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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

『子どもの算数、なんでそうなる?(谷口隆著・岩波科学ライブラリー)』書評

友人の、神戸大学数学科の谷口隆先生が初の単著を出しました!!
この本が「友人の著作」という贔屓目を抜きにしても本当に素晴らしいです!!
親御さんや教育関係者はもちろん、何より教育を受ける中で考えることを奪われては覚えさせられてばかりしてきた若い世代にこそ広く読んでほしい本です。塾でも大量購入して、できる限りみんなに読んでもらえるように配っています。

比較的読みやすく、かつ内容も読みやすいだけにとどまらずに色々と深く考えさせてくれる本なので、僕がくどくど書かずに「詳しくは是非お読みください!」で終わらせるのが一番野暮ではないのですが、せっかくなので僕もこの本で触れられたいくつかの論点について、読んだ感想を書いていこうと思います(全国の数少ない長文ブログマニアの皆様!久々に超長文です!)。

①第1話の「イジワル問題」での位どりについて、このような「イジワル問題」自体は昔からあったものの、何故そのような「イジワル問題」に子どもたちが心を奪われて一時期大流行するのか、一方でその「イジワル問題」が何故高学年になればあっという間に廃れていき、もはや誰も口に出さなくなっていくのか、についてこれほど整合的かつ説得力のある解釈自体がとても斬新でした。

子どもたちが自分たちの中ですぐには理解できずにフラストレーションを感じる学習内容に対して、「それならこれもいけるじゃん!!」というように「イジワル問題」を出してくるのは、彼らなりに直感的には理解しにくい内容を受け入れていく、という痛みを伴うプロセスの中で必要な代償行為であり、それを「正しい理解を邪魔するから、こういうこと考えちゃ駄目!」と頭から否定すること自体が子どもたちにとって学ぶプロセスを阻害する、ということについては全くそのとおりであると思います。習った新しい知識を鵜呑みにしようとする子よりも、今までの自分の常識から演繹的に引き出される別の結論についても考えてみて、そしてその両者の齟齬について悩み、考えることこそ子どもたちにとっては教わる内容が「神聖不磨の内容」ではなく、なじみのあるもの、自らの理性を向けてよい対象として考える習慣を育みます。逆に言えば、それなしに「正しい結論のみを覚える」ということを繰り返していく中で、「自分などは考えても無駄で学校で習う正しい理論を覚えて使いこなせるようになればよい」という諦めをもってしまい、その結果としてその子の成長をもいずれ阻害していきます。「イジワル問題」についてのこの本での考察は、小学校低学年の子にとどまらずあらゆる学習プロセスにおける人間の学び、というものについても考えさせてくれます。(たとえばカール・マルクスは微分について彼の『数学ノート』の中で違和感を述べ、「こんなのごまかしだ!!」と書いていたわけですが、その内容の当否は別として、それは彼なりの数学を学ぶ際の代償行為であったり、「イジワル問題」であったのでしょう。そのマルクスの不明を現代の(あるいは当時ですら)見地から批判することは簡単ですが、彼がそのように自分の中の考えを演繹してはそれと学ぶべき確立した数学体系との齟齬を率直に表明したこと自体はやはり大切なことだと思います。まあ、マルクスの場合、「俺の方が正しい!」という主張っぽくなっちゃうのは難点なのですが!)

②第3話のマルとペケについては、とにかく「ペケ」の捉え方について、特に親御さんにわかっていただきたい内容でした。間違い(ペケ)をして叱られると、子どもたちはその間違いについて深く考えることを止めてしまいます。「叱られる」というのは彼らにとっては加害を受ける、ということであり、それを受けた時点で問題なのは自分が犯した間違いではなく、この場をどう切り抜けるか、どうしたら次の加害(叱責)を防ぐことができるか、に彼らの問題意識が焦点を合わせていくようになるからです。第一章で書かれていたように、「ペケ」が生まれる、ということは、自らのこれまで踏まえてきたものから出てくる推論と、現実や体系だった理論との齟齬が生まれた瞬間であり、それこそが学習者にとっては学習に繋がる最大のチャンスです。しかし、それを外部から叱責をすればするほどに、「そのような間違いがない方がいい。」となっていってしまいます。間違えた部分を隠したり、あるいは間違いの多いテストを隠したり。はたまた間違えた問題について「これはケアレスミスだから(大したことはない)」と強弁したり。こうしたペケをペケとして価値中立的、むしろ肯定的に評価する、という姿勢がなければ、そこから学ぶことはできなくなってしまいます。

これはまた、子どもや学習者だけではなく、大人も同じです。たとえばCOVID-19に対するこの一年の日本政府の対応がどうだったか、というのももうほとんど答え合わせができるほどになってきているとは思うのですが、それでも政治的責任をとらされることを恐れては「間違いはないほうがいい」とするあまりに、「適切に対応している」と強弁しながらほとんど何もしない、という事態が続いてしまっています。「ペケを叱責する」という文化は「叱責されないためにはペケがない方がいい」ということになり、ペケを隠蔽したり、それが大したものではない、心配する必要のないものであると強弁したりするという行動様式に繋がります。もちろん、それでは現実(その学習内容が理解できていないという現実、あるいは感染拡大が防げないという現実)は変えられないわけですが、それでも叱責を恐れる当事者にとっては、今この瞬間に叱責されないためになら、どんな不正をも働くことになってしまいます(もちろんこのアナロジーは家庭の中で弱い立場でしかない子どもたちと社会の中で圧倒的に強い立場を持つ政府とを同一視している点に難があります。またご家庭での叱責は基本的に失敗にしかつながりませんが、政府の施策に対する批判はむしろなければ健全ではない、といった違いもあります。ただどちらも考え、取り組むべき「問題」そのものを見たり考えたりすることなく、自分を批判する「人」だけを見ていて、その相手をどう誤魔化せばよいかにしか意識が向いていない、というところでは共通点があります)。

話を教育に戻せば、お子さんが自らの誤りを直視しないことに嘆く前に、彼ら彼女らがそれを直視しない原因として自らの叱責や態度がその原因ではないのか、ということに関しては教育者や親御さんが広く反省しなければならないことであると思います。そして、誤りを肯定的に捉えなくなってしまうことは、子どもたちにとっては学習の機会を逃し続けることとなり、そして、自らのこれまでの理論と新しい学習内容との齟齬を考える機会を失っては、学習意欲自体を失っていくことに繋がります。

③第4話での「子供の思考は往々にして十分に表現されていない」「しかし、その中には鋭い指摘がある」は、教育に携わる人間が肝に銘じておかねばならないことであると思います。彼らの拙い言葉による異議申し立てや違和感を「プロトコルが整っていない」という理由で却下することは簡単であるのです。しかし、そのような表現力の不備や手順や手続きの不備ゆえにそれらの異議申し立てや違和感を却下すること自体が、子どもたちの考える力を奪っていくものであると思います。教育者にとって必要なのは、彼らのその言葉足らずを補い、補助線を引き、彼らの異議申し立てを最良の形へと精製していった上で、それに対してどう応答していくかを悩むことであると思います。

もちろん、このような態度をとる教師や親は、威厳を保つことはできないのかもしれません。さらに、子どもたちの質問をそのように「精製」していけばいくほどに、実は深くて答えられない質問というのは多くなり、結果として答につまる教師が増えるでしょう。この辺りも「何でもパッと答えられる教師が優秀」というステレオタイプを捨てて、「むしろ丁寧に子供の質問を聞いた上で悩んだり考え込んだりときには答えられない質問も多い教師のほうがむしろ優秀」というように我々の価値観もアップデートしていかねばならないと思います。

④第5話、第6話で印象的だったのは、子どもにとってある合理性を徹底したことが「誤り」とされる結果に繋がっているときに、それは「誤り」として一から否定してよいものなのか、というこの本の問いかけでした。仮に正解とされるものを合理性や論理性の追求なしにバラバラに受け入れていくとすれば、そのような博物的な「正解群」の収集からは知らないことに対する判断能力、というのは鍛えられていきません。だからこそ、誤った結果が出てくるとしても、ある合理性や論理を追求していった結果として出てきたものに対しては相応の評価をして、そのような取り組み自体をしっかりと評価しては励まし、その上で理論上での「正解」とはどこが原因でズレが生じたのかを探していく、ということが教育においてはとても大切だ、という主張には完全に同意です!

と書いてみると簡単なのですが、これが非常にやりにくくなってしまっているのが現在の日本の教育だと思っています。これはやはり「正解」かどうかを誰でもさっと調べられる、ということが一つの欠点になってしまっていると思います。

子どもたちが今出している結論が誤りであったとしても、誤りをどの段階で訂正していくのか、ということはこの本にもある通り難しいものです。実際に教える際に、たとえばいくつかのそうした誤りを今訂正するべきではないな、と思って放置しておく、ということをたとえば塾でも意図的に行うことがあります。それは「学び初めのうちに『とにかく正確に!』という方向にあまり口を出しすぎてしまうと、そもそも勉強の全体像がひどく難しいものだと怖気づいてしまわないように、わざと誤りを放置しておく」という戦略が有効なことが多々あると思っているからです。その放置しておいた誤りに生徒自身がやがて自分で気付けることが一番の理想です。自らの合理的な推論をより精緻にしていけば、そのように自分で自分の誤りに気づいていけるようになっていきます。また、気づけていないままだとしたら、残り時間との兼ね合いの中でどの段階でそれを訂正していくのか、ということをこちらも考えながらやっていく、ということになっていきます。

イメージとしては家具とかを作るときに一つ一つのパーツをネジ止めする際に最初はあまりきつく締めすぎないで「仮止め」するのと同じですね!それが学習においても必要なステップであると考えています。

一方で親御さんは常に「自分の子供が勉強をわかっていないのでは」という不安に駆られているものなので、「正解だけを教えてほしい!」というようにどうしても思いがちです。あるいはそのような焦燥感を内面化してしまっているお子さんもまた一定数います。そのような学習者あるいは学習者の保護者からすれば、「正解」とされているものにたどり着く道筋がわかっていなくても「とにかく正解を教えてもらえればいい」ということになります。「正解をくれるのが良い先生」「正解ではないことを言うのは駄目な先生」という二分法で判断するようにもなってしまいます(もちろん、このようになってしまうのには本当にいいかげんな教師も一部ながらいる、ということがその理由ではあるのですが…。)。このような場合、「正解である」というのは「だから、それ以上考えなくて良い」という免罪符のように機能してしまいます。これが「正解を与える」ことが成長を阻害することの理由であると思います。

お子さんの論理プロセスの発達段階を見て、「最初からベストの方法や答」を教えるということがその子の成長に繋がらないとこちらが判断した場合、迂遠ながらも一つ一つ彼らがそのプロセスを積み上げていけるようにしていかねばなりません。そのようにして積み上げた勉強は、「天から降ってきた正しい答をとりあえず鵜呑みにする」という学習法とは違って、迂遠ながら決して後戻りすることのない実力をつけていくことに繋がります。一方でそのようなやり方はときに「誤りを放置している」「ちゃんと見ていない」と短絡的に判断され、結局「初めから正解を叩き込むことをなんでちゃんとやらないのか!!」という抗議をうけやすくなります。

これは学習内容だけでなく、実は学習態度についても言えることです。「スマホをたくさんいじって勉強できない」「家でダラダラして勉強しない」など、親御さんがお子さんの学習に不満を感じることばかりでしょう。しかし、これらもまた彼らなりの合理性ゆえにそのような行動様式に至っているのだ、と言えます。だからこそ、これらを「スマホをいじらずに空いている時間は全て勉強をするのが正解だ!」を様々な手段でお子さんに押し付けること自体が「正解」を彼らが理解できないままに強制することでしかありません。彼らの合理性にはどこまで整合性が有り、どこからはやはりそれでは通用しなくなるのか、を迂遠だとしてもとことんまで付き合っては一緒に考えていくのでなければ、結局は何らかの「暴力」によって子どもたちに「正解」を強制するだけになってしまいます。その強制のタガが外れれば、自分からは努力できない人間になるだけであると思います。

話が実践的な方にだいぶ逸れました。この第5話、第6話で述べられたような教育をどう実践していくか、については非常に難しいことでしょうが、それでも追求されるべき価値のあることであり、それをこのように明記されているのは、本当に素晴らしいと思っています。(社会学者の岸政彦先生がよく言う「他者の合理性」を、子どもたちに対してもしっかりとその存在を仮定しては尊重していけるかどうか、であると思います。)

⑤第7話のかけ算の順序論争については、議論のたたき台として、とても説得力のある内容になっているのではないか、と思います。かけ算の順序論争といっても、「順序はある!」と言って、へんてこな理屈をこねくり回してしまう小学校の先生方(というよりそのイデオローグですね)がまずは大きな問題であるとは思うのですが、一方で「マルだろ!」という抗議には「かけ算で理不尽なバツをつけられて子どもたちが可哀想!これは虐待だ!」という感情も入りがちなので、議論が難しいです。コミュニケーションとは言葉の定義の不正確さをある程度許容することで、相手の言いたいことを把握しようとし続けていく、という営みだと思うのですが、この辺りは慎重に議論できる土台ができることがとても大切であると思います。この第7話はその確かな土台になると思います。

⑥第8話については、これもとても本質的な問題提起をしてくれている章だと思っています。それは「術」としての理解なのか、「理論」としての理解なのか、という違いについてです。これは「算数教育」という話題にとどまらず、そもそも我々が何かを「マスターした!」と感じる時、それは「術」として使えるようになったに過ぎないのではないか、その学問を理解できてなど全くいないのではないか、という問題提起を含んでいると感じました。理解できているかどうかの尺度を「使いこなせる」という基準でとどめ、それがどのような意味を持つかを考えることはむしろ余計なものとして切り捨てていく、というような教育、いや、それは初等教育の話にとどまらずに、人間にとってこれだけ高度に発達した学問というのは、たとえばごく狭い専門分野についてですら、かつそれに寝食を忘れて没頭する天才たちですら、それを「術」として使える以上の「理論としての意味」を考えるということができているのか、という問題があります。

たとえば我々がスマホを使いこなせているものの、そのスマホの社会経済的、あるいは工学的「意味」がわかるかどうかはもちろん考えてすらいないままに、しかしそれは便利であり、有用な結果が出てくるし、その使い方さえわかっていればよい、としています。道具についてはそれで良いとして、様々な学問体系というものは我々にとって何が大切か、何が真理であるかのとりあえずの指標となるものです。それが「術」としての理解とその運用にとどまり、それ以上の意味については誰も考えないままにただ「有用な」結果だけが出てくる、ということに安住してそれ以上意味を考えないのだとしたら、そのような「術」しかわかっていないものを使い続けていくことの意味は、より決定的で取り返しのつかないものとして具体化していったときに初めて気づくしかなくなります(たとえば経済学で言えば、ミルトン・フリードマン的なマネタリズムが「術」として金融工学を生み出し、それが結果として一部の者への冨の還元という「結果」を生み出していったことの結果がやがてサブプライムローンの破綻によるリーマンショックへと繋がったときのように。あるいは彼らを源流とする新自由主義がどれだけ社会基盤を掘り崩したか、ですよね。それはまた、特に日本においては大学という基盤をも掘り崩しています。)。ノーベル経済学賞はフリードマンやロバート・ルーカスにお墨付きを与えました。それは同時に「術」が「術」でしかなく、その意味を考えないという姿勢が学問においてすら一歩間違えれば蔓延してしまう、ということの現れでもあると思います。

我々が幼児の算数の「理解」の仕方があくまで一面的な「術」でしかない、と気づくときというのは、そのような批判の眼を我々自身の学び方についても向けることのできる大きなチャンスである、とも思います。

⑦第9話の「普通のパンだと「3つに分ける」と「3等分」の区別に関心を持てないお子さんが、こよなく愛するメロンパンだと急に「等分」に対して関心をもつ!」というのも本当に大切な視点です。結局人間というのは、自身が関心を持っている対象についてでなければ、違いを意識しようとしないものです。だからこそ、教えるときにはその子にとって興味のあるものを通じて教える内容が伝わるように、という工夫をしていかねばならず、「100人いれば100通りの教え方」が必要になります。

塾での実例を挙げると、「絵踏」の話について、ある受験生が「先生、こんなのでキリスト教信者なんてあぶり出せるの?ウソつきゃいいじゃん。」という質問をしてくれたことに対して、こちらはその子が電車に造詣が深く、またNゲージの蒐集家でもあることを知っていたので、「ではこの国が鉄道マニアを弾圧するようになって、鉄道マニアかどうかを判別するためにNゲージを踏ませる、という選別をしていったときに、君は自分の身の可愛さゆえにNゲージを踏めるかい?」と問うたところ、「踏めるわけがない…。」と真っ青になっていたことがありました。

たとえばある概念について生徒の理解が追いついていない状態は、そもそもその生徒がその対象に対して真剣に思考するだけの動機づけを感じ取れていないからなのかもしれません。言い方を変えれば、それを「生きている中で自分が直面している(いく)問題」とは捉えられていない、とも言えるでしょう。生きている中で自分が直面している(いく)問題とは感じていないものに対してそれなりに努力をするのは、そのような努力が進学や就職その他で後で必ず報われる、という功利主義的な動機によらないと難しいでしょう。

しかし、理解が追いついていない状態をそのような功利主義的な動機によって埋め合わせをしようとしていくことは、結局何一つ直接自分の問題とは捉えられないままの状態で「転ばぬ先の杖」としての学習をする、という習慣をつけることになっていきます。それはやがて、自分の人生が安泰だな、と思った瞬間に学ぼうとする姿勢を放棄する、ということでもあります。大学入学時なのか、就職活動が終わった後なのか、tenureを得た後なのか、は人それぞれであるとしても、です。

そのような長いスパンで見たときの停滞は、やはり目の前の考えるべきとされる課題を、ただ「それが必要だから」ということで子どもたちに押し付けてしまうことの結果であるのかもしれません。もちろん、入試まで、というタイムリミットがある中で、受験に必要なすべての教科について、「それらの内容自体が自分の人生で直面して取り組むべき問題である。」と認識できて取り組める子はごく一部のとても賢い子でしかないでしょう(それこそ、このような子は東大に受かる程度の子ではありません。)。しかし、少しでもそのように「この子にとって何が『メロンパン』なのか。」を探し続けていくことは、周りの大人が担うべき責務であると思います。

⑧結びについて、です。誤りを楽しむためには、その誤りについて考えるだけの余裕がなければなりません。そのためには周りの大人たちが子どもたちに誤りについて責め立てる、ということが絶対にあってはいけません。ただ、実践面でこのように「誤りについて責めない!」という規範を親御さんや教師が持とうとするのは、自分を必死に律しなければならない点で、非常に実現が困難であるように思います。

そうではなく、この本にあるように、誤りを肯定的なものとして捉え、子どもの誤りを「楽しむ」という姿勢がとても大切だと思います。

というと、「いやいや!そんなの無理!」と学齢期の親御さんはついつい思ってしまいがちですが、その何年か前まで、幼児期や少なくとも乳児期には子どもたちの言い間違いや認識の間違いについて、「なんて可愛いんだ!!!」「めっちゃ天才じゃん!!!」などと感動したり、面白がったり、たくさん肯定的にとらえてこられたはずです。それを思い起こしては、子どもたちの誤りを学齢期だろうとなんだろうと、「楽しむ」ことが大切です。

「いやいや、それじゃ受験に間に合わないじゃん!!」と思われるかもしれませんが、このように「子供の誤りを楽しむ」ご家庭で育ったお子さんは、実は教える側からしてもとても教えやすく、力が付きやすい、ということも事実としてあります(もちろん、だから「誤りを楽しんだ方がいい!」というのはまた本末転倒な気もしますが。我が子の将来が不安なときの心の持ちようにはなります!)。なぜならそのようなお子さんは、自分の誤りを開陳することでひどく叱責される、ということにビクビクしていないために、自らが誤りを何かしら吐露することを恐れずに、意欲的に喋り、聞いてきます。そのようにしてくれればくれるほどに、こちらとしてはその子をどのように教えるかについて、ヒントを沢山もらうことができ、結果として実力が伸びていきます。

逆に誤りを犯すことを許されない家庭で育ったお子さんは、そもそも「この大人も誤りを見せれば、叱責なりしてくる加害者だ!!」という姿勢で勉強をします。だからこそ、自分がわかっていないことをとにかく見せないように、隠すように、していきます。誤りがバレないためにはどうしたらよいでしょう?ひたすら黙秘ですね!そのようにしてとにかく尻尾を掴まれないように、ということばかり顔色をうかがっては考えてしまいます。。

そのようなお子さんに対してこちらがまずやらなければならないことは、「この場ではむしろ自らの誤りや足りない部分を積極的に開陳しても、誰も責めないどころかむしろとても素晴らしい姿勢として肯定される!」という環境であることを徹底的に理解してもらっていくことから始めていかねばなりません。そのように、「誤り」をその子を攻撃する材料として使うのではなく、その子の中の誤りを一緒に楽しみ、その上でどのように改善していくか、という相談をしていく、という信頼関係を作っていくまでが本当に大変です(その信頼関係を築き上げては、誤りをオープンにしていくことが本人にとって実りあるものである、ということを理解してもらうまでにさんざん苦労する、という子が毎年塾でもいます)。

学齢期であれ、あるいは何歳になろうと「誤りを楽しむ」という姿勢はとても創造的な結果へと繋がる、と実感しています。この本の結びは、「誤り」に対して我が子の将来を心配するがゆえについつい誤りを叱責してしまう世の親御さんたちにとって一つの歯止めになりうる素晴らしい提言だと思います。

⑨さて、ということで長々と書いてきたのですが、本当に素晴らしい本なので、是非読んでいただけたら!

ということで終わらないのがこのブログ!!
ここからは僕がこの本にインスパイアされて考えたことをもうちょっとだけ書きたいと思います。

このブログでも何回か書いているように、教育というのはとても効率の悪い作業です。知識や理論の外部化によって、人類は本能を代替してきました。しかし、外部化する、ということはそれを新たな個体が生まれるたびに学び直さなければならないわけで、非常に時間がかかり、効率が悪いプロセスです。もちろん学問の進歩によって我々は「巨人の肩に乗る」ことができているわけですが、しかし、そもそも生まれた瞬間に脳みそにダウンロードできるような技術が発達すれば、あるいはそもそも脳みそを付け替え可能な何らかの記憶媒体で代替できるのであれば、このように「学習」とか「教育」という無駄なプロセスを必要とせずに、人間は生まれた瞬間から誰もがそこまでの学問の到達点を使いこなせる状態からスタートできるわけです。もちろん、それが技術的に可能なのか、という問題点は残るとしても、それが人類にとって理想である、という考え方もいずれ出てくるのかもしれません。

ただ、そのようなことが技術的に可能になったとしてもなお、僕はそれは人類にとって理想ではなく、むしろ絶対に忌避すべきことであると考えています。なぜなら、我々があたかも「個体発生が系統発生を繰り返す」かのように、種として外部化してきた知識や理論を個体として学びなおしていくそのプロセスにおいて、我々自身が磨かれていくだけでなく、その学んでいく対象としての知識や理論の中にある欠点が気づかれ、その疑問に対してどのように他のアプローチを考えていくか、ということを通じて外部化され蓄積されてきた人類の知識や理論自体が磨かれていくからです。

それはこの本の中で出てくる、「子どもの素朴な質問が鋭い」ということがまさにその可能性を示してくれていると思います。無数の個体が種として生物の外部に蓄えてきた体系をわざわざ個別に学び直していく中で、その体系自身の不完全さに気づき、それを何とか修正しようともがく個体も出てきます。そのような個体の努力で、今ある人類の学問体系自体が今よりもマシなものになっていく可能性を持っています(もちろん劣化する可能性もあります)。学習や教育というプロセスは仮に莫大なコストと時間がかかろうとも、何度も何度も各々の個体によってチェックされ、ときに致命的な欠陥に誰かが気づき、そしてそれがまた新たな理論として体系化されては進化していくために必要であるのです。

逆にそれらが生まれた瞬間に一瞬でダウンロードできて、誰もが共有できるものになったとすれば、仮にここまでの学問体系がどれほど高度に発達したものであったとしても、その中に含まれる「誤り」に我々は気づくことができなくなります。それは皆が共有している前提であり、その体系を学ぶ過程で自身の既存の理論からの演繹との齟齬を味わってきていないが故です。そのような停滞を許すことはまた、ベルクソン的にいえば我々知的生命がなぜ知性を持っているのか、という責任を放棄することにもなってしまうと思います。あるいは、ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物であるステパン氏の「一篇のシェークスピア(精神的価値)は長靴(物質的価値)よりも尊い!」という敢えての宣言をも裏切るものでしょう。(もちろん精神を持つ我々の生命は、何らかの精神的価値を生み出すためである、というこれらの定義が恣意的に過ぎないと感じるとしてもなお、そのような「停滞した」理論はやがて処理しきれない現実の前に大きな災厄を被らざるを得なくなっていくと思います。)

その点では、「子供の素朴だが鋭い疑問」は彼らの健全な成長に必要なだけではなく、私達人類がとりあえず今信じている学問体系自体が更に誤りを修正していくためにも、必要不可欠なものなのではないか、と思います。子どもたちの誤りを楽しむことは、決して「子どもたちの理解者であれ!」といった「子どもに優しい」大人であれ、ということではないのです。彼らの誤りを楽しむことは、私達自身の誤りを楽しむことでもあり、ひいては人類の誤りを楽しむことでもある。そのような態度からしか、新たなものは生まれ得ないのではないか、と思います。

逆に、子どもたちに「正解」を押し付ける、ということはすなわち、今は技術的にはできない「とりあえず正解を脳みそにダウンロード」を擬似的に行うような教育方法でしかなく、それは教育という極めてめんどくさいながらもしかし不可欠なプロセスを台無しにすることであるとともに、ゆくゆくはそのような教育を受けた子たちばかりが成長したら、「やっぱりいちいち誤りが出るよりは全部ダウンロードした方が効率よくない?」という意見がmajorityになってしまうようにも思います。この本は身近な我々の振る舞い方だけでなく、そのように教育という行為の意味についても考えさせてくれる(?だいぶ僕の妄想も入りましたが!)本であると思います。

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