘録がてら書いていきたいと思います。「講義形式より自分の足りないところをダイレクトに学習できるので、学習効率が圧倒的に高い!」はそのとおりであると思っているからこそこの形式をこちらでもずっと探究し、磨き上げていっているつもりなのですが、それでも安易な期待をさせてしまうような宣伝が巷に溢れているからこそ、この形式の問題点をいくつか書いていきたいと思います。

①学習計画は、立てられない。
のっけから常識を否定するようで申し訳ないのですが、学習計画は立てられません。これはこうした「勉強法を教える塾」というのが「一人でやってしまうとどうしても自分に甘くてペースが遅くなってしまう」という受験生の悩みというニーズへの対応から生まれているからこそ、「学習計画が肝心だ!」ということで安心させるために学習計画の精密さや進捗管理を売りにしているところが多いと思うので、「それなら意味ないじゃん!」と受験生は思うかもしれません。

ただ、たとえば数学なら数学で「1日何ページこの問題集を進める」という計画は不可能です。それは、一つ一つの分野についての自分の理解度がそれぞれ異なるからこそ、機械的にページ数を決めることはわかっていない分野を雑にやるか、あるいは容易に達成できる意味のない目標か、どちらかしかできません。

また、「1日何ページこの問題集を進める」という形の学習計画の一番の問題点は、その問題集しかやらなくなる、ということです。たとえばその分野があやふやなところが多い場合、教科書に立ち戻って復習する時間を作って初めて勉強になります。それは問題集のページ数を目標にした場合、むしろそのような立ち戻る勉強は「目標達成の足を引っ張るもの」として排除されていってしまいます(このあたりは会社でも数値目標の導入がかえって数字にならない仕事を皆が忌避することに繋がって、結局は全体としての生産性が落ちてしまうというのと同じですよね)。

もちろん「学習計画はそうした諸々の細かい点はとりあえず措き、大雑把な目標としてペースメーカーとして機能すれば良い!」という主張もありうるでしょう。ただ、この主張は、学習計画の遅れをどう評価するのか、という難問を残すことになります。それが勉強方法の洗練や踏まえるべきステップを踏まえていった結果としての学習計画の遅れであればむしろ肯定的に評価し、サボりであれば否定的に評価する、ということが精密にできればいいのですが、そうでなければ「計画を達成すること」という目標が「勉強法に関してはむしろ無意味なやり方を強いることになる」という失敗に繋がります。一方で「「正しい」勉強法をしっかりと初めに教え込んで、そこを踏まえながらであれば計画はいくら遅れても良い」という方針をとるのなら、計画自体が無意味なものとなります。

実際には学習計画と学習方法は一体のものであり、計画→方法の改善→再び計画→方法の改善→…の連鎖が無限に続いていくからこそ、「学習計画を初めに立てる」という行為自体が「他者があなたの学習にコミットしますよ」というシンボル以上の意味を全く持たない無駄な行為である、と思います(これはこうした塾だけでなく、中学や高校でも「学習計画」を立てさせることが大好きなのですが、それも大きな間違いだと思っています)。このように学習計画は勉強の進捗や進めた勉強の中で新たに出てくる問題点への対応、という意味で日々刻々と変えていかねばならないものです。それがわかっていないままに、「我々プロが「合格するための学習計画」を立てるからそれに従えば大丈夫!!」というのは詐欺的だと思います。

では、どうしたらよいのか、ということに関して嚮心塾では勉強計画ではなく、「勉強記録」をお薦めしています。日々の勉強の内容をその日のうちにメモしていき、どういったことに時間がかかったのか、どういったことはまだ復習しなければならないのか、そういったノートを継続的につけていくだけで勉強方法については非常に洗練されていくと思います。それを信頼できる指導者と共有しながら一緒に考えていけるのであれば、なおさらです。

さらにいえば、です。僕はこの仕事をして25年以上、嚮心塾を開いてからでも16年やっています。このような一人一人の学習全般についての相談は恐らく誰よりも受けてきたと思います。その僕であれ、面談→成績表→ちょっとしたヒアリング→志望校→「さて、これからやるといいよ!」と正確な学習計画を立てられるかと言えば、立てられません。というと、嚮心塾での指導全般の信用を失ってしまいますが、もちろん「まずはこれからやるほうがいい」という仮説を立てることくらいはできます。しかし、その勉強がその子に合っているのか、どういう部分ではさらに遡らなければならないのか、どういう部分では逆に先に進まなければならないのか、それらを踏まえて最初に選定した教材をやり続けることがかかる時間に対して学習効果が見込めるかどうか、などは実際に勉強しているときどういうところで困るか、どういったことに引っかかって質問をしてくるか、質問に対してこちらがどのレベルの説明をしたときにどういう反応があるか、など細かい情報を絶えず仕入れながら、修正していかざるをえません。これだけ長いことこの方法で教えていてもなお、初手から精密にフィットさせられる計画を立てられる自信はありません。やはりこれは、仮に指導者に神のような認識能力があったとしてもなお、学習者自身にしかわかっていない、いや、学習者自身にすらわかっていない認識のひっかかりが必ずあるからです。それほどに計画を立てるのは難しいことであると思います。

だからこそ、勉強法や勉強計画というのは上から押し付けて「これをやれば大丈夫!」ということは不可能です。指導者と学習者がともに絶えず相談しながら一緒に作っていくしかないものであるのです。もちろん、学習者は基本的に不安な状態からスタートするので、「こう進めていれば大丈夫!」的なアドバイスをプラセボ的に投与することが必要な段階も初期にはあります。しかし、そのままのスタンスでの指導を貫き続けるのは、学習者の不安につけ込んでは月謝だけ貰えればよい、という指導者でしかないでしょう(ちなみにこの「学習計画」が売りである塾ほどに、与えられた学習計画がフィットしないという生徒からの訴えに対して、他のプランを用意するコストがとても大きい、という問題点もあります。基本的にこうした基本的なプラン以外の代替プランを大学生講師などが立案することは難しく、その点でも「今のプランを信じて頑張ればきっと結果が出るから!」という慰めに力を入れられることになってしまいます。そこでは本当に「信じて頑張れば大丈夫」かどうかは吟味されることなく、これ以上指導にコストをかけないために既存の計画が強要されることになります)。

そして事実として、そのように指導者が「これをやっておけば大丈夫!」を押し付け、学習者がそれを盲信することで頑張る、という形式の学習スタイルでは、受からないのです。それは当たり前で、学習者がその定型的な学習をしていくときに感じる「内なる声」という違和感を押し殺しては学習することになってしまうからです。

ソクラテスやニーチェですら、その「否定の叫びを発する内なる声」には従ったわけですから、「とりあえずこれやっておくとよいよ!」という学習をさせられたときに学習者が感じる「これで勉強になってるのかな?」という違和感を押し殺させてでも「俺の指導方法や計画が正しい!」と学習者に押し付けられるのは、ソクラテスやニーチェ以上の賢人か、あるいは学習者の学習や受験の成功をあまり考えていない指導者なのではないでしょうか。前者が人類の中にそんなには存在しないことは確かであるとすると、結論はわかりやすいかと思います。(もちろんこれは、生徒の違和感が全て正しい、ということではありません。ただ、その違和感一つ一つには今必要な学習が何かについての重大なヒントが隠されている可能性が高い、ということに敬虔な態度をとれない指導者はあまり優秀ではないか、学習者の向上にはあまり関心がない、ということです)

さて、次は②!と書こうと思ったら、なんですか!この字数は!!
だいぶ雑駁に書いたつもりなのですが、それでもこの長さになるのに、もう自分でもドン引きです。
また続きは次回にまわしたいと思います。

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「学校」という名の宗教。

ご無沙汰をしてしまいました!あまりにもバタバタと忙しく…はいつも通りなのですが、今年は5月の時点で完成度の高い受験生を多く抱えているので、いわゆる微調整に丹念にかける時間がこの時期からかなり一人一人にかかっています。受験勉強というのも、勉強し始めはそれこそ方針とかなんか悩んでないで、とりあえず何でもいいからどんどん勉強していけばしていくほどに力が付きます。それは当たり前で「未開の荒野」が目の前にあるからこそ、とりあえず片っ端から耕していけば実力がつくわけです。ただ、勉強が進めば進むほどに、どのように何を勉強していくか、がとても難しくなります。「今までにこれをやって力がついたから!」というものを墨守していけばよいのか、それともそれを繰り返してももうその方向のトレーニングはsaturateしてしまっているので、また別のものをやるべきなのか、を考えることはとても難しくなり、まさにそこにこそ教師の腕が問われます。そのような微調整にこの5月から入れている受験生が多い、というのはありがたいことです。

さて、塾をやっていていつも感じるのは生徒の「真面目さ」です。これはつまり、学校の先生の言うことを皆かなり真面目に聞き、その指示をしっかりと守ろうとし、そして出された宿題は他の勉強よりも最優先でこなそうとする、ということです。

これは一見美徳に見えますし、ご家庭でもそれをまずは優先していればよい、という教育方針のおうちも多いのですが、実際にはそこで出される課題が的外れであったり、とてつもない労力と時間を生徒に供出させながらも、何も力のつかないものであったり、というケースがとても多いのです。このような場合、真面目に先生の言うことを聞いて、写経のような宿題をひたすらこなしたり、自分が手も足も出ないような問題集の解答をひたすら写す、ということに彼らの勉強時間は費やされます。そこから、「じゃあ受験に向けて勉強頑張ろう!」なんて余力がある子の方が珍しく、結局彼らの勉強時間は一切頭を使わない「作業時間」で終わります。それをいくら続けても、忠誠心を問うような定期試験であればなんとかなったとしても、受験では確実に通用しません。

ですから、塾でまず初めに一人一人の生徒に徹底するのは「学校の先生の言うことを信じるな。」ということです。もちろんここで「僕の言うことを信じろ!」となってしまうと、インチキカリスマ講師っぽくなってしまいます。そうではなく、その勉強が自分にとってどのように役に立っているのかを常にチェックしては考える習慣をつけていってもらえるように塾では工夫をしています。たとえば僕が勉強法について指導するとき、「こうした方がいい!」ということを伝えて強制するだけではなく、「なぜこうした方がいいか、わかる?」という問いを必ずはさんでいきます。そのような問いに対して考えていくこと、答えようとしていくことが、自分自身にとってどのような勉強が必要であるのかを考える習慣をつけ、そしてやがては自分から「この科目についてこういうところが自分は弱いから、こういう勉強をした方がいいかと思うんだけど、先生どう思う?」というように提案ができるようになっていきます。そのようになって初めて、受かる受験生になっていきます。逆に言えば、僕の「この科目はこうした方がいい!」だけを聞いているだけでは、学校の先生のアホな宿題やアホな勉強法の指示に従っているときと大して内実は変わらない、ということになってしまいます。ただ学校の先生よりは僕のほうが受験のことをよく知っている指導者である、というだけで、自分で考える力がないのであれば、そのような受験は無意味ですらあります。

もちろん教える側の人間は「とりあえずフォーカスゴールドのここからここまで全部解いてきて!(解けるわけないので、答えを写すことになります)」とか「とりあえずNextageやVintageを繰り返し解いてれば英文法は大丈夫だから!(理解もしないで覚えるだけになるので、当然そんな勉強何の役にも立たずにすぐに忘れます)」のような、むちゃくちゃな指示をしないように、どのような勉強が今、目の前の子たちにとって必要なのかを絶えず考え抜き、必死に探し続けねばなりません。それは教える側が果たさなければならない義務です。(それにしてはどこの学校のどの先生も自分の指導がどのように効果を上げたかのフィードバックから反省を得ているとは思えないような、判で押したような勉強不足のアドバイスが多いのは残念ですが)

しかし、一方でどのように考え抜き、勉強を続けたとしてもなお、その受験生にとってどのような勉強が必要であるのかを教える側が見抜いてはアドバイスすることはとても難しいことです。そのことだけを考えて必死に頭を働かせている僕ですら、驚くようなことが実はその受験生に抜けていて、そこを気づかずに勉強を進めさせてしまう、ということの苦い失敗の繰り返しを日々しています。それはまた、一人一人の受験生の思考回路や精神構造の内実を他者からは完璧には把握しきれない、ということの限界でもあるのだと思います。

もちろんその限界に教える側はチャレンジし続けなければならないわけですが、それ以上に大切なのは、自分に何が必要なのかを探し、考え続ける受験生へと鍛えていくことであると思っています。その姿勢を身につければつけるほどに「自分ではこういうところ、テキトーになってるんだけど、これで大丈夫かな?」という愁訴を受験生の方から小さなことでも相談してくれるようになります。そのように自分の勉強の仕方を疑い、学校の先生の指導を疑い、最終的には僕の指導をも疑えるようになった受験生はとても心強く、そして実際に合格していきます。


こうした教育のプロセスはまた、単に受験の成功のために必要というだけではなく、自分の人生を理不尽なものへと殉じさせないために大切なことであると思っています。たとえば、日本では企業内熟練があまりにも大部分を占め、企業間を横断する職務としての熟練が弱いことが転職ということのリスクを高め、一つの会社にしがみついていることが労働者にとっては一番合理的な行動である、というのが長らく日本の企業社会でした。このような社会では、自分の所属する組織に従い続けるために、その組織の持つ致命的な欠陥や不正に対しては、目をつぶるしかない、という行動様式を促進してしまいます。

学校もまた、そのように学校の中でしか通用しない「定期試験のための勉強」を強要してくるシステムです。それに殉じては、結局自分の人生が行き詰まってしまったときに「真面目に言う事聞いてたのに!話が違うじゃないか!」と後から抗議しても、それを学校の先生達が責任を取れるわけではありません。もちろんそのlocalでしか通用しない「熟練」が内申点や推薦制度で何とか面目を保てたとしても、結局は実力がないことを学歴で粉飾する人生にならざるをえなくなります。それはやはり、不幸ではないでしょうか。

そして、そのようにlocalな力しかもてない場合には、自分の所属する組織にしがみつくしかなくなり、それはまたその式が前提とする様々な不正や暴力に対しては、批判をすることが不可能になります。卒塾生たちにどのような大人になってほしいのか、勝手ながらこちらの願いや思いを込めるのであれば、「各界で活躍する」とか「有名になる」とかではなく、僕はやはり自分の心に嘘をつかずに生きられるような大人になってほしい、と思います。そして、そのためには、localではない力が必要になります。それを「学力」と呼ぶのか、「人間力」と呼ぶのか、はたまた他の言葉で呼ぶのかはどうでもよいのですが、少なくとも学校の先生の言葉も僕の言葉も疑い、吟味しては考え抜く力をつけていけることは、必ずそのようなuniversalな力になると思っています。

付け加えれば、学校の先生方には、まずは宗教のようにあなた方の言葉を信じている子たちの信頼をせめて裏切らないように、何が目の前の生徒の勉強に必要なのかを必死に悩んでいただきたい、と思っています。「この問題集をやっておけば難関校と同じものだから親からクレーム来ない!」とか「入試問題さえ解かせていれば、『入試対策きちんとしてる!』ということで生徒からクレームこない!」ということばかりを気にするのではなく、ですね。(こう考えてみると、学校の先生方だけでなく、親御さんやあるいは半可通の中高生のリクエストにも大きな問題があるとは思います。ただ、これに関しては先生、親、生徒の三者三様の思考停止の産物でそのような無意味な指導が温存されている、とも思っています。「難しい学校でやっている教材をやれば自分たちも実力がつく!不安にならない!」という自己満足のために、多くの努力と時間が浪費されていると思います。まずはそこから生徒自身が脱していくことが大切ですね。)

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