
今年は現役生がだいぶ合格=進学しているので、塾の経営がやばいです!!
それでも合格してくれることには喜びしかない、というのもまた面白いところですね。
さて、ラーメンマニアなら誰でも知っている有名店主さんである渡辺樹庵さんが最近Youtubeを始められて、deepな話を毎回聞けるので僕もチェックしているのですが(話は変わりますが、テレビがこれだけ廃れて、Youtubeがこれだけ発達して芸能人もそこに参入して成功しているのは、一人一人の話を深堀りする、という番組がテレビではもうほとんど絶滅しかけている、ということにもよるのだと思います。最大公約数的に誰もが見るけど誰もが見たいとは思っていない番組を作っていった結果として、一人一人の話を深堀りできなくなったメディアが現在の末期症状的なテレビである、と思います)、その中で「目的来店型」と「衝動来店型」というラーメン屋さんの違いについて話をされていました。
おそらくこのワード自体はミシュラングルメガイドの三ツ星の定義が「旅の目的になるレストラン」というところからきていると思うのですが、コロナ禍で飲食店が苦境に立たされる中で、「とりあえず繁華街で人通り多いところでそこそこおいしくて入りやすいお店開いておけば儲かるでしょ!」といったお店が家賃の高さも相まって閉めざるを得なくなる中で、立地が悪かったり行列ができたりでハードルが高いけれどもそれでも「このお店じゃなきゃ食べられない!」というお店はこのコロナ禍でもその強みを発揮して、あまり影響を受けていない、というお話でした。
とても勉強になるとともに「嚮心塾も目的来店型を目指さなくては!」という気づきを得られて良かったです!
というところで終わると、「あれ?あいつ、とうとうあのうざい長文書けなくなったか!」と悲しまれるコアなファンの方も数人はいらっしゃると思うので、長々と書きますが、たとえばラーメン店にしても目的来店型になるためには、実は「おいしいラーメンを提供する」だけでは無理だと思っています。そこのお店で食べる、ということ自体が味はもちろんおいしいとして、その店主さんの仕事ぶりや空気感、お客さんの雰囲気、その他諸々が他では得られない特異的な体験であるからこそ、そのお店は「目的」になりうるわけです。
面白いのは、ここでそのようなラーメン店主は「感動体験!」を全く目的にはしていないところです。もちろんそういう「あざとい」お店も中にはあるのでしょうが、そういったあざといお店はそれほど感動もできなければ、目的にもなりえません。「お客さんに美味しいものを食べてもらいたい」「お腹いっぱいになってほしい」などといった彼ら彼女らなりの目的へと必死に邁進することが、彼らの「個性」を際立たせていきます(マックス・ウェーバーのSacheですね!)。そのような人生をかけた必死の努力の結果として、その日々の努力やその成果を感じるお客さんが店主さんのその個性を尊重するために、お店自体が一つの「場」としての力をもち、互いに配慮したり様々な不都合(行列が長い、とかサービスが悪い、とか愛想がない、とか)といったものを乗り越えて店主さんの努力している部分を評価し、味わおうとしていく、という表層の部分での評価基準を乗り越えようとする企てが生まれてくるわけです。
これを学習塾や予備校にあてはめれば、「俺の話を聞くと人生が豊かになるぞ!」「感動体験できるぞ!」というバブル期の予備校講師のような「人生の師」となりたがるような授業がその「あざとい」ラーメン屋さんにあたるのでしょう。一方で淡々と授業の質や指導の質、さらには自分自身の勉強を徹底的にやっている講師がいる塾において、もしそのような型に魂を込めることから自己の生き様が溢れ出てきているのであれば、それは「目的来店型」になるのかもしれません。たかがラーメンであるように、たかが受験指導です。そんなくだらないことから「人生に大切な何かを伝える」などと大上段に自己の営みを正当化することは不可能です。所詮は各々の、あるいはその親御さんの「受験勉強頑張っといたらその後より有利な人生を送れるでしょ!」というエゴイズムの道具として機能しているだけにすぎないからです。それが「教育」という衣をまとった瞬間から何らかの意味のある行為に見えてやりがいを感じてしまう教育者というのは、人々の共同幻想に甘えて自己規定をしているだけだと思います。もちろん、嚮心塾の場合は受験指導にとどまらず、様々な生徒の悩みや苦しみを引き受け、サポートしていくことをも目標にしてやっているわけですが、これもそれ自体は何かしらの価値があることではありません。彼ら彼女らに話す相手が周りにいなくて、たまたまそれをこちらが引き受けている、というだけのことです。まあ、「王様の耳はロバの耳!!!」と深い穴に向かって叫ぶ時、その穴が偉いのか、という問題ですよね。それを教師が「一人一人の誰にも言えない悩みを自分は引き受けられている!」といった自己肯定感の根拠としてしまうのは、他者を自らの存在理由に利用する、不誠実な生き方でしかないと思います。
しかし、そのようなくだらないことにも、人生を捧げて、必死に悩み抜き、努力を続け、その結果として生き様が溢れ出ることはできるかもしれません。ラーメンなんかくだらないのと同じで、教育なんかくだらない。ただそこに、人生を懸けないかといえば、懸けて必死に取り組むしかない。そのように考えています。いつか、嚮心塾が「目的来店型」になれるときのために、今年も必死に取り組んでいきたいと思います。
それでも合格してくれることには喜びしかない、というのもまた面白いところですね。
さて、ラーメンマニアなら誰でも知っている有名店主さんである渡辺樹庵さんが最近Youtubeを始められて、deepな話を毎回聞けるので僕もチェックしているのですが(話は変わりますが、テレビがこれだけ廃れて、Youtubeがこれだけ発達して芸能人もそこに参入して成功しているのは、一人一人の話を深堀りする、という番組がテレビではもうほとんど絶滅しかけている、ということにもよるのだと思います。最大公約数的に誰もが見るけど誰もが見たいとは思っていない番組を作っていった結果として、一人一人の話を深堀りできなくなったメディアが現在の末期症状的なテレビである、と思います)、その中で「目的来店型」と「衝動来店型」というラーメン屋さんの違いについて話をされていました。
おそらくこのワード自体はミシュラングルメガイドの三ツ星の定義が「旅の目的になるレストラン」というところからきていると思うのですが、コロナ禍で飲食店が苦境に立たされる中で、「とりあえず繁華街で人通り多いところでそこそこおいしくて入りやすいお店開いておけば儲かるでしょ!」といったお店が家賃の高さも相まって閉めざるを得なくなる中で、立地が悪かったり行列ができたりでハードルが高いけれどもそれでも「このお店じゃなきゃ食べられない!」というお店はこのコロナ禍でもその強みを発揮して、あまり影響を受けていない、というお話でした。
とても勉強になるとともに「嚮心塾も目的来店型を目指さなくては!」という気づきを得られて良かったです!
というところで終わると、「あれ?あいつ、とうとうあのうざい長文書けなくなったか!」と悲しまれるコアなファンの方も数人はいらっしゃると思うので、長々と書きますが、たとえばラーメン店にしても目的来店型になるためには、実は「おいしいラーメンを提供する」だけでは無理だと思っています。そこのお店で食べる、ということ自体が味はもちろんおいしいとして、その店主さんの仕事ぶりや空気感、お客さんの雰囲気、その他諸々が他では得られない特異的な体験であるからこそ、そのお店は「目的」になりうるわけです。
面白いのは、ここでそのようなラーメン店主は「感動体験!」を全く目的にはしていないところです。もちろんそういう「あざとい」お店も中にはあるのでしょうが、そういったあざといお店はそれほど感動もできなければ、目的にもなりえません。「お客さんに美味しいものを食べてもらいたい」「お腹いっぱいになってほしい」などといった彼ら彼女らなりの目的へと必死に邁進することが、彼らの「個性」を際立たせていきます(マックス・ウェーバーのSacheですね!)。そのような人生をかけた必死の努力の結果として、その日々の努力やその成果を感じるお客さんが店主さんのその個性を尊重するために、お店自体が一つの「場」としての力をもち、互いに配慮したり様々な不都合(行列が長い、とかサービスが悪い、とか愛想がない、とか)といったものを乗り越えて店主さんの努力している部分を評価し、味わおうとしていく、という表層の部分での評価基準を乗り越えようとする企てが生まれてくるわけです。
これを学習塾や予備校にあてはめれば、「俺の話を聞くと人生が豊かになるぞ!」「感動体験できるぞ!」というバブル期の予備校講師のような「人生の師」となりたがるような授業がその「あざとい」ラーメン屋さんにあたるのでしょう。一方で淡々と授業の質や指導の質、さらには自分自身の勉強を徹底的にやっている講師がいる塾において、もしそのような型に魂を込めることから自己の生き様が溢れ出てきているのであれば、それは「目的来店型」になるのかもしれません。たかがラーメンであるように、たかが受験指導です。そんなくだらないことから「人生に大切な何かを伝える」などと大上段に自己の営みを正当化することは不可能です。所詮は各々の、あるいはその親御さんの「受験勉強頑張っといたらその後より有利な人生を送れるでしょ!」というエゴイズムの道具として機能しているだけにすぎないからです。それが「教育」という衣をまとった瞬間から何らかの意味のある行為に見えてやりがいを感じてしまう教育者というのは、人々の共同幻想に甘えて自己規定をしているだけだと思います。もちろん、嚮心塾の場合は受験指導にとどまらず、様々な生徒の悩みや苦しみを引き受け、サポートしていくことをも目標にしてやっているわけですが、これもそれ自体は何かしらの価値があることではありません。彼ら彼女らに話す相手が周りにいなくて、たまたまそれをこちらが引き受けている、というだけのことです。まあ、「王様の耳はロバの耳!!!」と深い穴に向かって叫ぶ時、その穴が偉いのか、という問題ですよね。それを教師が「一人一人の誰にも言えない悩みを自分は引き受けられている!」といった自己肯定感の根拠としてしまうのは、他者を自らの存在理由に利用する、不誠実な生き方でしかないと思います。
しかし、そのようなくだらないことにも、人生を捧げて、必死に悩み抜き、努力を続け、その結果として生き様が溢れ出ることはできるかもしれません。ラーメンなんかくだらないのと同じで、教育なんかくだらない。ただそこに、人生を懸けないかといえば、懸けて必死に取り組むしかない。そのように考えています。いつか、嚮心塾が「目的来店型」になれるときのために、今年も必死に取り組んでいきたいと思います。



