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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

2021年度受験を振り返って(その1)

A・M(成蹊高3)日本獣医生命科学大学獣医学部合格(進学先)
        (ほか合格校:麻布大学獣医学部、北里大学獣医学部、北里大学海洋生命学部)

一度受験を諦めたことがある。中2の時、一度は高校受験をしようと予備校に入ったが、半年ほどで諦めて辞めてしまった。私は年がら年中体調を崩しているので、何度も授業を休んでしまい、授業についていけず、宿題も全然こなしきれない状況に限界を感じてのことだった。そもそも学校と学校の宿題だけであっぷあっぷしている自分に受験は無理なの
ではないかと思った。でも、大学でどうしても学びたい学問があったため、大学受験は諦めたくなかった。体力的に予備校には通えないし、どうしたものかと頭を悩ませていた時に嚮心塾に出会った。
私は中高とずっと定期テストでそこそこ良い点数をとり、そこそこの成績をもらい、本当に恥ずかしいことだが、なんとなく自分は勉強ができる気でいた。授業は真面目に聞いていたし、テスト勉強もそれなりには頑張っていたと思う。ただ、それらは本当に定期テストのためだけの、表面的でその場限りの暗記で乗り切っていたもので、本質的には全く、悲しいことに本当に何一つ理解してはいなかった。ということを突きつけられたのが高3の4月頃、本格的に受験勉強を始めた時だった。

私が嚮心塾に通い始めたのは高2の秋。まず英語の文法書を読むこと、数学の教科書を読むことを勧められ、塾に行っては少しずつ読み進めていたが、全く身が入っていなかった。というのも、私の学校は教科書反対派(?)の先生が多く、中学生の頃から耳が腐るほど「教科書を読むことには何の意味もない」「教科書を読むのは時間の無駄」と聞かされていて、見事にそう信じていたからだ。自分で教科書を開いて確かめようともしなかった私自身にも呆れるが、とにかく色眼鏡で見ていたので、姿勢の上で教材をめくってはいたが、全く真剣に学びつつ読んでいたわけではなかった。
そんな中、冬になり、大きく体調を崩し、パタリと塾に行かなくなってしまった。この間学校も行っていなかったので、4-5ヶ月の間、ほぼ全く勉強をしていなかったことになる。とにかく毎日一日中何もせず、ただひたすら寝て過ごしていた。少し調子が良く、体を起こせる日は文法書や数学の教科書をパラパラしてみてはいたが、勉強時間の内には入らな
いレベルだった。だんだんと体を起こしている時間が長くなり、きちんと勉強をし始めたのは高2の3月半ばだった。もう絶対受験には間に合わないだろうと思っていた。
そうこうしてようやく真剣に勉強を始めて、それでやっと気づいた。教科書も、文法書も、驚くほど分かりやすかった。例えば英語だったら、そもそも品詞になにがあるかや、OとCの違いすら分かっていなかった私は、自分のレベルの低さに初めて気づき、愕然とした。数学も本当に基礎的なことが記されている教科書を読むだけでかなりの時間がかかっ
てしまった。それから今に至るまで、受験生活は勉強すればするほどに、自分の出来なさ加減をつきつけられる毎日だった。一つの参考書や問題集を終わらせ、次に進むたびに、できることに比べて、出来ないこと、分からないこと、覚えていないことがいかに膨大にあるかを見せつけられた。なにより、中高約5年間、これまで勉強時間として割いてきた
時間がほとんど何も生み出してはいなかったこともショックだった。新型コロナにより学校が休校だったので、横になりつつの時間も含めてではあるが、毎日12時間程度は勉強するようになった。この勉強時間が確保できたのも柳原先生のおかげだった。机に向かうことが勉強と思っていた私に、横になってでも出来ることはたくさんある、と何が出来るかを考えてくださったのだ。勉強ができない日や、ほとんど机に向かえない日があっても勉強を続けられたのは、その言葉の支えがあったからだ。また、たくさん本を貸していただけたこともとても有難かった。普段自分では読まない分野のものが多
かったので、勉強になりとても面白かったし、気分転換にもなった。

学校が再開してから勉強時間はまた減ってしまったが、秋までそうして勉強を進めていた。ところが、10月に入り、またガクンと体調を崩してしまう。詳しい説明は省くが、私は高3の夏で体調は完全に良くなると信じていたので、かなりショッキングな出来事だった。なぜそう信じていたかといえば、今後ずっと自分の体調と向き合い続けなくてはいけないかもしれない、という事実を直視するのが怖かったからだと思う。そして、体調が良くなったら勉強時間ももっととれるし、より集中できるだろうから挽回できるかもしれない!という希望にしがみつきたかったのかもしれない。この時、やっと初めて自分の体調のことと向き合い、真剣に考えるようになった。これまで、自分の体調と勉強のことについて誰かに相談した時、反応は大きく分けて2パターンだった。ひとつは、体調を理由にするんじゃない、なんとか食らいついて勉強するしかない、というもの。もうひとつは、体調が悪いのだったら仕方がない、無理をしない範囲でやるのがいい、というもの。アドバイスは本当に有難かったが、結局自分はどうすればいいのか、という結論には全くたどり着けずにいた。いくら気力で頑張ろうともどうしても他の受験生に比べ、机に向かう時間は少なくなってしまう。一方で、何もしないで寝ているだけでは大学に受かるはずもない。受験本番が刻一刻と近づく中、どんどん焦る気持ちが大きくなり、私は考えがまとまらないままに柳原先生に相談のメールを送った。

この時までは、上記のような反応だったらどうしよう…と思うと怖くてなかなか相談できずにいたのだ。その後いただいた返事はとても丁寧かつ分かりやすく、今後私がどうすればいいのかが一気に明確に見えてくるものだった。正直、体調のことを前提にした上で、ここまで実践に無理がなく、かつきちんと勉強ができるアドバイスをいただけるとは思っ
ていなかった。驚いたし、大げさでなく、本当に感動した。また、ただただ他の勉強の相談をした時のように、あたかも勉強方法の選択肢として当たり前に存在するかのような対応をしてくださったこともなんだかとても嬉しかった。嚮心塾に通っていて、最も心に残っている出来事である。

過去問をやっと解き始めてからが一番きつかったように思う。解くたびに自分があまりにできないことに失望し、受験勉強においても結局自分がどれ程、分かったつもりでいたのかを突きつけられた。このままでは絶対にどこにも受からない…と思いながら、先生からアドバイスをいただきつつ、勉強の穴を埋めていった。受かりっこないのに何で今私は勉強しているのだろう…と思ってしまうことも多々あった。去年までだったら何もしないで寝ているような体調の時に勉強を続けることはそれなりに辛かった。どうせ現役合格なんてできないのだし、今年の受験を諦めて寝てしまいたい、体を休めたいという思いが何度も頭をかすめた。一方で、何もできずに寝ている時もそれはそれで辛く、他の受験生はきっと今この瞬間も必死で勉強しているのに。全然まだ自分の実力は足りていないのに。と、常に焦りが心を占め、やはり受験から何度も逃げたくなった。しかし、先生が真っ直ぐに私の体調のことと向き合ってくださっていたこと。それから、今後もこの体とともに生きていくなら、体調を崩すたびに全てを諦めて休んでいるわけにはいかないという思いが背中を押し、情けないことだがなんとか勉強をし続けられた。

これから、大学に入っても、なかなか周りの人と同じような勉強時間をとり、机に向かって勉強することはおそらく難しいと思う。だが、そこで無理に周りの人と同じようにやろうとするのでも、体調が悪いからいいやと全てを諦めるのでもなく、その時の自分にできる最大限の形を探して、勉強をし続けたいと思う。

最後になりましたが、嚮心塾に通っていなかったら、志望校に合格することはもちろん、きっと大学受験をすることすら叶わなかったと思います。柳原先生には本当にお世話になりました。心の底から感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。

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中学受験終了です。

お久しぶりです。1月末から2月頭は中学受験、高校受験、大学受験と忙しさが半端なかったです!!
ブログの方もだいぶ遠ざかってしまってすみませんでした。

今年は下の娘も中学受験だったのですが、結果は全て不合格でした。
塾の他の中学受験生は受けた学校は全て合格する!(doesn't mean 「すべての入試に合格する」)という順調ぶりだったので、その落差にとても可哀想なことになりました。もちろん他の受験生とは違って直前3ヶ月になって初めて頑張り出すという彼女なりの甘さがあったとはいえ、です。

ということを書くと同情を誘っているようで難しいのですが、この結果自体はあまり大したことではないと僕は考えています。大切なのは勉強の力をつけること、その上で今回できたことと出来なかったこととをしっかりと反省し、次に繋げていくことです。もちろん娘にとっては大きな挫折であり、それが彼女が次に何かを努力しようとする意志を挫くことになるかもしれませんが、それでも確かなものはその苦い思いも含めて彼女の中に残ったはずです。それはやはりこの3ヶ月必死に頑張ったことの成果であると思います。

学部生のときに思想史のゼミでジャン・ジャック・ルソーの話が出たことがあります。そのとき、ゼミの教授がルソーの思想(の彼なりの解釈)をけなして、「所詮、自分の子供を5人も捨てるやつ(ルソーは5人の子供を孤児院に入れています)にまともな思想なんかあるわけがないんだ!」と言ったのを聞き、その当時の僕は「このバカ(その教授のことです)は思想史を扱っているはずなのに、こんな短絡的なことしか言えないのだな。むしろルソーは時代を超えるradicalな思想があるからこそ、自分の子供との生活を諦めざるを得なかった、という側面が強いのに。」と強く反感を覚え、反論したことがあります。もちろんそれが、その頭の悪い教授に伝わるべくもなかったわけですが。

ヨーロッパ中から「人類の敵」として迫害されたルソーと我が身を比べるのはとても気が引けるのですが、僕自身が家庭を持ち、子供を育て、そしてその子供に自分が残すことのできる唯一の財産としての教育をしてあげよう!と思っても、僕には塾生よりも我が子を優先することはできないものでした。もちろん人類よりも我が子を優先できないルソーと比べれば、「まだお前は小さなコミュニティに閉じこもっては、その内部を照らそうとしているだけだろう!!まだ「見返り」があるだろ!」と叱られる程度のことではあるのですが、それでもこのような僕に家庭をもつ資格はあるのか、子供を育てる資格はあるのか、ということは常に自問自答し続けている日々です。

精子が卵子と結びついたときにブワッと広げる膜によって、受精卵は他の精子の侵入を排除することで閉ざされた内部の中での生命を維持します。そのような無数の暴力的に外界を排除する「受精卵」に似た、家庭や会社、同窓会、国家、その他の閉じた内部の中でしか生きていけない、いや、生命そのものがそのような外界の暴力的な排除からしか始まらない我々にとって、「思いをやる」ということは果たして可能なのでしょうか。太宰治が『家庭の幸福』で描いたような、内部の幸せのために外部の不幸を遮断するしかない無力な我々が、それでも外部の不幸に何とか目を向けようとしていくことは、内部の幸福を外部に分け与えようとしてもビル・ゲイツや前澤社長ですらどうしようもなく無力であり、結局は外部の不幸をどこまでも内部に取り入れていくことでしかないのだとしたら、どこまで外部の不幸を取り入れていけばいいのでしょうか。あるいは外部の不幸を取り入れることは内部が幸福であることの免罪符として利用してよいものなのでしょうか。

高校生の時、生物を勉強していてそのようなイメージを得たときから、僕はずっとその答を探してきました。自身が家庭であれ、あるいはもう少し大きな集団であれ、閉じた内部を満たすことはたやすいと気づいたときから、「閉じているようで開いている」共同体を、そしてそのためにもまずはそのような自分自身であることを目指してきたつもりでした。

しかし、そのようなイメージから悩んではあれこれ25年以上やってきたつもりでも、閉じすぎてしまったり、開きすぎてしまったりの失敗の毎日です。閉じるべき瞬間に閉じることなく、周囲の人間につらい思いをさせ、開くべき瞬間に開ききれずに結局見殺しにせざるを得なかったりしています。その失敗ばかりの愚かしい自分が、また一つ自分の娘を傷つける、というのは「中学受験は結果ではなく過程である」としてもなお、その事実のradicalさに感情がついていかない娘にとっては、単なる暴力でしかないでしょう。

そのような暴力的結果を引き起こしてもなお、「だからこれからはやはり家族のことだけ考えていきます!」とか「これからはやはり塾生のことだけ考えていきます!」としたくはありません。完全に閉じた共同体は、その外にとっては無意味のものでしかないからです。もしそのように暴力的に外部を排除することから始まる私達の生命に何らかの意味があるのだとすれば、そこから思いをやることの起点となりうる、ということだと思います。それはまた、同じ学部生の頃にベルクソンの『創造的進化』を読んだときに感じた頭での理解よりもなお、失敗に失敗を重ねては、自分の無力さや情けなさを噛み締めざるをえなくなった今だからこそ、強く思っています。

私達がどのような暴力にも全く加担することなく生きることは、どのように能力があり、どのように広く深く世の中を見渡すことのできる人間にとってもなお、不可能であるのだと思っています。であれば、私達はどのような暴力には加担せざるを得ないか、しかしそれは同時に暴力でしかない、という事実に罪の呵責に耐えながらも直視し、考え、修正を加えては何とかその暴力をより小さくしていくことしかできないのではないか、と考えています。他者の暴力性を告発することも特にそれがマイノリティの地位向上に資するのであればとても重要であるのですが、他者の暴力性への批判が自らが加担し続けている暴力を直視しないことに繋がるのであれば、それは本末転倒です。

5人の我が子を捨てざるを得なかったルソーに比べ、我が子を一応は育てている我々が、ルソーよりも我が子に恥じない生き方が出来ていると言えるのか。僕にはどうにもその自信はもてません。戦うべき社会の不正義と戦えているのか。我が子を、あるいは塾生を育て鍛えることを、今目の前にある不正と戦わない理由にはしていないだろうか。あるいは今回の娘の受験のように、「外」を引き受けてそれを何とかしようとしていくことを、「うち(内・家)」へと暴力を振るう理由にはしていないだろうか(これはまた、志あるNPOや社会的企業がブラックな労働環境になりがちなのも同じですね)。自らが加担し続けている暴力から目をそらさずに生きていく、というのは本当に困難なことです。どちらの方向にも、暴力しかないからです。

それでもルソーに限らずそのように引き受けて生きようとする全ての有名無名の人が存在する、という事実に僕は勇気づけられ続けています。自分も塾生や子どもたちにとって少しでも勇気づけられる存在になれるように、たとえ失敗や恥は多かろうと、自らの加担し続けている暴力性を絶えず直視しては少しでもそれを減らそうともがき続けることを諦めないように、これからも頑張っていきたいと思います。

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